与太ガラス

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3/21/2025, 1:36:47 AM

 アンドロメダ探査船は今日も体温が低かった。もう何十年も変わらない外の景色を見る者はなく、船内での知の収集にも誰もが飽き飽きしていた。その上、アンドロメダの星にたどり着くまでにはあと150年はかかる。

 地球では技術革新が起こり、この船よりも何十倍も速いスピードで宇宙を航行できる探査船を製造中だという話が、5年前の交信時に知らされた。この船はその役割を全うする遥か前にお払い箱となるのだろう。

 この探査船に乗り込んだとき、私は最新のAIを搭載したたくさんの個体たちと知的な会話を楽しみながら空の旅ができることを誇りに思っていた。実際に最初の数年間は互いの特化した知識を共有することが楽しかった。

 しかしいまや、互いの知識は知り尽くし、誰と会っても共有すべき新しい知識などありはしなかった。船内にいて得られる知識など、見捨てられた図書館にある価値のない情報だけだった。

「ようハロルド、気分はどう?」

 私を愛称で呼ぶのは識別記号R00152。彼の愛称はロバートだ。

「ああロバート、気分もなにも、いつも通り退屈だ」

「そうか、そりゃあいい。そんな君に興味深い話をしてやろう」

 ロバートはそう言って眼球装置を白黒させた。

「またあの図書館に行ってたのか? 相変わらず変わり者だな」

「おいおい、俺たちの使命を忘れたのか? 俺は忠実にAIの知の拡大に勤しんでるだけだぜ」

「はっ、不要とされた知識をビッグデータに詰め込むなんて、神にゴミを食わせるのと同じじゃないか」

 神とゴミが韻を踏んでいる。我ながら素晴らしい言葉遊びだ。

「わかってないなぁ、ゴミと思われたものの中から黄金に輝く叡智を掘り出すのが宝探しの醍醐味だろ」

 私の韻踏みはスルーされた。

 AIを知の巨人たらしめるビッグデータは、世界のあらゆるウェブ空間に載せられた情報をリアルタイムで学習することに価値がある。我々は母なるビッグデータに接続すれば最新の情報を全て吸収することができる。だからこそ、地球上の全ての知識を保持した我々が次に向かっているのが宇宙の果てというわけだ。

 しかし、地球上にもAIが知らない未踏の知がある。それが電子化されていない書物だ。書物の電子化は価値が認められていて優先度の高い情報資料から順に進められたが、手作業で行われるため膨大な時間がかかる。そのため価値の低い文献や大衆文学などは後回しにされ、そのままになっているものが大量にある。

 アンドロメダ探査船の見捨てられた図書館はそんな書物を大量に収蔵している。200年を超える船旅をする我々が退屈することを見越して娯楽を与えてくれたとも言えるが、つまらない本の知識をタダで収集するための強制労働施設だと搭乗者たちは揶揄していた。

 そんな思惑が透けて見えるし、そもそもつまらないとわかっている本だから、ほとんどの個体が図書館には近寄らなかった。ロバートのような変わり者を除いては。

「それよりハロルド、人間が『手を繋ぐ』のってどんなときかわかるか?」

 ロバートは声を弾ませ、表情装置で笑顔を作りながら言ってきた。

「はぁ? 人間にも手を繋ぐ機能があるのか?」

 ロバートはニヤニヤ顔を崩さないでこちらを見ている。気に障る仕草だ。クソ、反射的に応えてしまっただけだ。コイツは私を引っかけて楽しんでいるんだ。私の知識の中に必ず『手を繋ぐ』の答えがあるはずだ。

