KAORU

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12/9/2024, 3:40:02 PM

「おうい、姫子!」
 朝。登校中、交差点のところでびっくりするぐらいの大声で呼ばれた。
「天野くん」
 見ると、横断歩道の向こうで、彼がぶんぶん手を振っている。
 私はおたついた。あ、朝から、あんなおっきな声で。みんな見てるし・・・・・・・んもおおお~
 「おはよ、会えたな、ぐうぜん」
 駆け足でこっちに渡ってくる。私は、「声、大きいよ。恥ずかしいじゃない」と抗議。
 でも、天野くんはにこにこして「なんで?呼んだだけだよ」と私の手を取った。さりげなく。
「え……」
 出会った時から天野くんはとても強引な人。でも、私に触れたことはなかった。なのに今朝は、普通に手を握って私の前を往く。
 横断歩道を渡り終えたあたりで、私は我に返った。
「天野くん、--手、手!」
 振りほどこうとして、できない。天野くんは私に指摘されやっと気づいたみたいに「あ、ああ」と握っている手を見やる。
 つないだ手。
「俺たち、天の川の向こうとこっちとに離れてたじゃん? 前世で。だから、弱いんだ、道とか横断歩道とか歩道橋とかに遮られるの。お前が向こう側にいると、いるのを見ると、居ても立ってもいられなくなる」
 びっくりすぐほど心許ない目をして、彼は言った。私は彼が私の方に向かって、歩道を駆けてくる様子を思い出す。
「……天野くん」
「ん?」
「私、憶えてないから。っていうか、まだ信じてないし、私たちが前世で織姫彦星だったって。ただ、名前が似ているだけでしょ」
 そう言うと、にかっと笑った。
「相変わらずつれないなー。まあ、いいや、行こうぜ。遅刻しちまう」
 全然意に介した風もなく天野くんは歩き出す。私の手を握ったまま。
「~~んもう、強引だよ」
 困った振りをして私も歩き出す。つないだ手は離さず、私もそっと握り返した。

#手を繋いで
 

12/8/2024, 8:30:34 PM

「ちょ、なに、してるんですかっ。痴漢ーーこのひと、ちかんですっ」
 車内に、女の子の声が響いた。朝の満員電車。僕の隣にいた子が、顔を真っ赤にさせて眉を吊り上げて。
 ギクッと、僕の呪縛がそれで解ける。今まで、見えない力で雁字搦めにされたみたいに、身動きできないし息もできない状態だった。
「な、何をお前ばかなことを、」
 背後にいたスーツのおじさんが、うろたえた。女の子は「あたし、み、見ました。あなたが、このーーこの人のお尻、ずっと触っていたの、」とそいつを睨みつける。「ですよね?」と僕をひたと見据える。
 勢いに呑まれて、僕はこくこくと顎を引くしかない。でも、情けないことに声は出ない。喉の奥に舌が絡まって張り付いてしまったかのように。
 同時にえええええという衝撃が車内に走る。爆心地は僕たち。
 そっちかよーという、ずっこけと意外性と。ちらちらと好奇の視線がまとわりつく。
 痴漢に遭っていたのが男の僕で、それを告発したのが女の子という構図にいたたまれなくなる。朝っぱらから満員電車に騒動を引き起こしたことが申し訳なくなってきて、胃がしくしくしてきた。
 おじさんは、じりじりとドア口に移動しながら「何を、証拠もなしに、お前……訴えるぞ」とまくしたてていく。女の子は「待って。逃げないでください、ちゃんと謝って。この人に」とそいつに縋った。
 そこで停車駅に着いて、ドアが開く。人を掻き分けて、おじさんがあたふたと降りていく。
「誰かつかまえて! お願い、逃がさないで」
 後追いする女の子。乗客も何人か取り押さえようとするけれど、電車を降りてまでそいつを追っかけてつかまえようとする人はいない。
「あなたも!追っかけますよ、逃がしちゃだめ」
「あ?え?」
 ぐいぐいっと袖を控えて、僕はホームに連れ出された。女の子は左右を見回して「あ、あっち! すいません!その人、スーツの人、ちかんですっ。捕まえてください!」と叫ぶ。
 しかし虚しく、おじさんの姿は朝の通勤時のラッシュの構内に紛れてしまうのだったーー

