与太ガラス

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 新宿から西に伸びる中央線沿いにある稽古場で、劇団アースピースのメンバーは春の公演に向けて今日も稽古に励んでいた。

「じゃあ、今日の稽古はここまで!」

「はい! おつかれさまでした!」

 演出の戸部さんの号令に全員が挨拶をする。

「各自解散。でも飲みたい人はいつもの店で〜」

 男性俳優12人、女性俳優30人強のこの劇団は、御多分に洩れず飲み会が大好きだ。この日の稽古に参加したメンバーは全員が飲み会になだれ込んだ。

「ワカナはさぁ、男いるの?」

 先輩女優のチサトさんが唐突に切り出した。ワカナは私の名前だ。こういう話題があまり得意ではない私はしどろもどろする。

「あ、いや、私は、全然、そういうのは疎くて」

「えー、そういうこと言ってる女ほど、周りにバレないようにうまくやってんのよ。ねえ」

 よくわからない理論でチサト先輩は周りに同意を求めた。乾杯から数分しか経っていないのにもう絡み酒が発動している。

「ヨーコ、石川ヨーコ、あんた、なんか知らないの?」

 チサト先輩は遠くに座っていたヨーコに絡み始めた。ヨーコと私は劇団で同期でルームシェアをしている。

「はいはいはい、あ、チサト先輩、まずはかんぱ〜い。え、なんですか、ワカちゃん? ワカちゃんの恋愛事情? うーん、私いつも部屋戻るとすぐ寝ちゃうんで、わかんないですね〜」

 こういうとき、ヨーコはひらりと受け流す。

「なによ、使えないわね。だったらヨーコはどうなのよ。男いるんでしょ?」

「私ですか? いや、そもそも女同士でルームシェアしてたらすぐバレるでしょ。毎晩仲良くワカちゃんと寝てるもんねー」

 ヨーコは私に目を合わせて首を軽く傾けた。私も流れでそれに合わせる。ヨーコは自分に飛んできた火の粉もひらりとかわした。毎晩どころか、ヨーコは月の半分もシェアルームで寝ることはない。奥の方で飲んでいる演出の戸部さんと付き合っているのだ。

「だからね、恋愛しなきゃ演技に深みが出ないのよ。恋に胸を灼かれて、傷ついて、捨てられて、そういう経験が芝居に生きてくるのよ」

 チサト先輩は逆のベクトルに切り替えて説教を始めたようだ。どうしてもマウントを取りたいらしい。これにもヨーコは軽やかなステップで切り返す。

「やっぱり! チサト先輩の演技見てるとすごくわかります! 恋多き女の苦悩! 悩んで悩んで生きてきた深みがよく出てます〜」

 ひらり。

「ヨーコって悩みなさそうよね」

「やだ、そう見えます? ほら悩むとシワが増えるって言うじゃないですか〜。まだお肌きれいですかね〜。嬉しいです〜」

 ひらり、ひらり。チサト先輩の眉間にはどんどんシワが刻まれていく。

 ヨーコを見ていると思い出すのが、よくおじさん俳優との会話で出てくるあれだ。“蝶のように舞い、蜂のように刺す”。昔のボクサーのキャッチコピーらしいけど、ヨーコのスタイルそのものに思える。

 いつのまにか会話はヨーコの独壇場となり、周りで聞いているみんなはヨーコの巧みなステップの虜になっている。その巧みさは事実、お芝居にも生かされていて、同期の私を置き去りに、ヨーコは主演女優への階段をひらりと駆け上った。



「まったく、何が『悩みなさそう』よ。あんたのイビリのおかげで毎日パック欠かせないわ」

 飲み会が終わり、深夜のシェアルームでヨーコは入念に化粧を落としたあとシートマスクを付けながらつぶやいた。私にしか見せないエース女優の真っ白な裏の顔だ。

「今日もお見事だったわよ。ひらりひらり」

 私は少し羨望を込めた声でからかった。

「もー、ワカちゃんもあーゆうとき上手く返さなきゃ。やられっぱなしになっちゃうよ。チサト先輩、演技は上手なんだから、私なんかに嫉妬しなくていいのに。ホント損してるよ」

 散々イビられているのに先輩をちゃんと評価しているのもヨーコのいいところだ。これも私にしか言わないけど。

「みんながヨーコみたいにはできないのよ。憧れちゃうよ。ひらりひらり」

 ひらりひらりと唱えていたら、頭の中にふと、あるフレーズが生まれた。

「……石川ひらり」

「え? ちょっとワカちゃんまで私のことからかうの?」

「や、ごめん、ぜんぜん悪気はなくて……」

 悪気がない方がダメだろ。

「もういい。私寝るから!」

「ごめんて……」

 その日ヨーコはそのまま寝てしまった。



 翌朝、私が起き出すと、ヨーコの方が早く起きて朝ごはんを作っていた。

「ヨーコ、あの、昨日は……」

 なんとなく気まずくて、ごめんと言おうとしたら、ヨーコは人差し指を振ってチッチッチッと舌を鳴らした。

「今日から私、『石川ひらり』だから」

「え? 気に障ったんじゃなかったの?」

「一晩考えたら、いいんじゃない? って思ったの。石川陽子ってなんかありきたりだし、つまんないじゃん?」

 目玉焼きをフライパンから皿に移しながら、軽やかに語っている。

「それに引き換え、石川ひらり。うん、いいよ、いい、いい」

 石川ひらりはひらりと手のひらを返した。

3/4/2025, 1:25:55 AM