少年はじっとその草に目を凝らしている。細長く尖った葉を持つ雑草の前にしゃがみ込んで動かない。霧が出た朝の散歩道。少年は朝ごはんも食べずに駆け出して、この草地に舞い込んだ。
少年は不意に手を伸ばす。目線の先にはヨシの葉先に載ったまあるい水滴。朝露だ。ゆっくりと慎重に、手を出して、指先の震えを抑える。
その人差し指が、ついにヨシの葉を捉えた。
葉先を指でちょんと押すと小さな粒がするすると葉脈を流れて先端に集まってくる。水滴が指に触れる直前、ぱっと手を離す。しなった葉は反動で大きく跳ねて、大きな水の粒は ぱちんと弾けた。
大きな粒が弾けて小さな粒に分かれ、放射状に飛び散っていく。
この一瞬のスリル。この光景をその目で見るために、少年は霧の出た早朝を起き出してくるのだった。
子どもの頃から動物園が好きだった。図鑑で見た動物を探し、自分の目で見て、その動物の絵を描く。中学生になったら、デフォルメしてキャラクターみたく描けるようになった。
同級生に頼まれれば、そいつの顔と好みの動物をマッチさせた似顔絵を描くこともできた。それぞれの習性も頭に入っていたから、特徴をオリジナルの技名でカッコよく演出できたりもした。
三十歳も間近に迫った今も、僕はキリンの檻の前にいた。この園で一番大きいマサルの首から上を何度も目でなぞっていた。
マサル、お前の目から見える景色は、どんなだ?
高校2年の時、動物たちの絵をキャラクターにして、少年漫画の新人賞に応募したら、佳作を取った。作品は月刊の増刊号に掲載されて、担当編集を付けると言われた。
高校を卒業したら大学に行かずに漫画を描いた。担当は「君ならやれる」「たくさん描けばもっと上手くなる」と僕を励ました。でも佳作以降、一度も雑誌に掲載されることはなかった。
ぼーっとしながら歩いていたら、エミューの檻の前に来ていた。翼を持ちながら、飛べない鳥。
翼があるって言われながら、ずっと飛べないなら、初めから翼なんか持ってなければ良かったのかもな。
あーあ、そろそろ諦めるかー。
「とりなのにおそら、とべないの?」
向こうで見ていた親子連れの声が聞こえる。見ると子どもは手に風船を握っていた。
そうだよ。いくら絵が上手くても。
「エミューさん、かわいそうなの?」
そうだよ。かわいそうな漫画家だよ。
「とべなかったら、ふうせんをくっつけたら、とべゆんじゃない?」
風船ひとつ付けたぐらいで、飛べるわけ…
「ひとつじゃだめだったら、いっぱいくっつけたら、いいよ。いっぱいくっつけたら、ふわーってなるんだよ」
…子どもは無邪気だな。いっぱい風船くっつけて。ひとりじゃダメでも、誰かとなら、か。
担当編集に呼ばれ、打ち合わせのため出版社まで出向いた。さすがに自分でも覚悟はできていた。でもどうせなら最後まで足掻いてやろう。
小さな会議室に通され、少ししたら担当が入ってきた。担当はすでに申し訳なさそうな、引きつった笑いを浮かべている。心臓が高鳴りはじめる。ここまで来て逃げてはダメだ。
「わざわざ来てもらってすまないね。ありがとう。話っていうのは…」
先に言われたらここで終わってしまう。先手を取らないと。
「その前に、僕からひとつだけお願いがあります」
担当の曇っていた表情が驚きに変わる。
「…わかった。どうぞ」
いざ口を開けると、それは自分の口から、漫画家であることを辞める宣言なのだと気づいた。
「原作者を付けてほしいんです」
口にしてみると、不思議と悔しさはなかった。
「そ、それは、君の希望、と、捉えていいんだね?」
担当の声は戸惑いと少しの興奮を帯びていた。
「え、あ、はい。その、自分でストーリーを書くのは、限界かなと、思っていて、でもやっぱり絵は捨てたくない、と、いうか…」
「実は今日、私から伝えたかったのはそのことなんだ」
担当は早口でしゃべりはじめた。
「君の作画で漫画を描きたいっていう原作者がいてね。向こうの編集から企画を見せてもらったら、間違いなく君の絵がピッタリだったんだ!」
僕は驚きで声を出すことができず、エサを求める鯉のように口をパクパクさせた。
「作画を、やってくれるかい?」
僕は飛んできた風船をジャンプして握りしめた。
「はい、よろこんで」
「ススキって、こんなにキレイだったんですね」
私はカフェのマスターに向かってつぶやいた。
「ああ、秋にならないとわからないもんだよね」
タクシーで駅まで向かう途中、ススキの草原の横を通った。日が暮れかけて赤らんだ空に、輝くススキは黄金の絨毯のようだった。
「秋にならないと…ですか」