「すいません。ごめんなさい」
「……何で謝るんです?」
「いやだって、僕のせいで、電車降りてるし、学校遅れるし……」
 駅のホームでベンチに腰を下ろした女の子は、はあああと深い深い息を吐きだした。そして、
「あの、私が言うのもなんですけど。あなた、もっと怒ったほうがよくないですか? 被害者なんですよ?なんでそんなに弱腰なの」
いら立ったように僕を見る。う……。
「男の僕が、痴漢被害に遭ってるなんて、なんか恥ずかしくて。男なのに」
 消え入りそうな声しか出ない。情けない。恥ずかしくて死んでしまいたい。
 割と昔から、痴漢に狙われるタチだった。気弱な性格を見透かされてしまうのだろうか、それとも、痴漢を引き寄せる何かがあるのか。
 慣れていた、とは言わないけれども。
「男とか女とか関係なくないですか。されて嫌なことされたら、すぐに自分で自分を守ってあげないとーーうやむやしにしたら、自分が、かわいそうです」
 きっぱりと強い目で言う。僕はまっすぐに言える女の子が羨ましかった。
 僕より小さい、彼女の手はよく見ると震えているのだった。膝の上で握られた、細い手。
「……ごめんね、ありがとう。僕のために」
 勇気を振り絞ってくれたんだろう。こんなに小さいのに……。
「緊張、したけど。見過ごせなかったの」
 やだった、と女の子は噛みしめるように言った。俯いたままで。
「あなたに、誰かがべたべた触るなんて……絶対やだ」
 卑怯よ、許せない。そう言う女の子の耳たぶが、真っ赤に染まっていく。
「え……?」
 この子、僕のこと、知ってる?
 改めてまじまじと彼女を見た。女の子はそこで顔を上げた。目が合う。
 女の子は顔を紅潮させたまま、「痴漢、とか許しちゃだめです。だめですよ」と自分に言い聞かせるように繰り返した。
 僕は、僕の代わりに怒ってくれる、許さないと言ってくれる彼女がまぶしかった。
「ありがとう……。あの、君の名前、訊いてもいいですか」
 そんな言葉を、女の子に差し出したのは、それが生まれて初めてのことだった。

#ありがとう、ごめんね

12/7/2024, 11:36:03 AM

 ボクは猫。部屋の片隅で、今、ご主人さまを見ている。
 さいきん、年下の恋人を連れてくるようになった、タエちゃんを。きれいになったタエちゃん。もちろんもともときれいだったけどさ。
「多恵子さん、ねこ、ーーピアノくんがじっと俺を見てるんですけど」
 タエちゃんの恋人。とのやまとかいう若造は、ご主人様を抱き締めつつボクをおずおず盗み見る。
 どうやら猫が苦手らしい。タエちゃんのところに泊まりに来ると、どこかしら緊張している。
「それは、あなたが珍しいのよ。今までここに男の人、来たことなんてないから」
「なんで名前が【ピアノ】なんですか?」
「ん、実家でね、ピアノの上で丸くなるのが好きだったの。だからピアノくん」
 私はピアノ、弾けないんだけどね。とタエちゃんは照れくさそうに笑う。
「へえ……」
 それよりも、ととのやまとかいう若造が、タエちゃんの耳にそっと口を寄せた。
「いつになったら俺のこと、下の名前で呼んでくれるんですか?」
「そ、それは……」
 いい雰囲気。カップルのイチャイチャが始まる気配。ボクは自慢じゃないが、そういうのに敏感なんだ。
 だから腰を上げ、しゅっと二人の足もとに纏わりついた。
「うをっ」
 頓狂な声を上げる。ボクはわざとがじがじとやつの足に歯を立てた。
「いて、てっーーピ、ピアノ、かじってる。齧ってますよ」
 とのやまはボクが甘噛みしても、タエちゃんを抱く腕を離さなかった。
 む。あんがい見上げた根性だ。ボクは、「こらやめなさい、ピアノったら」としきりにボクを引っぺがそうとするタエちゃんを見て、なんだか切なくなってより一層歯に力を込めてしまうのだ。

#部屋の片隅で
「紅茶の香り8」

12/7/2024, 1:52:44 AM

「どうかしました? ちらちら見て」
 冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出した殿山くんが振り向く。
「あ、ううんっ何でもない」 
 私は手にしていた雑誌を広げて読むふり。彼の視線を感じたが、文字を追ってそれを避ける。
 殿山くんは首をわずかに傾げてボトルの封を切った。湯上り、Tシャツにスウェットというラフな格好にまだ慣れない。
 自分の部屋の中に「彼氏」としているという事実にも。

