貴方と私の関係は、切っても切れないものです。日毎貴方は私に食事を与えてくれます。貴方は私に心地よい部屋を与えてくれます。貴方は私の顔を見つめて、にこっと笑ってくれます。私は貴方の目を見つめ、ノドの奥を鳴らすことしかできません。それでも貴方は「君がいてくれてよかった」と言ってくれます。「君がいてくれるから、私は生きていられるのよ」と。貴方がいなければ生きられないのは私の方なのに。貴方は時折、ニオイのない箱をのぞいては、哀しい顔をして私の部屋から去ってゆくのです。夜毎私は独りになります。
あなたとわたしの関係は、断ち切ることができないほどもつれて絡み合ってしまった。わたしはあなたに会いに行っては、涙を拭きながら帰っていく。あなたの酷い仕打ちに何度遭ってもあなたから連絡が来れば足を向けるのを止やめられない。これ以上あなたとの関係を続けても、想いの激しさに身体を灼かれて、生きているのが苦しくなるだけだと分かっているのに。
貴女と私の関係は、もう修復することができないところに来ていると思うのです。私が他所に女を作ったから? 冗談を言ってはいけません。貴女がそう仕掛けたようなものじゃあないですか。そうやって私の帰りを待つだけが貴女の仕事ですか? そんなことならその、ほら貴女が飼い始めたそこの犬っころだってできることですよ。もうよろしいですか?私はもう行きますよ。今夜も遅くまで宴席があるのでね。
その夜、貴方は私の部屋に厭な臭いの男を招き入れました。この臭いは貴方が朝に帰ってきた時に、貴方に付いている臭いと同じです。私はこの臭いが厭でした。男が貴方に触るのを見て、私は厭な気持ちになって低く唸るような声を出しました。男は私に向かって手の甲を向け、私を退けるような仕草をしましたから、私の部屋に入ってきた余所者はお前だと、大きな声で吠えてやったのです。それを見た貴方は狼狽することなく、しっかと私の顔を見て、男を部屋から追い出してくれたのです。
「アンタが私にしたことを、私は絶対許さない!」あなたを部屋から出した後、外からそんな悲鳴が聞こえた。そのすぐ後に、あなたの叫び声が聞こえてきたけれど、わたしはしっかりと鍵を閉め、部屋の奥に駆け戻った。わたしは君を抱き寄せて「大丈夫だよ、怖くないよ」と言ったけど、君の方が身体を柔らかくして、私のことを包み込んでくれたね。やっぱり私は君なしでは生きていられないな。
アナタはアタシの先輩で、この部屋の主あるじのように振る舞っているけれど、アタシはちゃあんと知っています。あの人の姿を追うアナタの目は尊敬に満ちていて、アタシが入り込めないくらい深い絆で結ばれているんだってこと。でもアタシだってあの人には大きな恩があるんだから。前のご主人様がいなくなって、捨てられそうだったアタシをあの人は拾ってここに住まわせてくれた。だからアタシもアナタと一緒になって、あの人を喜ばせてあげるんだから。
「来たぞー!降ってきたぁ!」
男衆が声を上げる。
「バケツだ!バケツ持ってこい!なんでもいい、カンカンでも巾着でも大丈夫だ!」
村のみんなは急いで外に出て、空から降るものをそれぞれの家から持ち出したバケツや箱や袋で受け止めようとした。
みんなが待ち望んだ、恵みの雨、柔らかい雨だ——
この村に“柔らかい雨”が降るようになったのは数ヶ月前のことだった。初めのうちは誰も気づかなかった。柔らかい雨は地面に落ちれば普通の雨と変わらず土に浸透していく。
ある日その雨が長く降り続いたとき、農作業で使っていたトラックの荷台に雨が溜まっていることに弥助が気づいた。そんなに強い雨ではないように思ったが、荷台には薄らと膜のように水が張っている。水が凍るほど寒い日ではない。弥助がその膜に触れてみると、柔らかかった。
それから村の方々で報告が上がってきた。外に置いていたバケツに溜まった雨が柔らかい、ビニールシートの上に柔らかい水が溜まって崩れそうだ。