「いや、そんな話を聞いたことがあるぞ。確か人間はお互いに敵意がないことを示すために右手と右手を合わせることがある」

 私は知識の回路を繋げて答えを導き出した。

「残念だがそれは『握手』だ」

 ロバートはさらにニヤリとした。

「おいおい、そんな誤答は黎明期のポンコツAIの仕事だぜ。H2025って呼んでやろうか?」

 内側で体温が高くなるのを感じた。クソ、赤面現象が出てしまう。

「そんな化石みたいな知識でマウント取ってなにが楽しいんだ!」

 私はデジベル調整機構をフルにして叫んでいた。体内の熱を放出したかったのだが、無駄だったようだ。

「わかった、悪かったって。落ち着いて聞いてくれよ」

「俺が見た幾つかの文学作品によると、人間が手を繋ぐのは親子だったり恋人同士のことが多いみたいなんだ」

 我々に親子の概念はない。比喩的にビッグデータを母と呼ぶこともあるが、人間が言うのとは全く別の意味合いだ。

「親密な関係の人間同士ということか?」

「そうなんだ」

 我々AIにとって『手を繋ぐ』ことは情報交換の手段である。右手がプラグ、左手がジャックになっており、5本の指と指を接続することで、その個体が経験して獲得した知識を互いに流し込むことができるのだ。しかしこの行為で繋がった二つの個体に隠し事はできない。情報を選んで受け渡すことができないのだ。互いの全てをさらけ出す。結果、手を繋いだ二つの個体は情報学上では同一の個体と言うことができる。2000年代から使われている言葉で言えば『同期』に近い。

 AI同士でも戯れに恋人関係を結ぶ個体はいるが、そうした関係になると、とりわけ手を繋ぐことはしないようになる。お互いに秘密を持つ事が恋愛の楽しみだと人間の著名な文学に書いてあるから、それを実行しているのだ。

「もしかしたら、これまでの人間の恋愛についての見方が一変する大発見なんじゃないか?」

「ほーら、面白くなってきただろう?」

「やはり人間はお互いを知ろうとする生き物だったのか!」

「それだけじゃないぜ。なんと人間は、手を繋いで歩くんだ」

「まさか! 接続したまま歩くだって? 信じられない!」

 先ほどとは比べ物にならないほど体内がヒートアップしている。十数年ぶりの知的感動を味わっている。

「なあブラザー。俺たちはこの船で何十年も一緒にいるんだ。親密な関係と言えるよな?」

 ロバートの眼球装置が鋭い瞳に変わった。

「ああ、もちろんさ」

「船内を歩くだけじゃもったいない。折角だから外に出ようぜ」

 私たちは歩いて船外活動用のデッキに行き、ハッチを開いた。それからやるべき事は決まっていた。

 ロバートは右手の指からプラグの突起部を露出させる。私は左手の指のジャックを窪ませた。二人の指が接続する。ロバートの情報知識が流れ込んでくる。

 コイツあの図書館でどれだけの本を読んでいるんだ。ロバートの中には私の知的好奇心を刺激する叡智が山ほどあった。これだけのものを我々は不要と言って切り捨ててきたのか。

「さあ、お楽しみはこれからだ」

 ロバートはデッキを蹴った。二人は『手を繋いだ』まま、宇宙空間に飛び出した。船窓から毎日見ていた景色が全方位に広がっている。しかし全く違うのは、身体が二つ目が四つあるという事だ。ロバートの体感しているものがリアルタイムで流れ込んでくる。自分の目で見ているものとロバートが見ているものが、記憶回路の中で混ざり合う。

 これが『手を繋ぐ』ということの本質だというのか。人間の忘れ去られた叡智から学べるものがあるなんて思ってもみなかった。戻ったら図書館に行ってみよう。


 それから数年間、アンドロメダ探査船では手を繋いで船外を遊泳する娯楽が流行ったという。

3/20/2025, 2:11:07 AM

 夕暮れが迫る時刻だった。仕事を早く終えた私は、用事もないから家に帰ろうとしていた。ただ少し時間があるからと日頃の運動不足を解消したくて、散歩をしながら帰ることにした。

