「ご馳走様、美味しかった~」
朝食を完食して、花畑は手を合わせた。朝からいい食いっぷり。
昨夜、俺のうちに泊まっていった。俺たちは付き合いだした。
「どういたしまして。今日の予定は?」
食器をキッチンに下げた花畑に俺は訊いてみる。
「面接があるの。正社員枠でね、行ってみるよ」
「派遣会社、辞めるの」
「うん、なんか、腰を落ち着けて働くのもいいかなって。藪さんがあたしに仕事のしかた仕込んでくれたし」
「そうか……」
懐かしい思いがこみ上げる。うちの会社に来たはじめはいつもさぼること、手を抜くことしか考えてなかったようなやつなのに。
付いたあだ名は「おはなばたけ」ちゃん。だったのに。
変わった。ーーといえば、俺も大分変わったが。
こいつへの想いが。
「なあ、本気でここで一緒に暮らさないか。何回も言ってるけど」
ダメもとで言ってみる。でも、花畑の答えはいっしょだった。
「やですよ、そんな扶養家族でもないのに」
「扶養家族になればいい」
プロポーズ。何回も結婚しよう、一緒に暮らそうと申し出ている。しかし、「んー、それはまだいいかな」と花畑は素っ気ない。
「まだってな」
俺は脱力する。
「ずるずるになるの、やなんだ。折角藪さんが一から育ててくれたんだもの。力、試してみたい」
きっぱり言う。迷いのない目をしている。
俺はやれやれとため息を宙に溶かした。後頭部を掻く。
「俺は保留扱いか……。仕事なんか教えるんじゃなかった」
「後悔してる? 藪さん」
「いやーーぜんぜん。お前、いまかっこいいよ」
最高にな、と言ったところに、キスが来る。花畑がつい、と俺に近づいて掠めるように唇を重ねてきた。
「お」
目を白黒させてしまう。出し抜けだったから。
「じゃあ、行ってきます。面接、うまくいくように祈っててね」
鏡の前で髪を整え、身づくろいをして花畑は言った。
「わかった。今夜も一緒に食わないか」
「うん。楽しみにしてる」
俺は片目をつぶって、「行ってきます」と部屋を出ていく花畑を見送った。
俺に満開の花を見せる女。笑顔ひとつで。
……俺が育てたんじゃないよ。元から、能力はあったんだよ。質の高い仕事、ずっとやりたかったんだよ、お前は。
本来の姿なんだ。だから今、そんなキラキラしてるんだな。
とても嬉しくて、少し寂しいよ。本音を言えば。
「行ってらっしゃい」
パタンと閉じた玄関のドアに向かって俺は呟いた。
がんばれ、という思いといっしょに。
END
「やぶと花畑・完」愛読ありがとうございました
#はじまりはいつも
ピンポーン。
「はーい」
俺が、玄関のドアを開けると、ちんまりとした女の子がいた。
お隣さんーー遠山さんだ。こないだ、でかい地震があったとき、停電が続いた中お互いにチャッカマンとろうそくを貸し借りしてお近づきになった。
「良かったー、西門さん、なかなか居なくて」
やっと渡せる。と笑顔になった。
「ごめん、すれ違いだった? 俺夜もバイト入れてるから」
「いいの、これこないだのお礼。アロマキャンドル、ありがとうございました。おかげで停電でも助かりました」
そう言って、俺に手にしていた紙袋を渡す。結構嵩がある。なんだ?中身は。
と思ったが、「別に気にしなくても良かったのに。アロマだったんだね、あれ。どおりでいい匂いすると思った」と言った。
「彼女さんの趣味? 助かっちゃった」
ニコニコしながら遠山さんが言う。
「彼女なんていないよ。まぁとにかく、ありがとね」
俺もニコニコしながら改めて礼を言って、別れた。
アパートのお隣同士。すれ違って、目礼する程度の関係だったのが、地震というハプニングで俺たちは互いの名前を名乗り、大学生同士だと知った。
部屋に戻り、紙袋から中にある物を取り出した俺は目を丸くした。
「ーーお礼って、これ?」
出て来たのは卓上コンロだった。スペアのボンベも2本添えられている。
俺は笑った。言った、確かに言ったけど。ガスが止まって煮炊きも出来ねえなと、地震の時。あれを覚えていてくれたのかーーでもそれにしたってお礼が卓上コンロって! 助かるけど。
「やっぱ最高だなぁ彼女。遠山さん。遠山なぎささん。おもしれー、さすがは俺が見込んだだけはある」
色気のかけらもない実用的な日用品をテーブルに置き、俺は彼女のアパートのほうの壁を見つめた。
壁一面には、隠し撮りした物を紙焼きに印刷した遠山さんの写真が山ほど貼られている。隙間も見えないほどびっしりと。
大学へ出かける遠山さん、バスを待つ遠山さん、部屋着でゴミを出す遠山さん、彼氏に振られ泣き腫らした目の遠山さんーー
彼女が隣に越して来てからずっと見守って来た。盗聴器を仕掛け、部屋の中の様子や会話をチェックして来た。
