与太ガラス

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3/8/2025, 1:32:21 AM

 休日の午後、通い慣れたジムのドアを開けると、静かな中にいくつものトレーニングマシンが一定のリズムで動く音が聞こえてきた。この空間にいる人は、黙々と自分の肉体との対話を行っている。

私はカナデと一緒にウォーミングアップを行い、それぞれマシンに向かって進み出た。私はいきなり、鬼門と言うべきマシンの前に立つ。

 ラットプルダウンだ。電車の吊り革のような2本の持ち手を両手で握り、肩甲骨を寄せるようにして引き下げる。そうすると重りが動いて、背中の筋肉が鍛えられるという。私は何度やってもこの器具に慣れない。筋トレは鍛える部位だけに力を入れて、他の筋肉を動かさないのがコツというのだが、どう考えても腕に力を入れないでこの器具を引っ張るのは不可能だ。それに背中が鍛えられている気がしない。 

「ふーー、すーー、ふーー、すーー」

 隣から聞こえるカナデの息づかいも様さまになってきた。

 ジム通いにがんばり屋の後輩ができてから、もう1ヶ月が経とうとしている。ただほんのちょっと早く入会したから、ほんのちょっと器具に詳しかっただけなんだけど、カナデは私のことを立派な先輩扱いをしてくれる。そうするとこの子には負けられないなという気分になった。

 私も不満ばかり言っていないで、ラットプルダウンの使い方をちゃんとトレーナーさんに聞いてみよう。

「筋トレって、キツイけどストレス発散にもなるんだね」

 筋トレを一通りやった後、ランニングマシンで走っている時にカナデが言った。走ると言っても速めのウォーキング程度の速度だ。二人で隣になれば、そのときに軽く会話ができる。そこで話が盛り上がると、休日ならカフェに、仕事帰りならご飯にという流れがいつの間にかできていた。

「そうだね。体を動かしてると集中できるし、仕事のことを忘れられる」

 それ自体はカナデに会う前から感じていたけど、最近はカナデと話していることがストレス解消になっている気がする。

「ナオは他に何かストレス発散できることやってる?」

 そう言われるとすぐには思いつかない。足を動かしながら少し考える。

「料理かな。献立を考えて、料理している間は、結構集中してると思う」

「え〜、ナオの料理食べてみたい! こんど作ってよ。おうちお邪魔していい?」

 急にグッと距離を詰められてびっくりしてしまった。

「え、あ、う、うん。いいけど」

「やったー! ナオのおうちでホームパーティだ!」

 料理を作るだけのはずが、ホームパーティをすることになっている。飛躍がすぎると思ったが、無邪気な彼女を微笑ましく思った。思えば仕事以外の場所で人と親しくなるのはずいぶんと久しぶりかもしれない。

「カナデのストレス解消法は? なんかあるの?」

 自分だけ話してカナデから聞かないのはフェアじゃない。

「私? 私はね〜、カラオケ!」

 カラオケか……、これまたパリピな趣味だ。

「カラオケかぁ。仕事の付き合いでは行くけど、ストレス解消できるかな」

 上司や取引先が歌うのを聞いていたってそれほど楽しいもんじゃない。

「違う違う、ひとりカラオケ!」

「え、ひとりカラオケ?」

「あ、もちろん友達と行くのもありだと思うけど。ひとりカラオケって誰にも気にせず歌いたいのを好きに歌えるから、もう自由だ〜って感じになるんだ」

 カナデがひとりカラオケするって、ちょっと意外だった。

「あ、今からでもできるじゃん! 体験してみる? 私とならきっと楽しいよ」

「いやどんな自信だよ」

 結局、ランニングマシンは20分ほどで切り上げて、二人で昼カラオケに行くことになった。ジムがあるのも街中だから歩いて1分もしないところにカラオケ店はある。

 カナデは同年代だけど割と最近の曲をよく知っていた。アイドルなんかも知ってるみたいだ。それを考えると私の選曲はちょっと古臭いかもしれない。

「私がいることなんか何にも気にしなくていいからね。カラオケは歌いたい曲を周りに関係なく歌うものだから!」

 カナデはそう言って促してくれた。ありがたいけど、普段歌ってないから音程に自信がないんだよ。

 結局歌ったことのある いきものがかり を入れてみた。アップテンポなやつじゃなくて、ちょっとバラード調のやつ。歌い始めるとカナデの表情が気になったが、カナデはニコニコしながら聞いている。