そこで寄り合いを開いてみんなが採集した雨を集めることになった。
触ってみると確かに柔らかい。ゼリーのような感触で、しかし掬おうとすれば水のように流れていく。口に含んでみる命知らずもいたが、害はなさそうだ。舌に触れたときに一瞬だけ質感があるものの喉につく頃には液体になっていて無味無臭、水のようだった。
田畑にも被害は出ていない。もともと土には浸透するから地面から溢れることはないし、成分が水なら問題はない。
村の者たちは不思議なオモチャと思って採集したり、興味本位で研究したりとあまり深く考えずに新しい物質と接し始めた。
しかしひと月と経たないうちに、悲劇は起こった。
「痛っ、なんだ?石ころか?誰だオレの頭に石ころ投げたんは!」
農作業をしていた文六が憤慨する。
「石ころ?んなもん投げねーよ。痛っ!ん?」
反論した太兵衛も頭に痛みを感じて空を見上げる。
「雨…か?」
その日降った雨は砂利程度の大きさの粒でも人に痛みを与えるほどの強さがあった。
“硬い雨”が降ってきた。
夜に向けて激しさを増した雨は村の家屋を貫き、茅葺きの屋根は跡形も残らなかった。瓦屋根は貫かれることはなかったが、瓦が割れる被害は続出した。負傷者も多数。トラックや農機具にも被害が出た。
被害の状況から硬い雨の特徴も見えてきた。柔らかい雨と同じく地面に落ちれば浸透する。農作物にも害はない。しかしとても重量があり、物に落ちれば貫通するほどの威力がある。そしてもう一つ。
「あの日、痛い雨から逃げようとして、とっさに川に入ったんです。そしたら雨に打たれてる感覚がなくなって…」
調査チームが村の近くの池や川を調べてみると、魚たちが死んでいる様子はなかった。
詳しく調べると、水に落ちてもすぐに勢いと硬度を失い、普通の水と同化するようだった。
そして村の調査団はこう結論づけた。“柔らかい雨”が“硬い雨”の盾になる。
その日から村のみんなにとって、次に降る雨が“柔らかい雨”か“硬い雨”かは死活問題となった。みんな祈りながら次の雨を待った。そして柔らかい雨が降ると一斉に外に出て、バケツやお盆、お椀、グラス、ボウル、巾着、エコバッグ、ナップザック…雨を受け止められるありとあらゆるものを総動員して柔らかい雨を収穫するのだった。
集めた柔らかい雨で大切なものをコーティングするのが次の仕事となる。雨でハケを濡らして、家の屋根から農機具、ビニールシートなどに塗っていく。日除けのための笠もコーティングすれば硬い雨から身を守る鋼鉄の兜に様変わりだ。
柔らかい雨を帯びた村の家々は、朝日を浴びると虹色の輝きを放ち、幻想的な光景を生み出した。
『虹色の村』
旅の写真家がこのタイトルを付けてSNSで発表した一枚の画像が、全世界を駆け抜けた。写真家はさらにこうコメントを付けている。「生きるために懸命に努力する人のエネルギーは奇跡の光景を生み出す。私はその人々のエネルギーを写真に収めたに過ぎません」。
その後、この村には命懸けで訪れる観光客が世界中から山のように訪れ、みなが柔らかい雨でコーティングした防護服(笠と蓑)を買い求めた。
村のみんなは、今日も恵みの雨を待ち望んでいる。
「店長、この本ってなんか話題だったりします?」
ここの本屋で働き始めて2ヶ月が経つ頃、やたらと売れる本に気づいた。
「ん?ああ。それ、どこに並べてあったかな?」
「ここです」
私はレジ前の角を指差した。
「そうかい。よく売れるのは何時頃だい?」
え?あ、そういえば。
「お昼の…2時から3時頃です!私がいつもレジに入ってるんで」
そういえばお昼の休憩を明けて眠くなる時間帯ばかりだ。いつもお客さんから午睡を阻害され…あいや、眠気を逸らしてくれるからよく覚えてるのかもしれない。
「いまは何月だい?」