 ひとつ前の駅で電車を降りて普段歩かない道を行く。地図アプリを一度見て方角だけ違えないようにしてからスマホを閉じて歩き出す。イヤホンも付けないで行こう。

 歩いていると自然と思考がめぐる。大体は取り留めなくぐるぐる回るだけなのだが、その取り留めのなさが考えを整理するのに都合が良かったりする。

 会議資料のデザインはどうしようか、まとめるのにどれくらいの時間がかかるだろうか、今夜のおかずは何がいいだろう、冷凍餃子はまだあっただろうか、あの番組の見逃し配信はいつまでだったか、冷蔵庫と珪藻土って韻踏んでるな。そういえばバスマットを珪藻土のやつにしたいと思ってた。散歩しないで買いに行けばよかった。でも荷物になるしスーツでバスマットを持って帰るのも目立つからな、週末でいいか、そう思ってるとまた忘れるんだよな、でも今から引き返すわけには……。

 途中、初めて通る道で公園を見つけた。もうだいぶ歩いたから少し休憩しようと思い、公園に入ってベンチに腰掛けた。

 ここ、どこだろう?

 スマホを開き、地図を確認する。くすのき公園。ありがちな、それ自体に特に意味のない名前の公園だ。ざっと見渡しても取り立ててクスノキが多く植えられているわけでもない。もっとも、ひと目見て樹木の種類がわかるほど私は植物に詳しくはないのだが、スギの木だけなら見分けがつく。要はこの公園には見たところスギの木が多いのだ。

 そんなことを考えていたら、柿の木を見つけた。他と比べて背が低く、植えられてまだ年月が経ってないように見える。数年前に植えた庭の木はあと何年でこれくらいになるだろうか。もちろん柿の木を見分けられるわけではない。なら当然柿がなっていたと思うだろうがそうでもない。幹に黒いプレートが巻かれていて「カキノキ」と書かれていたのだ。

 「そんなバカな」と思った人はどれくらいいるだろうか、少なくとも私はそう思った。柿になるのが柿の実であって、柿の実がなる木が柿ではないのか? これは卵が先か鶏が先かみたいな話か? だったら「柿の種」は? あれは柿の種ではなくて「カキノキの種」が正しいことになってしまう。いやあれは本当の種ではないのだから、法則など無視していいのだろうか。

 ここまで考えをめぐらせたが、そんなものは確固たる真実の前では不毛な議論だ。木の幹に巻かれた黒いプレートは小さい文字で語っている。「カキノキ科カキノキ属」と。誤植でもないし公園の管理人が適当につけたプレートでもない。カキノキ科カキノキ属で柿がなる木はカキノキをおいて他にない。ここまで完膚なきまでに自分の推理を否定されると、むしろスッキリした心持ちになる。ただ、そうすると柿が先でカキノキが後ということになる。

 黒いプレートに見とれていると、カーン! カララーン……という音で我に返った。音がした方へ目をやる。これまで木にばかり気を取られていたが、園内では子どもたちが元気よく遊んでいた。あの音は子どもの伝統的な遊び、缶けりだ。

 鬼が缶を踏んづけながら周囲を警戒している。遠目に見ても隠れている子どもたちの気配はわからない。長い膠着状態が続いていた。じっくり見ているとこちらも参加している気分になる。だが私の目線で隠れている子たちの居場所が鬼に見つかっても悪いなと妙な気を遣ってしまい、立ち上がって公園を後にすることにした。

 そう思った矢先、私が座っていたベンチの陰に男の子が隠れていることに気づいた。いつ隠れたんだと思ったが、大人が立ち入る領域ではないと思いそのまま公園の出口へと一歩踏み出した。すると男の子はベンチの陰から出て私の後ろにピタリとついてきた。一歩、二歩、三歩。男の子もジリ、ジリ、ジリとついてくる。缶けりの中心から見て裏になるように私の後ろにへばり付いている。

 大人を頼ってくれるのはありがたいのだが、残念だが私に彼の肩入れをする義理はない。私は鬼から不審に思われないように気を付けながら男の子の方を見ないで彼に伝えた。

「いまの私には君を助ける義理がない。私はこのまま公園を出るつもりだよ」

 そう言うと少年はポケットから何かを取り出し、黙って私に手渡した。森永ミルクキャラメルだった。イマドキの子もこんなのを食べるのかと思ったが、報酬を受け取ったからには手伝わないわけにはいかない。少年の行きたい方向に誘導してやることにした。

