『初恋の日』
怪盗Xが現れた
緩やかに巻かれた長い髪の毛、美しいこの世界を見下ろす真っ黒な目、誘惑的な微笑を浮かばせる厚い唇
電飾に踊らされているこの世界で、ボクはカノジョに心を盗まれてしまった
「返して欲しい?」
「いいや。どうかキミが持ったままでいて」
すぅ、と細められるその瞳にボクは釘付け
カノジョは声を出して笑った
細い指がボクの顎に絡み、カノジョのキレイな顔はボクの顔に近づく
「それじゃあね、怪盗Xさん。アナタの心はアタシが頂いていくわ」
「ハハハ、やられたなぁ.......でも次はキミが奪われる番さ」
やれるものならやってみなさい
生温い風が草木を揺らし、身を翻したカノジョのワンピースもふわりと浮かせた
「参った参った.......ボクの元には予告状が届かなかったよ、小さな怪盗さん」
もう一度、次は強く吹いた風はカノジョの残り香を運んでくる
美しい海が下に見えるテラスでボクは
盗んだティアラを放り捨てた
『欲望』
・沙耶香(さやか)
・綾華(あやか)
「可愛い顔に、美人に生まれたかったって、沙耶香の口癖みたいなものだったよね」
「悪いかよ」
綾華の言葉を否定しなかったのは、確かにと納得した自分が居たからである。小学生の頃から己の顔の造形にコンプレックスを抱いていたし、それは今でも変わらない。気がつけばそういった渇望が声に出ていて、言うたびに「自分は不細工」と遠回しに傷つけているような感覚がある。
二人は現在、綾華が住んでいるマンションで酒盛りの真っ最中である。女二人きりでどうでもいいような馬鹿らしい会話をする。けれどそんな時間が結局は一番楽しいのかもしれない。
綾華が缶ビールのプルタブを引き上げ、プシッと軽快な音が鳴る。沙耶香はつまみを口に放り込み、意味もなく人差し指を机に打ち付けながら、いい飲みっぷりの彼女を見ていた。
「思い出した。沙耶香が学校にメイクをしていってそれがバレて、担任としょっちゅう喧嘩してたね。よく君は言ってたよ。『可愛くなりたいって思って頑張ってメイクしてきて、それの何が悪いんだよ』って」
そんなこともあったな、沙耶香の高校時代の記憶がピンぼけ気味に蘇る。担任の顔はイマイチ出てこないが、顔に似合わない大きな眼鏡をしていたことが印象的な女性教師だった。高校一年生の頃だったか、確かにその人とはよくいがみ合っていた記憶がある。
「あー言ってたわ。あんた覚えてる? あたしが授業中に呼び出されて」
「ああ! あれだろう? 君が担任に『てか眼鏡似合ってねーよ! トンボみたいな顔面しやがって』って言って、それはそれは、凄く怒られたやつだろう?」
「そうそれ、反抗期真っ盛りのあたしがめちゃくちゃに怒られた話。あの人元気でやってっかな〜……まだあのでかい丸い眼鏡使ってんのかな」
かもしれないな、そう綾華と二人で笑い、しばらくは懐かしい思い出話に花を咲かせていた。高校時代の笑い話、二人が初めて出会って言葉を交わした小学生の頃の話、社会人になって友人と一緒に居酒屋で飲みまくった話──付き合いが長くなってくると、こういった過去の話をする機会が増える。ただ単に、長く居すぎて話題がない、というのもないとは言いきれない。ただ何度同じ事を話していても飽きないので、いつの間にかこうして話し込んでしまうのだ。
会話に一段落がついたところで、沙耶香も二缶目のプルタブを開けた。
「あたしは『可愛くなりたい』が口癖だったけど、綾華の口癖はあれだな。『妹みたいになりたい』だ」
綾華は少し目を見開き、そして眉を寄せて微笑んだ。
「ああ……確かにそうだった。あの子は凄い子だから、よく母さんと父さんにも褒められてて。まあ、羨ましかったんだよ」
綾華には一つ下の妹がいる。勉学が特に優秀だったらしい。他にも、美的センスや発想力、文学的才能も見られていた。運動は得意だがそれ以外はさほどであった綾華にとって、そんな妹にはどうしても劣等感を感じてしまうようだった。一時は完全に口をきかなくなるほど妹を妬ましく思っていたと、綾華はそう語る。
「今はもうそんな事ないし、なんなら仲は良いほうさ。この間なんか二人で料理をして、薄力粉を床にぶちまけて笑い泣いていたね」
「テメーはもう料理すんなって、ヘタクソなんだから。綾華の料理が成功したの見たことねえよ。いい加減、まともなモン作るのは諦めな」
「ははは、断るよ。次は美味しくなるかもしれないしね」
そんな日こねーよバーカ──うるさいそんなの分からないだろう──いいや分かるわこのクソ女──なんだい貧乳カス女のくせに。またアホらしい言い合いをして、カラスが驚く程に大きな声で笑った。