郵便物も、中を見たかったけど、発覚するリスクが高いので諦めた。表書きで俺は名前をとっくに知ってた。
遠山なぎささんーー
もうすぐ、もう少しで君は俺のものになる。
彼女のことを聞いて探りを入れてきてるのが、その証拠だ。俺に興味を持ち始めた。
優しい隣人の俺に。
俺は卓上コンロを見下ろした。地震に感謝だなとほくそ笑んだ。
#すれ違い
「柔らかな光2」
「きれいだったね、プラネタリウム」
「ほんとだねー、来てよかったねー」
深雪と水無月は手を繋いでプラネタリウムのドアを出た。真昼なのに、さっきまで星空の世界を堪能したせいか、夜の気配を引きずってしまう。
「雫ちゃん、お昼何食べたい?」
深雪が見上げて尋ねる。水無月の会うのは今日で二回目だが、すっかり懐いている。俺と二人で出かける時よりも楽しそうだ。
「深雪ちゃんは何がいい?」
「みゆきはねー、まわるおすし!」
娘は周りの人たちが失笑するほど元気よく答えた。思わず俺は赤面する。
「おい、声が大きいよ」
水無月はあははと笑って、「奇遇だね、私もまわるおすしがいいな」と言う。
「やったー!パパ、まわるおすし行こう」
「行こう行こう」
繋いだ手をぶんぶん振って二人は俺の前をゆく。大小の背中を後ろから俺は眺めた。
深雪を預かってもらったお礼に、今日はプラネタリウムへやって来た。朝からバケツをひっくり返したような土砂降り。待ち合わせ場所に現れた水無月は、申し訳なさそうな顔をした。
「すみません、私、予定を組んで外出するとき、必ずお天気崩れるんです」
「アメフラシのまつえいだから?」
意味がわかっているのかいないのか、深雪が尋ねる。
「こら」
「そうだよ、ごめんね。雨で」
水無月は苦く笑った。深雪のレインコートが雨滴を弾いているのが見えた。
「いいよ、雨はね、雪に変わるんでしょ」
深雪は水無月に言った。
「寒いところだと、雨は雪に変わるんだよって。だから、雫ちゃんが降らした雨は、深雪が雪に変えてあげればいいんだよ。スキーをすべる人とか、喜ぶからってパパが言ってたよ」
あ、おい言わんでいいと深雪を遮ろうとしたけど遅かった。
水無月は揺れる瞳を俺に向けた。
都心で初雪を見るときのような、はっとした表情がよぎった。
「……パパがそんな風に話してくれたの?」
「うん、電車でここにくるとき、窓の外みながらお話ししたー」
「……ありがとう、優しいパパだね、深雪ちゃんのパパは」
ややあって、声を顰めて水無月が言った。
「うん、優しいよ!パパいっつも」
俺は照れ臭くて仕方がなく、わざとらしく「さー、回転寿司、近くにあるかな」と携帯を出して検索するふりをした。
それから俺たちは最寄りの回転寿司で腹を満たした。水無月は安い寿司だったが、嫌な顔をせずたくさん食べてくれた。
楽しいひとときだった。俺は深雪と水無月に感謝した。水無月とふたりきりで出掛けていたら、ぎこちなくなってこんな風に笑えていなかったかもしれない。水無月も、子ども連れの待ち合わせを了承してくれなければ、深雪も寂しい休日を過ごしたかもしれない。
外は台風級の大雨だったけど、俺の心は清々しいほどの秋晴れだった。
ーーそれにしても、深雪にはあんな風に言ったが、アメフラシの末裔説って、ガチなんだろうか? にわかに信憑性が…
#秋晴れ
「通り雨5」
花畑はクビになった。
あんなに仕事を教えて、使えるようにしたのに、月末にいきなり総務から来月から出社する必要はなしと申し伝えられた。
いわゆる派遣切り。
送別会もできなかった。ーー課で、きちんとした別れも。
空のデスクを見て俺は思う。
あの晩、豪雨の日、俺が花畑を家に泊めなかったら、花畑はまだここにいただろうかと。
会社には俺たちのことは知られてはいない。花畑も話すようなやつじゃない。俺が言うわけもない。
たまたまだ、と分かっている。契約の関係、派遣先との問題。個人的な理由ではない、そう分かっていても俺は、どうしてもあの雨の夜に引き戻されてしまうのだった。
「こんばんは」
あっけなく、俺のマンションに花畑はやってきた。
「ーーおう、その、呼び出して済まなかったな」
俺は出迎えたドア先で戸惑う。まさか、こんなにフツーに、呼び出しに応じるなんて。
「薮さんが呼んだんですよ。晩ご飯食いに来ないかって」
花畑はうっすら微笑んだ。
俺はなんだか花畑を直視できない。
「そうだな、まあ上がれよ」
「お邪魔します」
居ても立っても居られず、携帯に電話した。まさか出てくれるとは思わなかった。
「いい匂いがする。鍋もの?」
鼻を引くつかせてキッチンを見る。
「惜しい、うどん」
「鍋焼きうどんですか? わー嬉しい、今日寒いから美味しいですね」