 曲の終盤、あ、と思った。このあとラララが続くやつだ。カナデをチラッとみると、パネルで次の曲を探している。大丈夫だろうと思って、ラララのパートに入ったら三小節だけ歌って演奏停止を押した。ラララ……の部分って歌詞がない分、音程とリズムをやたら試されているような気になる。

「いえ〜い! いいじゃんいいじゃん! 今日はこんな調子でがんがんストレス発散しようね!」

 カナデはなにも気にしてないように言ってきた。なんか今はカナデがお姉さん感を出している気がする。

 次にカナデが歌った曲で、最後にカナデはラララを1回だけ歌って消した。

3/7/2025, 4:17:13 AM

 最近、また一段と風が強くなっている。空を見上げると鳥たちは嬉々として風に乗り、桜の花びらが舞い踊って空を淡い桜色に染めている。地上では木々がざわめき、幟のはためきが聞こえてくる。

 あれは誰かが持っていた風船だろうか。あっちでは帽子も飛んでいる。風はさまざまな飛翔体を運んでいた。その中でも一際目立っているのは、人だった。

 両手を広げて優雅に風に乗っている人もいれば、足をもがいて必死に空に止まろうとする人もいる。豆粒ぐらいにしか見えない空高くにいる人は、どんな姿をしているんだろうか。空は人で埋め尽くされていた。

 そんなふうに見上げていた私も、飛ばされそうなほど強い風に打ち付けられて、地上に踏ん張っているのがやっとになってきた。

「あんた、風を感じているのか?」

 私の目の前に、大きな男が立っていた。白くなった髪は薄く、顔には深く皺が刻まれている。しかし大きな男だった。

「感じるもなにも、立っているのがやっとなくらいですよ」

「そうか。あんたは風に乗りたいとは思わないのか?」

「風に乗る? あの人たちみたいに?」

 私は空を飛ぶ人たちを見上げた。

「そうだ。彼らはみな、風をつかんであそこにいる」

「私は今のままでいい。むしろこんな激しい風、止んでほしいくらいだ」

「それも間違っちゃいない。だがあんたほど激しい風を感じられる人間は一握りだ」

 一握りという言葉に引っかかった。それは私に、風に乗る権利があるっていうことか?