酒の進みが早くなり、つまみの数も段々と減っていく。遂に綺麗になった皿を片付け、先程食べていた鍋をおじやにして、二人はさらに酒を飲んだ。コンビニで買ったシャンパンは意外にも美味で、ほどよい強さの炭酸が舌の上で弾けていた。
今が夜中の零時過ぎとは思えないくらいに騒いで、腕相撲大会に発展したと思えばまた下らない事を喋って。そんな時間を二人で過ごす。
「なあ沙耶香。昔の口癖はああだけど、今はどうだろう?」
綾華がふとこんなことを言い出すので、沙耶香は少しの間考える。しかし中々結論が出ないので、思考を止めて頬杖をついた。
「あーあ、こんなこと考えてる暇あったら彼氏作りたい。彼氏欲しい」
「いやわかるよそれ。彼氏欲しいな私も」
綾華はウンウンと頷き、床に仰向けで寝っ転がった。
沙耶香は数秒ぼんやりとしていたが、思うことがありポソッと呟いた。
「……『彼氏欲しい』が綾華の口癖じゃねーの?」
しばし謎の沈黙が漂い、身体をゴロリと沙耶香へ向けた綾華は、不可思議なものを見る目をして言った。
「どちらかと言えば君の、だろう?」
又もやしんとする部屋には微妙な空気が流れる。
ブォンブォンと喧しいバイクの音が遠ざかり、二人の吐いた溜息混じりの独り言は、室内にはよく響いた。
────彼氏欲しい
『君は今』
・トウマ
・水蓮(すいれん)
「水蓮くん、飲まない?」
トウマは小型のワインセラーから白ワインを取り出し、グラスを二つ用意する。
リビングの机で何やら参考書を用い作業をしていた白髪の彼は、悪戯っぽく微笑みながら持っていたペンを置いた。
「未成年に飲酒勧めちゃだめなんだよ」
「いいじゃないの、どうせ飲む気満々なくせに。ボクの家来たら大体飲んでるでしょ君」
そうだっけ、覚えてないよ──そう白々しく答える水蓮は机の上を片付け、トウマの持ってくるワインを待ちわびている。やはり飲む気しかないじゃないか、トウマはやれやれと笑い彼の前にワイン入りのグラスを置く。
チン、と二つのガラスを合わすと高い音が鳴る。水蓮はそれを二口で飲み干し、もう一杯いいかと訊くのでトウマは頷いた。あっという間に顔が赤く染まる彼を見ていて、少し昔のある思い出を思い出す。
トウマを一人取り残した彼女も、お酒にはすこぶる弱かった。カクテル缶でも酔える水蓮と、同等であったように思う。非常に懐かしい。彼女が今も生ててさえ居てくれれば、今こうして酒を共にしているのは彼では無かったのだろう。
彼女には、いつの間にか置いていかれてしまった。トウマは彼女の自殺を止めることが出来なかった。あんなに、ずっとずっと、一緒に居たのに。愛していたはずなのに。
「ね、トウマ……」
林檎色の顔で口元を綻ばせている水蓮は、トウマの頬を両手で包み互いの唇を軽く触れさせた。そのまま耳を首を弱く噛み甘える彼を放ったらかしにする訳にもいかず、抱き上げトウマの寝室へ連れていく。
「あのねぇ、君ほんと外でお酒飲まない方がいいよ。女の人にこういうことしたら、セクハラだーって言われちゃうんだから。ほらほら水蓮くん、良い子はもう寝る時間だよ」
酒を飲むと彼はいつもこうなのだ。
この美少年との初対面は街中で、彼が真夜中にレモンサワーを飲んでいるところをトウマが話しかけた。こんな時間に学生らしき少年が一人地面に座り、酒を飲んでいる。不審に思い思わず声をかけてしまった。
「何してるのよ君は。学生でしょ、高校生?」
「え〜見たまんま……お酒飲んでるの。ふふ、僕の叔父さん警察なのにぃ。怒られちゃうな」
既に酔っ払った様子で、へらへらりと彼は呑気に笑った。
その酒はどこで手に入れたのかと問うと、家の冷蔵庫にあった叔父の酒だと答える。とんだ非行少年だと呆れる。
「ねーお兄さん、僕とホテル行こうよ。お兄さんの家でもいーよ」
ホテルというあまりにも直接的な物言いに驚いた。ホテルというのはまさか、ビジネスホテルの事でもないだろう。
まあいいか、しゃがんでいる彼の目線と自分のとを同じ高さに、トウマは彼の手を引き、立ち上がるのを手伝う。トウマ自身、街を出歩いていたのは今夜の相手探しであった。この日を境に彼は度々トウマの家に来るようになり、俗に言うセフレの関係が続いている。
トウマの他にも遊び相手は複数人いるようで、水蓮はしばしば誰かの家に泊まらせてもらっているらしかった。そんなに家を空けてたら叔父さんが心配するんじゃないの、そう言うと彼は鬱陶しげな顔をしたので、それ以来は叔父及び家族の事には触れないようにしている。