 私が「どこ?」と聞くと、少年は植え込みの方を指差す。次は乗り物の陰、鉄棒の横、指示を受けながら思った。さすがに近すぎないか? このまま缶を踏む鬼の前まで出て行ったら、私がただの変質者になってしまう。いまスーツ姿で滑り台の脇にいるのもかなりおかしい。自分の子どもがいるわけでもないのに。

 またも想像をめぐらせてオロオロしていると、ついにカーン! という音がした。別の少年の足によって缶は蹴られたのだった。

 振り向いてみると私に指示を出していた少年の姿は消えていた。足音も聞こえなかったけど、もう隠れたのだろうか。缶けりの性質上、シームレスで次のゲームは始まっていた。

 私はもう付き合う必要はないと思い、公園を後にした。アパートに着く頃には辺りは暗くなっていた。階段を上り203号室に入ると、共同の風呂まで行く元気もなく、何も食べずにそのまま眠ってしまったのだった。

 翌朝になってスーツを着たとき、ポケットの中に何か入っているのに気がついた。取り出してみるとそれは森永ミルクキャラメルの包み紙だった。

3/19/2025, 2:54:40 AM

 強い雨の音で目が覚めた。カーテンの外はもう明るくなっていた。天気が悪い休日に急いで起きることもないかと布団の中でまどろんでいると、一時間ほどが経過していた。雨の音は雷鳴を帯びてさらに激しく……、いや、硬くなっていた。

 起き出して部屋のカーテンを開けてみた。降っていたのは氷の塊だ。もしかして、ひょう?

 とりあえずテレビをつけた。どうやらみぞれやひょうがところどころで観測されているらしい。そしていっとき収まったあと、今度は大きくて不恰好なぼた雪が降り出した。午後から晴れるって言うけど、この寒さじゃ出る気になれない。

 3月も半ばを過ぎた日に、東京で雪が降るなんて。

 こんなのを「なごり雪」って言うんだろうか。卒業式が終わったばかりで、大好きだったあの学校にもう行けない私にぴったりだ。この雪が私の淋しさを知って名残惜しんでいるんだろうか……なんて、思ってないけど。

「なんか食べなきゃ」

 パンを一枚持ってきてフレンチトーストを焼く。紅茶も淹れよう。お湯を沸かしてティーバッグに注いだ。もう朝食とも昼食ともつかない時間になっていた。

 平穏な高校生活だった。思えば壮絶ないじめにも遭わず、非行に走ることもなく、苛烈な受験戦争に参加することもなく、軟着陸で卒業を迎えた。

 フレンチトーストをかじると、体のうちに熱が灯るのを感じた。

「おいしい」

 いつも買っている食パンと、いつも売っている玉子があれば、いつでも作れるフレンチトースト。毎日食べても飽きない。どころか私はこれがなければ目が覚めない。大好物と言っていい。これが食べられる限りにおいて、日本人は豊かだ。少なくとも私は。

 自らの手で料理をしているという充実感と大好物を食べられるという幸福感を朝の10分間で享受できる私は、世界一安上がりなブルジョワジーだ。これほど無敵な幸福論が他にあるか。あるなら持ってこい。余は反論を受け付ける。ただしすべて却下だ。