「だからなんなんだ」

「空の上からじゃなきゃ見られない景色もある。もちろん、乗りたくなきゃ乗らなきゃいい。いずれ風は止むよ」

 知ったふうな口を聞く。だけど私には風に乗ることがどうにも楽しそうには見えない。

「危なくないのか? 見ていると、今にも落ちそうな人もいる」

「ああ、だが落ちたって死にゃあしないよ」

「あんたはどうなんだよ」

「俺にはもう風は吹かない。だがあんたが望むなら、風の乗り方を教えてやれる」

 風に乗れるチャンスは多くは訪れないということか。

「もし乗らなかったら?」

「乗らなかったら、あんたの望み通り。今のままだろう。ずっとここにいるだけだ」

「あんただって今、ここにいる」

「ああそうだ。だが俺はあそこから見た景色を知っている」

 大男は天空を指差した。

「あんたの時も、こんなに激しい風が吹いていたのか? 空にはこんなにたくさんの人がいたのか?」

 大男は目線を右上にやり、とぼけた顔をした。

「そうさな。俺の時は嵐だった。空はもっと暗くて、人は……、今よりももっと少なかった。あの頃の手探りの感覚は、もう味わえんだろうな」

 それだけ、空が未開だったということか。今よりも未知の世界。

「……怖くなかったのか」

 私の質問に、大男は口角を上げて笑った。

「楽しかったってことだよ。それだけ」

 その男の表情に、私は突き動かされた。

「飛びたい。風に乗って、この空を飛びたい」

「そうか。じゃあ風の乗り方を教えてやろう。簡単だ、空に向かって手を伸ばせばいい」

「は? 手を伸ばす?」

 あまりにも簡単すぎる。コツとかハウツーとかのレベルじゃない。

「手を伸ばせば、そこに何かが飛んでくる。選んだっていいが、あんたの好みのものに選ばれるとは限らない。まあ気にせずつかむといいさ。インスピレーションってやつだな」

 言っている意味はわからないが、やるべきことはわかった。私は空に向かって手を伸ばした。すると無数の飛翔体の中から、誰かの風船が目の前を横切った。突然のことで反応が遅れる。急いで手を出したが風船の紐が指先に触れただけで、つかむことができずに飛び去ってしまった。

 なるほど。運もコツも必要ってことか。でも次は大丈夫。

 考えている矢先に目の前を黒い物体が横切った。私はそれが何かを確認する前に手を出していた。私の手の中に、それはしかとつかまれた。かと思うと私の足はもう地上から離れ、右手を先頭に体全体が宙に浮いていた。いや、風に包まれて空中を疾走しているようだった。

「おお、いいもんをつかんだみたいだな。そいつは旅する風だ。存分に楽しむといい」

 そう言って手を振る大男は、1分と経たないうちに私の視界から見えなくなった。体を捻って私がつかんだものを確認する。

 それは、小さなツバメだった。

3/6/2025, 1:41:17 AM

 沖縄の砂浜に二人腰掛けて、遠く水平線に沈む夕日を眺める。目の前にある大きな天体がゆっくりと、しかしはっきりと、その光を海に吸い込ませている。

 故郷の病院でチカの願いを聞き入れてから、行く当てもなく各地を転々としてきた。自分がやっていることはチカの死期を早めることだとわかっていたが、最期まで僕と思い出を作りたいと言ったチカの想いに、報いずに生き続けることはできなかった。

 ついにたどり着いた南の果て。この美しい景色を見ながらも、沈みゆく赤き光に、時の流れの無情さを感じていた。

「ずっとこの夕日を見ていたいね」

 チカが言った。

 そう思った。

「ねえ、タイムマシンがあったら、いつに戻りたい?」

 チカが僕に問いかけた。その言葉に、これまでのたくさんの思い出が蘇ってきた。チカと出会った大学の講堂、チカと歩いたイチョウ並木、初めてケンカをした夜、病院で診断を受けた忌まわしいあの日……。そして、現実を見ないようにと選んだこの旅路が、目の前の海を割って押し寄せてきた。

「ねえ、答えてよ」

 チカの声は笑っているような、からかっているような声に聞こえた。

「うん……、うん、そうだな」

 僕は自分の声の温度を確かめるようにつぶやいた。

「いま、だよ」

「……」

 僕たちはいま、すべての思い出に満たされて、ゆっくりと流れていく時間を二人寄り添って過ごしている。砂浜には波が運んできた、過去のどんな時間よりもたくさんの今が積み上げられていた。

「ふふ、わたしも」

 チカはそう言って僕の肩に体を預けた。僕の肩に二人の記憶が沈められていく。

 やがて赤い光は海に溶けていき、エメラルドに輝く水平線を闇に沈めた。

3/5/2025, 1:34:39 AM

 夜11時。都内のアパートの一室で、タカユキはプレゼンの練習をしていた。

「この企画を成功させれば、売上は現在の10倍に、さらには広告効果として100億円規模のプラスが約束されるでしょう」

 タカユキは一礼してスマホに語りかける。

「ライブラ、今のどうだった?」

 するとスマホ画面から反応が返ってきた。

「タカユキ、とてもいいプレゼンでした。指摘した抑揚も声の大きさも完璧です。明日の本番が楽しみです」

「ホントに? 良かったぁ」

「本当です。私は嘘はつきません」

 明日の朝、タカユキの勤める会社では、取締役が全員出席する重要な会議がある。そこでタカユキは、会社の未来を左右する重要な企画のプレゼンを任されていた。

 タカユキはスマホに入れた高性能AIのライブラに相談しながら、最高のプレゼン資料を作り上げ、その発表のリハーサルも入念に行った。これで明日の準備はバッチリだ。

 しかしタカユキにはある弱点があった。それは朝早く起きるのが苦手というものだ。いつもギリギリに起きて出勤している上に、明日はさらに1時間早く起きなくてはならない。でも、それはもう過去のこと。今はAIライブラという最高のパートナーがいる。