「佐久さん、好きです。上司としてではなく、一人の女性として好意を持っています」
 そんなストレートな愛の告白を、30を超えてから8つも年下の男の子にされるとは思ってもいなかった。
 まっすぐに迫ってくる彼を見た時、とっさに頭に思い浮かんだのは「しまった」だった。
 職場恋愛。直属の部下にこんな言葉を言わせるなんて、私の指導に隙があったのかと。だいいち同じ職場での恋愛には懲りている。うまくいっても気はそぞろで仕事は手がつかなくなるし、うまくいかなくなったらもちろん気まずいからだ。
 なのに、そんな私の心の内を見透かしたように、殿山くんはふっと片笑んだ。
「やば、って顔してる。しまった、って」
「……」
「それは俺が部下だからですか。それとも8つも年下だからですか。それともどっちもですか」
「そ、それは」
 怯む私を壁際に追い詰めて、殿山くんは言った。
「あなたが過去に誰とお付き合いして、どんな経験値を得たのかは俺には関係ないです。俺は俺です。お試しでいいです。一週間まず付き合ってくれませんか」
 ずい、と迫られると顔の前が彼の胸だ。背が高い。
「ちょ、ちょっと殿山くん」
 近い近い近い。心臓の音、聴こえちゃう。
 手で必死に押しとどめる私に、彼は告げた。「万一ダメになっても気まずい雰囲気出さないって誓いますから。ね?」
「~~~」
 営業はまずこまめに通うこと。笑顔。そして粘り。私の教えを忠実に守って殿山くんは仕事で頭角を現していた。
 そのスキルを、こんな風に使うのって、反則だよ……。

 --とは言いながらあれよあれよとお試し期間はすぎ、いまもこんな風に互いのアパートを行き来するお付き合いを続けている。
 部屋着で寛ぐ彼を見て思う。若いなあと。立っているだけで、目を引く。身体つきがシュっとしていて、確かな存在感がある。これが、二十代……。
 ふと、そこで彼と目が合った。まずい。また、見惚れて……。
「佐久さん……いえ、多恵子さん」
 殿山くんは、私の下の名を呼んだ。はいっ、と思わず背がしゃんとなる。
 彼は私が顔半分覆うようにして読んでいた(ふりの)雑誌を取り上げて、こう言った。
「さっきから気になっていたんですけど。この雑誌、逆さまです」

#逆さま
「紅茶の香り7」

12/5/2024, 9:22:29 PM

 真夜中に携帯が鳴った。
 だれ? 知らない番号。恐る恐るタップして「・・・・・・はい?」と出た私の耳に、「あ、姫子。俺俺、天野」と明るい声が飛び込んでくる。
 天野くん? 天野星彦くん。え、え? なんで?
「どうして私の番号知ってるの?」
「んー。まあそこはいいじゃん。今何してたの」
 ちっともよくない。んも~。誰から聞き出したんだろう。私は机に肘をついて「勉強」とぶっきらぼうに答えた。
「まじめ。えらいなー姫子は」
 ちく。天野くんの声が心に棘を指す。昔から、生真面目と呼ばれてきた。そんなに頑張らなくても。てきとうに手を抜きなよと。
 でも、性分だからどうしようもない。テスト前には勉強をするし、門限の時間までにはウチに帰る。
「からかってるの?」
「なんで? 褒めてんだよ」
 夜だからか、天野くんの声がいっそうくっきり際立つ。
「……天野くんは、何してたの」
「切らないんだ。話してくれるの、このまま」
「……!それは、」
「散歩。眠れないとき、ふらっと街に出るんだ。夜」
 じゃあ今も外から?と思って部屋のカーテンを開けた。今夜は晴れている。明るい月が出ているから、星はあまり見えない。知らず、天野くんの姿を窓下に探してしまう。
「あぶなくない? 夜に散歩なんて」
と私が言うと、「夜のほうが自由な感じがする。息をするのが楽だ」と天野くんが答える。
 私は軽い足取りで、夏の渚を歩くように、甘く夜をさすらう天野くんを思い浮かべる。
「いいな、天野くんは」
 思わず言葉がこぼれてしまった。広げていた科学のノートの上に、それは滑り落ちる。
「……なんで?」
「ん。するっと携帯番号手に入れて、掛けたいときに電話して、気が向いたときに散歩に出て……。断られたらどうしようとか、誰かに咎められたらとか、考えないで行動できるところが」
「姫子も連れ出してやろうか。夜の散歩に」
 すっと言葉を差し込まれて私はどきっとした。
「え」
「眠れない夜に、電話しな。俺がつきあってやるから、怖くないし危なくないよ」
「……」
 何だろう。今夜の天野くんの声はとっても優しい。学校だともっと尖っているというか、イケ散らかしているというか、強引な感じなのに。
「ねえ、本当は何で今夜私に電話してきたの」
 勝手に口が動いて訊いていた。天野くんは押し黙った。濃厚な沈黙が闇に漂う。
 ややあって、天野くんは言った。
「声、聴きたかったんだよ。姫子の……眠れないくらい、どうしてもいま聴きたいって思ったんだ」
 月まで届きそうな澄んだ声で、彼は言った。私は身体の芯がぐらッと揺れるような感覚に襲われる。
 ずるいよ、天野くん。そういうの急にぶっこんでくるの。
 だめだよ……。

ーー織姫、そなたの声が聴きたい。姿は大河に阻まれたとしても、せめて、声だけでもーー

 月光に隠された星の向こうから、誰かの声が、聴こえた気がした。

 #眠れないほど
 

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