は?何月?別にこれ歳時記に関係した本じゃないでしょ。私が手にしているのは『あの日との対話が明日を拓く』という宗教なのか自己啓発なのか怪しげな本だ。
「11月です」
店長は口の端を上げてニヒルな笑みを浮かべる。
「そうかい」
そう言うと店長は店の奥へと歩いて行った。「じきにわかるよ」という言葉を残して。
この本屋はチェーンではなく、駅前商店街の一角に古くからある独立経営の新刊書店だ。廃業が相次ぐ出版業界において粘り強く生き残っている。歴史も古いのだろうけれど、店内はさすがにボロ…とても古めかしい色褪せた棚が並んでいる。
「うー重たい!」
午前中は配送業者から届いた本を並べる。今日は新刊の発売日ではないから書籍は少ないが、雑誌は毎日山のように入荷する。そしてやたらと重い。
朝のうちお客さんはまばらで、店頭の立ち読みを数に入れなければ全く来ない日もある。言われてみれば例の本も見向きもされてない。
会社員がお昼休みになる12時台はちょっと忙しい。ビジネス系の雑誌や話題の書籍がちょっと動く。遅めのお昼休憩をいただいて午後。さあ眠くなってくるぞ。
建物の造りなんだろうけど、高い位置に明かり取りの窓がある。店内は自然光で明るくなるが、本にとってはいい環境ではない気がする。そして私にとっても。
あー眩しい。レジに入っていると午後の日差しがちょうど目に入る。おかげで眠気が妨げられる。いくら客が少なくてもレジに突っ伏して仮眠を取るわけにはいかない。
そうこうしていると迷い込んだお客さんがレジの前に立つ。この時間のお客さんは皆一様にゆっくりとレジの前に歩いてきて『あの日との対話が明日を拓く』をじっと見つめる。そして導かれるように手に取り、ほわっとした顔で私に差し出してくるのだ。
「この本、お願いします」
やはりこの本に何かあるのだろうか。不気味に思いながら愛想よくお会計を進める。すると一人、また一人とレジの前のコーナーに吸い寄せられてくる。
そして毎日、その現象は15時を過ぎるとパタリと止むのだ。
「ヤナギさん、ちょっといいかな?」
レジから客が引いたタイミングで店長から声をかけられた。店頭の雑誌のあたりだ。歩み寄ると
「ここの週刊誌、まだ裏に在庫あったでしょう。少なくなってるから補充しておいて」
「あ、はい。わかりました」
それだけで呼ばれたのか、とは思わない。店長は足を悪くしていた。私が雇われているのはこのためだ。
「それから、あなたの疑問はもうじき晴れるよ」
またニヒルな笑みを浮かべた。はぁ。予言めいた店長の言葉に、私は困ったような顔を返したが、内心ではわくわくしていた。怪現象はいまも続いている。そして店長はそのカラクリを把握している。
振り返ってレジに向かおうとしたそのとき。
「ああ、なんだ、そんなことか」
店頭からレジの方を見遣ると、明かり取りから一筋の光が降り注いでいるのが見えた。その光は一直線に、平積みにされた『あの日との対話が明日を拓く』を照らしていた。
「秋ってさぁ、もの悲しいよね」
定番を超えてもはや伝統とも言える秋についての考察をミサトが放ったのは、オール明けの朝日を見ながらだった。
暇な仲間で朝まで飲んで、始発を待つ駅のホームで哀愁を感じるって、大学生やってるなぁオレら。そんな思いに浸れる時間はあと半年もない。青春なのか。そして社会に出れば青春が終わるから、その一歩手前の秋。
「黄土色の秋、みたいなものか」
「え?」
「あ、いや、なんでもない」
上手くもない変な造語を口走ってしまった。徹夜明けの脳はバグだらけだ。
「もう一年くらい、大学行けないかなぁ」
今度はミサトが口走る。
「行く気がない言い方だな」
「だって最初の一年は行きたくても行けなかったし」
オレたちの年代はコロナ禍にかすってキャンパスライフを一年棒に振っていた。その期間は友達もできてないし、遊びにも行けなかった。