「特にこの夏は暑かったでしょう。背の高い緑色のススキは暑苦しいからね」
いまは白い穂先が枝垂れかかっているススキが直立して並んでいる姿を想像してみると、たしかに暑苦しい。そういえば前に来た時は前を通っても何も感じなかったな。
営業先に近いこの駅を利用するようになって、このカフェの存在を知った。木製の調度品とマスターの落ち着いた雰囲気が気に入り、商談の後にたびたび立ち寄るようになった。今日、店の前を通りかかったとき、店先にススキが飾られていた。
「お月見の季節だからね、うちではお団子出してないけど」
月見に団子。伝統的な日本の風景の中に、たしかにススキはある。
テーブルの上に小ぶりなバウムクーヘンが置かれた。え、頼んでない。
「ススキを見て入ってくれたお客さんにはサービスだよ」
「あ、ありがとうございます」
木の年輪になぞらえられるバウムクーヘンだが、今日はまんまるお月さんに見えた。フォークを入れると欠けていく。口に運ぶとバター風味の柔らかい味が広がる。
「今日の商談、あまり手応えがなくて」
粋なスイーツの甘い味わいに心が緩んでしまったのか、私はマスターにお悩み相談を始めてしまった。
「なんというか、相槌は打ってくれるんですが、聞いてるのか聞いてないのかわからなくて」
「お相手も忙しかったんじゃないかな」
マスターの声に顔を上げる。
「忙しい人にはコーヒーを飲んでもらうのも難しい。相手の様子を見ながら、引くときは引かないと」
「でも、せっかくアポイントを取って、こんな…」
言いかけて詰まる。こんなはダメだ。
「せっかくこんな田舎町まで出向いたのに、でしょ?」
そこまで思ってないが、…その通りだ。
「…すみません」
マスターはくすくす笑った。
「ここもね、若いうちは全然お客さん来なかったんだ」
マスターは目を落として、洗い終えたカップを拭き始めた。
「自分ではちゃんと研究して、いい豆も選んで出してたんだけど、なかなか信用してもらえなくてね」
私は黙って聞いていた。
「若造の出すコーヒーなんて、見向きもされないわけ」
そんなこと…。
「きっと気付かれないんだよ。夏のススキみたいにね」
それじゃあやってる意味がない。
「でもね、きっと見てる。必ず目の端には入ってるんだよ。そこに居続ければ」
「邪魔をしないように黙っている日もあっていい。それでも存在感を示し続けること。そうすればいつか、ススキみたいにたくさんの人に見てもらえると日が来るよ」
「そういうもんですかね」
なんだか言いくるめられている気がするが、マスターのコーヒーを飲んでいるとそんな気がしてくる。
「それに、相手にされなかったときは、この店に来ればいいじゃない。いつでも相手になるよ」
見事に言いくるめられた。私は思わず笑ってしまった。
「マスター、それ都合良すぎ」
そうしよう。ダメだったときはここに来よう。ススキのように項垂れながら。
「ミオリは絵が下手ね」「また何か描いてるの?」「そんな意味のないことしてないで、将来のためにお勉強しなさい」
それはある種の呪いになって、私の脳裏に刻まれた。
今思えば母に絵画の何がわかっていたというのか。子どもの頃の私にとって母の言うことはすべてが真実であり、母の否定するものは偽りだった。
描くことが好きという自覚がない時期に、描くことを否定された私の人生は、美しく描かれたものから逃げ回る日々だった。絵を見るたびに私は、なぜか罪悪感のようなものを感じた。見るたびに心の中で拒絶しては、好きなものを汚しているような気持ちになっていた。
私は母の言う通り勉強をした。それは苦しいことではなかった。高校での成績はトップクラスで、有名な大学でいくつもA判定が出ていた。
「あらミオリすごいじゃない。このまま行けば立派な会社に勤められるわ」
この頃には気が付いていた。勉強をしなさいと言われて勉強をする子は、いくら優秀でも、いくら立派な会社に入っても、立派な仕事はできない。やりたいことがないのだから。
デザインは、イラストは、世の中に溢れていて、私に見てくれと迫ってくる。私はそれらを、必死に目をつぶって避け続けた。たぶんそれは嫉妬からだったんだろう。意味のないことに、人生に必要のないことに、こんなにも多くの人たちが、たくさんの才能を発揮している。
その日、私は母と二人でデパートに行った。父の誕生日のプレゼントを買うためだった。用事を済ませて歩いていると、催事場で若手芸術家の展覧会が開かれているという案内を見つけた。無料ということもあり「ちょっとのぞいてみましょうよ」と母が言い出した。
