「どうかしました? ちらちら見て」
冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出した殿山くんが振り向く。
「あ、ううんっ何でもない」
私は手にしていた雑誌を広げて読むふり。彼の視線を感じたが、文字を追ってそれを避ける。
殿山くんは首をわずかに傾げてボトルの封を切った。湯上り、Tシャツにスウェットというラフな格好にまだ慣れない。
自分の部屋の中に「彼氏」としているという事実にも。
「佐久さん、好きです。上司としてではなく、一人の女性として好意を持っています」
そんなストレートな愛の告白を、30を超えてから8つも年下の男の子にされるとは思ってもいなかった。
まっすぐに迫ってくる彼を見た時、とっさに頭に思い浮かんだのは「しまった」だった。
職場恋愛。直属の部下にこんな言葉を言わせるなんて、私の指導に隙があったのかと。だいいち同じ職場での恋愛には懲りている。うまくいっても気はそぞろで仕事は手がつかなくなるし、うまくいかなくなったらもちろん気まずいからだ。
なのに、そんな私の心の内を見透かしたように、殿山くんはふっと片笑んだ。
「やば、って顔してる。しまった、って」
「……」
「それは俺が部下だからですか。それとも8つも年下だからですか。それともどっちもですか」
「そ、それは」
怯む私を壁際に追い詰めて、殿山くんは言った。
「あなたが過去に誰とお付き合いして、どんな経験値を得たのかは俺には関係ないです。俺は俺です。お試しでいいです。一週間まず付き合ってくれませんか」
ずい、と迫られると顔の前が彼の胸だ。背が高い。
「ちょ、ちょっと殿山くん」
近い近い近い。心臓の音、聴こえちゃう。
手で必死に押しとどめる私に、彼は告げた。「万一ダメになっても気まずい雰囲気出さないって誓いますから。ね?」
「~~~」
営業はまずこまめに通うこと。笑顔。そして粘り。私の教えを忠実に守って殿山くんは仕事で頭角を現していた。
そのスキルを、こんな風に使うのって、反則だよ……。
--とは言いながらあれよあれよとお試し期間はすぎ、いまもこんな風に互いのアパートを行き来するお付き合いを続けている。
部屋着で寛ぐ彼を見て思う。若いなあと。立っているだけで、目を引く。身体つきがシュっとしていて、確かな存在感がある。これが、二十代……。
ふと、そこで彼と目が合った。まずい。また、見惚れて……。
「佐久さん……いえ、多恵子さん」
殿山くんは、私の下の名を呼んだ。はいっ、と思わず背がしゃんとなる。
彼は私が顔半分覆うようにして読んでいた(ふりの)雑誌を取り上げて、こう言った。
「さっきから気になっていたんですけど。この雑誌、逆さまです」
#逆さま
「紅茶の香り7」
12/7/2024, 1:52:44 AM