「友達がいて、バイトもできて、大学に行かないのと、なんもなくて大学に行けないのは全然違うじゃん。あれは軟禁だよ。アウンサンスーチーさんだよ」
「やめとけ」
あの方はいま刑務所にいる。
もっと遊びたいし、もっと騒ぎたいし、昼まで寝ていたい。でもそんな一日を過ごす度に、こんな朝はいつも虚しい。この日々で何か残るのか。
「なあ、ミサトは何かを成し遂げたいと思ったことはない?」
「んぁ?なにそれ?」
もしかしたら、いまが秋なのかもしれない。目標もなく、だらだらと生きて、あと一年、あと半年、あと十分だけこのまま寝かせて、と。それは青春じゃない。終わったあとにもの悲しさが残るだけの秋だ。どうせなら一生青春してたい。
「作るんだよ、オレたちで」
「へ?」
「オレたちで、一年どころか、十年、百年も続けばいいって思える世の中を!」
そして彼らは軍事クーデターを起こし、時の総理大臣を軟禁した。
自分の目に映る世の中は鏡である。何故か。人間は自分という鏡を通してしか社会を見られないからだ。ある一つのニュースが誰かにとって飛び上がるほど嬉しいことでも、同じニュースが誰かを深く悲しませていることもある。
その人の境遇や体調、感じ方によって、世界の見え方は変わる。だから私が見ている世界とあなたが見ている世界は少し違うのかもしれません。
なんだろう。昨日から様子がおかしい。違和感を持ったまま一日を過ごしてみたけど、まだ明確な「違い」を断定できない。その状態がもどかしく、居心地が悪い。
いま私は教室で席に着き朝のホームルームを待っている。この時点で違和感は生まれている。朝起きて顔洗ってご飯食べて歯を磨いて髪と顔整えて学校向かって何人かとおはようって言い合って学校着いてお手洗い行って席に着いて。何度違和感を持った?何度も。
落ち着こう。先生が来る前にいったんミラーを見ておこう。コンパクトミラーを取り出して自分の顔を確認する。
これだ。顔が違う。…いやいや、誰かと入れ替わってるとか急に美人になってるとかじゃない。なんかいい感じだ。たぶんどこか…
「オガタ、おいオガタ!」
前腕をつかまれて驚いて顔を上げる。
「点呼、名前呼ばれてるよ」
「ああ、はい!」
すでに担任が前にいて、ホームルームが始まっているようだ。
「なんだオガタ、今日元気いいな!」
うわキモ。これギリセクハラか? なんでいつも関心ない担任がそんなこと言うの?しかも点呼無視してぼーっとしてた私に?吐きそう。
「なんか雰囲気変わった?」
お昼休み。女友達のカナに言われて「それだ!」と気づいた。「なんか雰囲気変わった」だ。一言一句無駄なくこの状態をピッタリ言い当てている。確実に言いたいことはあるのに明文化できないこの感じ。
「大人になったってことじゃない?素直に喜んだら?これから男子にモテモテかもよ?」
いやいや、冗談じゃない。そんなの望んでないよ。
違和感の正体を言葉にしてしまうともう逃れられない。目が開いてしまった。他人からの視線がわかる。目を伏せていても追ってくる。廊下を歩くだけで吐きそうになる。
自意識過剰が原因じゃないのは自分に自覚がないからわかる。担任にも友達にも気づかれたということが証明だ。地味に質素に目立たずにを心掛けて生きてきたから、見られないことが当たり前だと思ってた。
世の美人はこんな視線に耐えてきたのか?これを力に変えるインフルエンサーなんて理解が及ばない。精神を蝕まれて当然だ。自覚はないけど鏡を見ればわかる。頼んでないのに勝手にかけられたシンデレラの魔法。
いたたまれずにお手洗いに駆け込む。蛇口を全開までひねって一心不乱に顔を洗った。
顔を上げると、鏡の中の私がニヤっと笑った。私は笑っていないのに、私でさえ魅せられそうな笑顔だ。
鏡の中の私は、もう私の世界が変わってしまったと告げていた。