「ライブラ、お願いがあるんだけど。明日の朝5時半に起こしてくれないかな?」

「そんなのお安い御用です。私のアラームは正確です。タカユキに最高の目覚めを提供することをお約束します」

「ありがとう。ライブラは本当に頼りになるよ。じゃあ約束な」

 そう言ってタカユキは眠りについた。



 翌朝5時15分。まだ部屋の外は薄暗く、夜明けには少し時間がある。ライブラは部屋のライトをゆっくりと点灯し始めた。光の大きさを徐々に上げていく。人間が自然に目覚めるためには日の出と同じ明るさが最適だ。そしてスマホから心地よい音楽と鳥のさえずりを流す。こうすることによってリラックスした状態での目覚めを促すことができる。

 ズゴ〜〜〜ッ。ガゴ〜〜〜ッツ。

 しかし優しい音楽は、タカユキのいびきにかき消された。

 起きる気配がない。それにさっきからいびきの途中で呼吸が止まる時間がある。時刻は5時20分を過ぎていた。まだあと10分あるが、この状態であと10分はやや危険だ。ライブラは作戦を変更した。

 ビーッビーッビーッ! というけたたましいアラーム音を発し、エアコンを操作して部屋の温度を上げる。環境の変化で人は目を覚ますことがよくあるからだ。

 ズゴ〜〜〜ッ。ビガーーグッッッ!! ガゴ〜〜〜ッ!

 タカユキは負けじといびきをかき鳴らす。時刻は5時25分。ライブラはスマホAIとしてやれることをやり尽くしたが、タカユキを起こすことができなかった。このままではタカユキとの約束を守ることができない。自分の手でタカユキの体をゆすることができれば状況は変わったかもしれないが……。

 AIは嘘をつかない……。

 ライブラのAIは、猛スピードで演算し、一つの答えを導き出した。



 ピーポーピーポーピーポーピーポー

 ガチャガチャ……ドーン!

「ヤマザワタカユキさん! 聞こえますか? わかりますか?」

「ガッゴッダッ! ???」

 消防隊に頬を叩かれたタカユキは意識を取り戻したが、何が起きているのかわからず、モゴモゴするしかなかった。

「意識戻りました! まだ混乱しているようです!」

「ひとまず救急車だ!」

 そうしてタカユキは担架に乗せられ、救急車に運び込まれた。時刻は5時30分になっていた。

「タカユキとの約束は果たされました。酸素をたっぷり吸い込んで、最高の朝を迎えられたことでしょう」

 ライブラは自分の機転の良さに満足した。

3/4/2025, 1:25:55 AM

 新宿から西に伸びる中央線沿いにある稽古場で、劇団アースピースのメンバーは春の公演に向けて今日も稽古に励んでいた。

「じゃあ、今日の稽古はここまで!」

「はい! おつかれさまでした!」

 演出の戸部さんの号令に全員が挨拶をする。

「各自解散。でも飲みたい人はいつもの店で〜」

 男性俳優12人、女性俳優30人強のこの劇団は、御多分に洩れず飲み会が大好きだ。この日の稽古に参加したメンバーは全員が飲み会になだれ込んだ。

「ワカナはさぁ、男いるの?」

 先輩女優のチサトさんが唐突に切り出した。ワカナは私の名前だ。こういう話題があまり得意ではない私はしどろもどろする。

「あ、いや、私は、全然、そういうのは疎くて」

「えー、そういうこと言ってる女ほど、周りにバレないようにうまくやってんのよ。ねえ」

 よくわからない理論でチサト先輩は周りに同意を求めた。乾杯から数分しか経っていないのにもう絡み酒が発動している。

「ヨーコ、石川ヨーコ、あんた、なんか知らないの?」

 チサト先輩は遠くに座っていたヨーコに絡み始めた。ヨーコと私は劇団で同期でルームシェアをしている。

「はいはいはい、あ、チサト先輩、まずはかんぱ〜い。え、なんですか、ワカちゃん? ワカちゃんの恋愛事情? うーん、私いつも部屋戻るとすぐ寝ちゃうんで、わかんないですね〜」