私はその言葉に、少しの緊張を覚えた。
「素敵な絵ね。とっても繊細に描かれている」
母はこの展覧会で一番大きな絵を眺めていた。母が絵画に興味を持つことに私は驚いたが、とても陳腐な感想を口にしていてホッとした。
この絵はまず大きなキャンバスを大胆に使ったスケール感の大きさに魅せられる。鮮やかな原色を広く配置し、その中で戯化された人物たちが表情と姿勢で意思を交わし合って、見る人にメッセージを届けている。もちろん私個人の感想だ。
…私は絵を避ける日々を送っていながらこんなことがわかるのか。
「でもきっと、この絵を描けても食べていけないんでしょうね」
私は大きく目を見開いて母を見た。その表情をしっかりと見て、その真意を確かめたいと思った。私は脳の裏側が溶けていくのを感じた。こんな人に私は、こんな人に人生を…。
デパートの中のカフェで二人座ってコーヒーを頼んだ。私は母の目を見て切り出す。
「大学に行ったら一人暮らしをする。東京の大学に行って、立派な会社に入るよ」
母は一言「そう」とつぶやいて笑顔を作ったが、それからひどく悲しそうな顔をした。
勉強をしなさいと言って勉強をさせる親は、子どもに立派な大人になれと言う。でも本当は、立派な大人になんてなってほしくはない。ずっと自分に忠実な子であってほしいと願っている。
私は大学を卒業し、立派な出版社に勤め始めた。絵画や美術の専門誌を出版し、展覧会の協賛などもしている。一般誌に美術展レポートやアーティスト紹介のコラムも出稿している。
やるべきことが定まった。私は芸術で食っていく。意味のないことに生きる人たちを食わせていくために。
——母に復讐するために。
——母に恩返しをするために。
——母の呪いを解くために。
「それ、聞く意味ありますか?」
う、言っちゃった。さすがに向こうの方が立場は上だよなぁ。しかもビジネスの場だもんなぁ。バカな女だと思われるかなぁ。でも我慢できなかった。
「意味がなかったら、聞いちゃいけないんですかね」
ん?あれ?そういう反応?動揺もしてないし怒ってもいないな。
「今の質問は、私が興味があるから聞いたんです」
うーん、言い分はわかったけど、やっぱりキモいか。
「答えないとダメですか?今回の商談とは関係ないように思うんですが」
恐るおそる聞いてみる。さすがに、パワハラとかセクハラに当たるかもしれない。返答によっては。
「あ、失礼、嫌でしたら答える必要はありません。もう打ち合わせでお話ししたいことは一通り終えておりますので、単純に私が聞きたいことを質問したまでです。そう、聞かれたので」
「あ、やだ、確かに、その『これまでのことで何かご質問はございますか?』って私が言ったんですよね。失礼しました」
こちらが笑うとあちらも少し笑い始めた。いーや違う違う違う。
「ですが! 私は『これまでの商談に対して』質問があるかと聞いたのであって、関係ない、あなたが私にしたい質問をしてほしいわけでは…」
「それはわかっています」
相手はさえぎって切り出した。やべ、ちょっと強く出すぎたかも。
「ですが私は、お会いした方みんなに聞いてるんです」
やっぱり変な人だ。なんでこんなことを。
「ちなみにそれは、なんで?」
「あ、これって、場の空気が和やかになる質問として有名なんです。よくラジオ番組なんかでもゲストが来ると必ずこの質問をすればひとくだりつなげるというか。今回は、こんな空気に、なっちゃいました、けど」
あー良かった。変な人だけど怖い理由ではなかった。正直、いきなりあんなこと聞くから告白でもされるんじゃないかと思った。いや、それは自意識過剰だろ。
「ニラ玉です」
安心した私は、質問の答えをサラッと伝えた。
「え?」
「好きなおみそ汁の具は、ニラ玉です」
相手の顔がぱぁっと明るくなる。
それから私たちはひとくだり盛り上がって、連絡先を交換し合った。数年後、まさか毎朝、彼にニラ玉のおみそ汁を作ることになるとも知らずに。
——
「出たよ『イマツマオチ』、どうせ作り話だろ?」
パーソナリティの二人がゲラゲラ笑う。
「そんなことないって、ほら、奥さんと連名で、名前書いてあるじゃん」
「いやーそれにしてもあれだね。毎回ネタがなくて、意味がない質問を繰り返してたけど」
「『好きなみそ汁の具』ってやつな」
「こういうお便りが来ると、意味がないことなんてないな、世の中」
「お前それどういうまとめなの?ひどくない?」
この番組は、今日もみそ汁の具でひとくだり盛り上がっていた。