「ちょ、なに、してるんですかっ。痴漢ーーこのひと、ちかんですっ」
車内に、女の子の声が響いた。朝の満員電車。僕の隣にいた子が、顔を真っ赤にさせて眉を吊り上げて。
ギクッと、僕の呪縛がそれで解ける。今まで、見えない力で雁字搦めにされたみたいに、身動きできないし息もできない状態だった。
「な、何をお前ばかなことを、」
背後にいたスーツのおじさんが、うろたえた。女の子は「あたし、み、見ました。あなたが、このーーこの人のお尻、ずっと触っていたの、」とそいつを睨みつける。「ですよね?」と僕をひたと見据える。
勢いに呑まれて、僕はこくこくと顎を引くしかない。でも、情けないことに声は出ない。喉の奥に舌が絡まって張り付いてしまったかのように。
同時にえええええという衝撃が車内に走る。爆心地は僕たち。
そっちかよーという、ずっこけと意外性と。ちらちらと好奇の視線がまとわりつく。
痴漢に遭っていたのが男の僕で、それを告発したのが女の子という構図にいたたまれなくなる。朝っぱらから満員電車に騒動を引き起こしたことが申し訳なくなってきて、胃がしくしくしてきた。
おじさんは、じりじりとドア口に移動しながら「何を、証拠もなしに、お前……訴えるぞ」とまくしたてていく。女の子は「待って。逃げないでください、ちゃんと謝って。この人に」とそいつに縋った。
そこで停車駅に着いて、ドアが開く。人を掻き分けて、おじさんがあたふたと降りていく。
「誰かつかまえて! お願い、逃がさないで」
後追いする女の子。乗客も何人か取り押さえようとするけれど、電車を降りてまでそいつを追っかけてつかまえようとする人はいない。
「あなたも!追っかけますよ、逃がしちゃだめ」
「あ?え?」
ぐいぐいっと袖を控えて、僕はホームに連れ出された。女の子は左右を見回して「あ、あっち! すいません!その人、スーツの人、ちかんですっ。捕まえてください!」と叫ぶ。
しかし虚しく、おじさんの姿は朝の通勤時のラッシュの構内に紛れてしまうのだったーー
「すいません。ごめんなさい」
「……何で謝るんです?」
「いやだって、僕のせいで、電車降りてるし、学校遅れるし……」
駅のホームでベンチに腰を下ろした女の子は、はあああと深い深い息を吐きだした。そして、
「あの、私が言うのもなんですけど。あなた、もっと怒ったほうがよくないですか? 被害者なんですよ?なんでそんなに弱腰なの」
いら立ったように僕を見る。う……。
「男の僕が、痴漢被害に遭ってるなんて、なんか恥ずかしくて。男なのに」
消え入りそうな声しか出ない。情けない。恥ずかしくて死んでしまいたい。
割と昔から、痴漢に狙われるタチだった。気弱な性格を見透かされてしまうのだろうか、それとも、痴漢を引き寄せる何かがあるのか。
慣れていた、とは言わないけれども。
「男とか女とか関係なくないですか。されて嫌なことされたら、すぐに自分で自分を守ってあげないとーーうやむやしにしたら、自分が、かわいそうです」
きっぱりと強い目で言う。僕はまっすぐに言える女の子が羨ましかった。
僕より小さい、彼女の手はよく見ると震えているのだった。膝の上で握られた、細い手。
「……ごめんね、ありがとう。僕のために」
勇気を振り絞ってくれたんだろう。こんなに小さいのに……。
「緊張、したけど。見過ごせなかったの」
やだった、と女の子は噛みしめるように言った。俯いたままで。
「あなたに、誰かがべたべた触るなんて……絶対やだ」
卑怯よ、許せない。そう言う女の子の耳たぶが、真っ赤に染まっていく。
「え……?」
この子、僕のこと、知ってる?
改めてまじまじと彼女を見た。女の子はそこで顔を上げた。目が合う。
女の子は顔を紅潮させたまま、「痴漢、とか許しちゃだめです。だめですよ」と自分に言い聞かせるように繰り返した。
僕は、僕の代わりに怒ってくれる、許さないと言ってくれる彼女がまぶしかった。
「ありがとう……。あの、君の名前、訊いてもいいですか」
そんな言葉を、女の子に差し出したのは、それが生まれて初めてのことだった。
#ありがとう、ごめんね
12/8/2024, 8:30:34 PM