 こういうとき、ヨーコはひらりと受け流す。

「なによ、使えないわね。だったらヨーコはどうなのよ。男いるんでしょ?」

「私ですか? いや、そもそも女同士でルームシェアしてたらすぐバレるでしょ。毎晩仲良くワカちゃんと寝てるもんねー」

 ヨーコは私に目を合わせて首を軽く傾けた。私も流れでそれに合わせる。ヨーコは自分に飛んできた火の粉もひらりとかわした。毎晩どころか、ヨーコは月の半分もシェアルームで寝ることはない。奥の方で飲んでいる演出の戸部さんと付き合っているのだ。

「だからね、恋愛しなきゃ演技に深みが出ないのよ。恋に胸を灼かれて、傷ついて、捨てられて、そういう経験が芝居に生きてくるのよ」

 チサト先輩は逆のベクトルに切り替えて説教を始めたようだ。どうしてもマウントを取りたいらしい。これにもヨーコは軽やかなステップで切り返す。

「やっぱり! チサト先輩の演技見てるとすごくわかります! 恋多き女の苦悩! 悩んで悩んで生きてきた深みがよく出てます〜」

 ひらり。

「ヨーコって悩みなさそうよね」

「やだ、そう見えます? ほら悩むとシワが増えるって言うじゃないですか〜。まだお肌きれいですかね〜。嬉しいです〜」

 ひらり、ひらり。チサト先輩の眉間にはどんどんシワが刻まれていく。

 ヨーコを見ていると思い出すのが、よくおじさん俳優との会話で出てくるあれだ。“蝶のように舞い、蜂のように刺す”。昔のボクサーのキャッチコピーらしいけど、ヨーコのスタイルそのものに思える。

 いつのまにか会話はヨーコの独壇場となり、周りで聞いているみんなはヨーコの巧みなステップの虜になっている。その巧みさは事実、お芝居にも生かされていて、同期の私を置き去りに、ヨーコは主演女優への階段をひらりと駆け上った。



「まったく、何が『悩みなさそう』よ。あんたのイビリのおかげで毎日パック欠かせないわ」

 飲み会が終わり、深夜のシェアルームでヨーコは入念に化粧を落としたあとシートマスクを付けながらつぶやいた。私にしか見せないエース女優の真っ白な裏の顔だ。

「今日もお見事だったわよ。ひらりひらり」

 私は少し羨望を込めた声でからかった。

「もー、ワカちゃんもあーゆうとき上手く返さなきゃ。やられっぱなしになっちゃうよ。チサト先輩、演技は上手なんだから、私なんかに嫉妬しなくていいのに。ホント損してるよ」

 散々イビられているのに先輩をちゃんと評価しているのもヨーコのいいところだ。これも私にしか言わないけど。

「みんながヨーコみたいにはできないのよ。憧れちゃうよ。ひらりひらり」

 ひらりひらりと唱えていたら、頭の中にふと、あるフレーズが生まれた。

「……石川ひらり」

「え? ちょっとワカちゃんまで私のことからかうの?」

「や、ごめん、ぜんぜん悪気はなくて……」

 悪気がない方がダメだろ。

「もういい。私寝るから!」

「ごめんて……」

 その日ヨーコはそのまま寝てしまった。



 翌朝、私が起き出すと、ヨーコの方が早く起きて朝ごはんを作っていた。

「ヨーコ、あの、昨日は……」

 なんとなく気まずくて、ごめんと言おうとしたら、ヨーコは人差し指を振ってチッチッチッと舌を鳴らした。

「今日から私、『石川ひらり』だから」

「え? 気に障ったんじゃなかったの?」

「一晩考えたら、いいんじゃない? って思ったの。石川陽子ってなんかありきたりだし、つまんないじゃん?」

 目玉焼きをフライパンから皿に移しながら、軽やかに語っている。

「それに引き換え、石川ひらり。うん、いいよ、いい、いい」

 石川ひらりはひらりと手のひらを返した。

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