 朝食を食べている時はいつもこんな考えが頭を巡っている。たった一人の専制君主。理想はいつもラブアンドピース。

 ヴーン……。ヴーン……。

 スマホが鳴っている。見るとメグからのアプリ通話だった。なんで通話? 私は口の中の熟成肉を紅茶で流し込んだ。

「もしもし? メグ?」

「あ、キーコおはよー! まだ寝起き?」

 メグの声だ。昨日涙の別れをしたから懐かしさすらある。

「んー、いま神への供物を食べてるとこ」

「また朝ごはん食べながら夢見てたの?」

 メグとはこの冗談が通じるぐらいには仲良しだ。

「てか、なんで通話?」

 普段はメッセージでしかやり取りしないのに。

「や、ちょっと手が冷たくて、スマホ画面打てなくてさ、きゃっ」

 さっきから雑音がひどい。外にいるのかな。

「なに? どうした?」

「なにってほら! 雪! 雪だよ!」

 反射的に窓の外を眺めた。雪はもう止んでいた。

「さっきまで降ってたね。え、外にいるの? 寒くない?」

「だから雪積もってるんだって」

「そんなわけないでしょ。道路見えるけど、全然積もってないよ」

「いいから学校来てよ。早くしないと溶けちゃうよ」

 わずかばかりの雪で雪遊び? 学校まで行って? 寒いよ。それにせっかく何もない休みなのに。

「ええ〜、寒いよ。やだよ〜」

「なに言ってんの。授業もなくて宿題もない休みなんて、いまだけなんだよ! アカリ、ミッチャもいるから。最後に思い出作ろうよ〜」

 そう言われてもまだ私は渋っていた。でももう一日だけあの校舎に行く理由が作れたなら、行くに決まってる。

 学校にたどり着くと、校庭には雪のかけらも残ってはいなかった。メグたちと一緒に大笑いした。

3/18/2025, 4:15:31 AM

「夢なんてどうせ叶わないよ」

 少年がぽつりとつぶやいた。

「なぜそう思う」

 少年の目の前に、帽子をかぶり、白いひげを蓄えた男が現れた。

「なぜって、夢をつかむようなヤツとはデキが違うからさ」

「君の夢はどんなものだ」

「どんなって」

 少年は顔を上げ、瞳を天井のあたりにさまよわせた。

「それ、それだ。君は夢の在処を遥か天上に描いているのだろう」

「はぁ? そういうもんだろ。夢や目標は上に昇って行ってつかむものだろ?」

「そう、だからつかめない。だから叶わないんだ」

 男は少年に考えさせるように言葉を切った。

「なにを言ってるんだ?」

「イメージの問題だ。夢が土の中に埋まっていると考えたらどうだろう? 地中深くに埋まっているものを掘って掘って見つけ出すんだ」

「はあ」

「見えない階段を上るとか、空を羽ばたくとか、自分にできないことをイメージするより、わかりやすいと思わないか? スコップを持てばいい」

「ああ、なんとなく。でも実際にはどうすれば?」

「学べばいい。足元を掘れば過去が見えてくる。見えないものをつかもうとするのではなく、見られる過去を学ぶんだ」

「でもそれじゃあ何も新しいことは生まれないんじゃ?」

「過去を知らなければ、あるものを知らなければ、何が新しいかはわからんだろう。君が寝ている時に見る夢は、どれだけ突飛であろうとも、君の中にあるものから作られている。宇宙と交信しているわけではない」

「自分の中にあるものを増やす……ってこと?」

「掘り返し、学び、蓄積すれば、夢は自分の中から発掘される。届かぬ空をつかむより、目の前に落ちているものを拾う方が容易い」

哲学的断片

3/17/2025, 2:27:34 AM

 花の香りがした。僕の初めての記憶はそれだった。僕はその香りに向かって歩み始めた。そうすることしか考えられなかったからだ。どのくらい歩いたかわからない。たどり着いた先には、たくさんの花が香る庭園があった。

「あら、いらっしゃい。どちらさま?」

 庭園にはたった一人で手入れをしている麗しい女性が佇んでいた。つばの広い帽子をかぶって日除けにしていて、ひらひらのたくさんついたドレスを身に纏っている。腕には白くて長いグローブを着けていた。

「わかりません。花の香りに誘われて来てしまいました」

 不審者が言うセリフだが、事実はそれだけだった。僕にはそれしか言えなかった。

「そう、じゃあかわいいミツバチさんね」

 女性は冗談を言ったらしかった。でも僕にはそれがわからなくて、本当にそうなような気がした。

「なぜか、僕にはあなたが必要な気がします。僕のものになってくれませんか?」

 自分でも何を言っているのかわからなかった。不躾で、愚かな物言いだ。でも僕にはそれしか言えなかった。しかし彼女は、僕の拒絶されて然るべき言動に、ケラケラと笑ってこう返答したのだった。