花畑は無邪気に笑った。
俺はふと胸が詰まる。俺の目線に気付き、花畑は表情を変えた。
「……なんです?」
「いや、なんか、随分久しぶりに笑った顔見た気がするって思って。変だな」
俺が苦く笑うと、花畑も空気に溶かし込むように息を吐いた。
「会社クビになってからまだ、1週間しか経っていませんよ」
「そうだな。今は?」
花畑は首を横に振る。
「どこにも。無職です」
「そうか」
なんと声をかけてよいか分からず俺は黙るしかない。
花畑はわざと明るい声を出した。
「薮さんのせいじゃないですから暗くならないで。派遣だとよくあることなんです」
「だが、あんな」
と言いかけて俺は言葉に詰まる。
あんな風に人を切るなんてーーそんなセリフ、俺が口にする資格あるのか? 俺が花畑を軽んじていないと胸を張って言えるか。天地天明に誓ってーー
「……そりゃあ電話もらって、晩御飯食いにこないかって言われた時、正直バカにすんなって思いましたよ。こいつ何言ってんだ、って」
笑みを湛えたまま花畑は続ける。
「ひとの、身体張った一世一代の告白に返事も寄越さないで、会社辞めるときにも別れの言葉もないような奴、もう諦めちゃいなよ。そんな風に思いました。薮のバカ、チキン野郎って」
「……うん」
「でも、出来なかった。忘れたくても、忘れられなかったの。どうしてもーー食べたかった、薮さんのご飯。美味しくて、どうしてもどうしても食べたいって思ったの」
なんだか駄々っ子のような口調だった。あれこれ思い悩み、もやもやしていたのが爆発したのだろう。
「俺じゃなくて、忘れられなかったのは、俺の飯か」
「飯でも何でもおんなじよ! 薮さんの全部詰まってるじゃない。料理にーー薮さんの全部じゃない、ご飯って。愛情そのものでしょう。
なんでよ、どうして今の今になって来いとかいうの? あんまりだよ」
最後は泣き声だった。
「好きだから」
俺は言った。「好きだからだよ、お前が。ーー飯を食わせたい、美味そうに食ってる顔、見たいって思うの、花畑しかいないから。だから会いたかった、来てほしかった。俺のところに」
好きだーー心から俺は思った。
花畑は、うううと歯を食いしばってポロポロ涙を溢した。
あと一話で完結
#忘れたくても忘れられない
「やぶと花畑7」
コンコン、ノックの音。
恐る恐るドアを開ける。と、隣のアパートの住人さん。見覚えのある顔に、ほっとしながら、
「……はい?」
5センチ開いた隙間から訊いた。
「すみませんいきなり。あの、なんか火をつけられるものないですか」
彼はパーカーのフードを被ったまま言った。
「火、ですか」
「うん、チャッカマンとか、マッチ、ライターでもいいす。ろうそくはあるんだけど、点けるモノがなくて」
俺タバコ吸わないんでと聞いてもいないのに付け加える。
「チャッカマン、あります」
あたしが言うと、良かったとフードの奥で笑顔になった。
「少し貸してください。当分電気止まってそうだし、夜明かしするにしても灯りぐらい点けとかないと」
いいな、と思ったのが顔に出たらしい。彼が「君も一人暮らしですよね。灯りになるようなの、ある?」
と訊いてきた。
タメ口と敬語がごちゃ混ぜだ。何歳かわからない者同士だからだろう。
あたしが顔を横に振ると、「うちのろうそく、分けてあげるよ。夜中、真っ暗だと心細いよね」と言い募る。
「ほんとですか、助かります。携帯のバッテリーもやばくてどうしようかと思ってたんです」
「俺も、チャッカマン借りるから、お互い様。じゃあ今持ってくるね」
彼は言って踵を返す。ーー隣の部屋に行きかけて、足を止めた。振り返る。
「あの、こんな時だから声かけ合おうぜ。何かあったら、隣にいるから、いつでも呼んでください」
「ーーありがとう」
優しい言葉にうるっときた。
大学の授業を終えて、アパートに帰り着いた頃合いを見計らったかのような大地震。電気、ガス、水道は止まり、ライフラインは絶たれた。
親元を離れ、都会で一人暮らしのあたしは怖くて怖くて泣き出しそうだった。ーー誰か、助けて。
お母さん……
そんな時、ピンポーンとドアチャイムが鳴り、お隣の彼が現れたのだ。
いい人! 今まで外階段とかですれ違っても、目礼ぐらいしかしたことないけど、ほんとお隣さんがいい人で良かった!
あたしは彼からお裾分けしてもらったろうそくに火を灯した。柔らかい光が強張った心を解いてゆく。
あたしは、頬杖をついてふふ、と笑った。
「これってろうそくじゃないじゃん……アロマじゃん」
いい香り。余震に怯える夜をじんわり包み込む。
今彼もこの香りを嗅いでいるかな。と、あたしは彼のいる部屋の方の壁を見つめた。
#柔らかな光