強い雨の音で目が覚めた。カーテンの外はもう明るくなっていた。天気が悪い休日に急いで起きることもないかと布団の中でまどろんでいると、一時間ほどが経過していた。雨の音は雷鳴を帯びてさらに激しく……、いや、硬くなっていた。
起き出して部屋のカーテンを開けてみた。降っていたのは氷の塊だ。もしかして、ひょう?
とりあえずテレビをつけた。どうやらみぞれやひょうがところどころで観測されているらしい。そしていっとき収まったあと、今度は大きくて不恰好なぼた雪が降り出した。午後から晴れるって言うけど、この寒さじゃ出る気になれない。
3月も半ばを過ぎた日に、東京で雪が降るなんて。
こんなのを「なごり雪」って言うんだろうか。卒業式が終わったばかりで、大好きだったあの学校にもう行けない私にぴったりだ。この雪が私の淋しさを知って名残惜しんでいるんだろうか……なんて、思ってないけど。
「なんか食べなきゃ」
パンを一枚持ってきてフレンチトーストを焼く。紅茶も淹れよう。お湯を沸かしてティーバッグに注いだ。もう朝食とも昼食ともつかない時間になっていた。
平穏な高校生活だった。思えば壮絶ないじめにも遭わず、非行に走ることもなく、苛烈な受験戦争に参加することもなく、軟着陸で卒業を迎えた。
フレンチトーストをかじると、体のうちに熱が灯るのを感じた。
「おいしい」
いつも買っている食パンと、いつも売っている玉子があれば、いつでも作れるフレンチトースト。毎日食べても飽きない。どころか私はこれがなければ目が覚めない。大好物と言っていい。これが食べられる限りにおいて、日本人は豊かだ。少なくとも私は。
自らの手で料理をしているという充実感と大好物を食べられるという幸福感を朝の10分間で享受できる私は、世界一安上がりなブルジョワジーだ。これほど無敵な幸福論が他にあるか。あるなら持ってこい。余は反論を受け付ける。ただしすべて却下だ。
朝食を食べている時はいつもこんな考えが頭を巡っている。たった一人の専制君主。理想はいつもラブアンドピース。
ヴーン……。ヴーン……。
スマホが鳴っている。見るとメグからのアプリ通話だった。なんで通話? 私は口の中の熟成肉を紅茶で流し込んだ。
「もしもし? メグ?」
「あ、キーコおはよー! まだ寝起き?」
メグの声だ。昨日涙の別れをしたから懐かしさすらある。
「んー、いま神への供物を食べてるとこ」
「また朝ごはん食べながら夢見てたの?」
メグとはこの冗談が通じるぐらいには仲良しだ。
「てか、なんで通話?」
普段はメッセージでしかやり取りしないのに。
「や、ちょっと手が冷たくて、スマホ画面打てなくてさ、きゃっ」
さっきから雑音がひどい。外にいるのかな。
「なに? どうした?」
「なにってほら! 雪! 雪だよ!」
反射的に窓の外を眺めた。雪はもう止んでいた。
「さっきまで降ってたね。え、外にいるの? 寒くない?」
「だから雪積もってるんだって」
「そんなわけないでしょ。道路見えるけど、全然積もってないよ」
「いいから学校来てよ。早くしないと溶けちゃうよ」
わずかばかりの雪で雪遊び? 学校まで行って? 寒いよ。それにせっかく何もない休みなのに。
「ええ〜、寒いよ。やだよ〜」
「なに言ってんの。授業もなくて宿題もない休みなんて、いまだけなんだよ! アカリ、ミッチャもいるから。最後に思い出作ろうよ〜」
そう言われてもまだ私は渋っていた。でももう一日だけあの校舎に行く理由が作れたなら、行くに決まってる。
学校にたどり着くと、校庭には雪のかけらも残ってはいなかった。メグたちと一緒に大笑いした。
3/19/2025, 2:54:40 AM