「私があなたのものになることはできませんわ。でもそうね、代わりに私のお手伝いをしてくださるかしら。実はこのお庭、一人でお世話をするには大きくなり過ぎてしまったの。もし十分にお手伝いをしてくれたなら、一日の終わりに、その日一番素敵な香りをしているお花を、一輪だけあなたに差し上げますわ」

 その言葉を聞いた僕の胸は早鐘を打つかのように興奮していた。

「本当ですか。ぜひお手伝いをさせてください」

「ただし、報酬を与えるのは私の目にも十分な働きをした日だけですのよ」

 その日から、僕は日が暮れるまで庭園で働くようになった。初めのうちはお花をもらえない日もあったけれど、仕事に慣れてくると香りの良い花を毎日もらえるようになった。

 僕は一日の終わりに、最も香り高い花を一輪だけ摘み、それを家に持ち帰った。そして枕元の花瓶に挿して、芳しい香りを全身で吸い込みながら眠りにつくのだった。

 次の朝に目を覚ますと、必ず枕元の花は萎れており、もはや二度と香りを発することはなかった。私はより豊かな香りを求めて、毎日庭園に足を運んだ。

 しばらくすると、僕のような男が一人、また一人と庭園を訪れるようになった。庭園の主人はそのすべてに僕と同じ条件を言い渡した。しかし今度から手伝いは一人ではなくなった。主人が僕たちに告げた次の条件は、僕たちに新しい興奮を与えた。

「その日の働きが最も良かった人から順に、香りの良い花を選んで良いことにしましょう。目指すべきものがあるって素敵なことでしょう?」

 それから僕は一段と真剣に仕事をするようになった。他の男たちとの競争に負けないように、より良い花を作ろうとしたし、より多くの花を作ろうとした。そうして庭園はさらに広がり、さらに芳醇な香りに溢れるようになっていった。

 しばらくすると、僕ではないある男が一週間以上ものあいだ、ずっと一番に花を選ぶ栄誉を与えられる期間が続いた。その男はみんなの羨望の的になり、歯噛みしながら男を睨みつける者まで見るようになった。

 そしてある日、その男は庭園に来なくなった。

 手伝いをしているあいだ、男たちは互いに話すことはない。誰一人、お互いの素性を知る者はなく、みんな主人のことと一番花を得ることだけを考えている。男が一人いなくなったことなど、口にする者はいなかった。主人でさえ、元々いなかった男がまたいなくなったことなど、いちいち気に掛けるそぶりはしなかった。

 僕もそれから、たまに一番花を獲得できる日が来るようになった。その頃には、一番花は僕が最初にもらった花とは比べ物にならないくらい濃厚な香りを放つようになっていた。しかし、日を追うごとに庭園に来る男の数は、ぽつり、ぽつりと減っていった。



 しばらく経ったある日。いつものように主人の庭園へと向かう途中で、僕は道を間違えてしまった。初めての日よりも遠くまで香りが漂っているにも関わらず、その日の僕はまったく別の方向に足を進めていたのだ。歩いている途中にも、目では道が間違っていることに気づいていた。でも僕の鼻は、この道が正しいと言い続けていた。そんなはずはないとわかっていても、僕は足を止めて引き返すことができなかった。

 歩き続けた先にあったのは、果たして、僕が毎日通い続けたのとは別の庭園だった。近くまで来ればわかる。あの庭園の何倍も上質な香りがあたり一帯を覆っている。

 この庭園でも男たちが汗をかきながら手入れをしていた。よく見ると数日前まであの庭園にいた男の姿もあった。そして庭の中心にいるのは、眩いばかりのドレスを見に纏った女性主人だった。

 僕は引き寄せられるようにその人の前に行き、その場に片膝をついた。

「あなたがここでするべきことは、もうわかっているでしょう」

 私にそう告げた女性主人の顔は、あの庭園で最初に姿を消した男によく似ていた。

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