よっこいせと投げるようにしてベッドへ彼の身体を下ろすと、乱暴しないでよと水蓮は上目遣いにトウマは睨んだ。
「ふふ。トウマは僕のこと、良い子って思ってるの?」
「いや、全く。君は生意気な非行少年だよ。年上のボクにもタメ口だし」
そうは言っても、今更敬語を使われるのも少々気持ちが悪い。
敬語──そんなこと自分が言えたことではなかった。彼女はトウマよりも一つ年上だったというのに、最初から最後までタメ口だったのはどこの誰だったか。
直ぐに愛しいあの人を想ってしまう己の思考を振り払うように、トウマは水蓮に沢山の口付けを落とす。 大人ぶっているクセにキスの一つで顔を赤らめるところや、煽る割には焦らしに焦らすところ。水蓮は彼女と少し似ている節があった。
トウマの下で声を漏らすこの少年に集中しなければならないのに、脳のどこかでは必ず彼女が、寂しそうに眉を下げ微笑んでいるのである。そんな遠くに居ないで出来ることならば、もっと近くに、君のもといたこの世界に、トウマの隣にやってきて、そして
「──トウマ」
互いに汗ばんできた身体と熱い吐息。二人の興奮は最高潮に達していた。そんな時に彼はトウマにストップをかけ、静かに訊く。
「いま、トウマ、誰のこと考えてたの」
「…………」
水蓮はトウマの腕を握り、無意識なのか爪を食い込ませた。
「いまは僕と、してるんだから、僕のこと考えてよ」
そして彼は、必死にトウマの唇に食らいついた。
誰のことを考えていた?
嗚呼、確かにそうだ。少なくとも彼のことは考えていなかった。
「……なんてね。僕のことだけ考えてなんて、そんなの、無理でしょ」
「いや、ボク……」
「……本命いるんでしょ。気づいてないと、思ってたの」
その本命の子はもう死んだよ──そうは言えず、そのまま二人は無言で行為を続けた。その間も彼ただ一人を考えているのは、トウマには出来なかった。
『小さな命』
・鳳上征(ほうじょうまさし)
・鳳上薫(ほうじょうかおる)
・小柳想太(こやなぎそうた)
・小柳優(こやなぎゆう)
*気がついて下さった方がいらっしゃるかもしれませんが、僕の書くものは、偶に以前書いたものと少しだけお話が繋がっているものがあります。
「こんにちは征さん、薫さん! あれ、その子は……?」
十一月のもう下旬、そろそろ肌寒くなってきた頃、想太は部活帰りに自宅付近の公園で鳳上夫妻と出会った。
この二人はご近所さんで、想太も、十一歳差の弟の優も良くしてもらっている。特に優はよく可愛がってもらっているらしい。薫さんは子供ができない体質だそうで、それも小柳兄弟に優しくしてくれる理由になっているのだろう。
この二人が公園だなんて珍しいな、そう思い想太は話しかけたのだが、今日は鳳上夫妻以外にももう一人、見知らぬ子供が居た。
「ああ、小柳兄か」
「あらまあ、こんにちは想太くん。あと、おかえりなさい」
「あ、はい! こんにちは、帰りました!」
薫さんがうふふと笑い挨拶をしてくれる。想太もそれに元気よく応え、ぺこりと頭を下げた。
顔を上げた際に、想太が気にしていた子供とぱっちり目が合った。
「…………」
思わず息が止まる。
驚いた。
その子供──少年は陰湿な雰囲気を放っていて、目に光は宿っておらず、表情も恐ろしいまでの無であった。頭には包帯が丁寧に巻かれ、顔にはいくつものガーゼが貼られている。見ているこちらが息苦しくなるほどに、痛々しい姿をしていた。
そして少年は、まだ幼い……きっと優と同い年くらいだと考えられるが、非常に整った顔立ちをしている。それと同時に、どこかで見たことのある顔つきだった。それがどこだったか、いつ見たのかは思い出せない。この少年の美しさといえば、それは言葉では表せない程だった。人形のような顔、童話から出てきたような、なんてものじゃない。強いて言うなら、凄まじい、だろうか。
あまりにも長い間じっと見続けていたからか、少年は征さんの背中へと隠れてしまった。彼の服を掴む少年の手は激しく震えている。
「この子はつい先月うちに来たんだが……まあ、色々とワケがあってだな」
征さんは少し言いにくそうに言葉を濁し、薫さんも神妙な表情で頷いた。
「そう、なんですね……」
この子はどうしてこんなにも怯えているのか、大体は予想がついた。
こんなにも怪我を負っていて人に恐怖してしまうのだ。誰かから何かしらの、手酷い仕打ちを受けていたのだろう。鳳上夫妻に引き取られたのならば、その相手は親か。虐待を受けていたのかもしれない、それを一番に思いついた。
薫さんは少年と自宅に帰り、征さんは想太にあの子についてを少しだけ教えてくれた。
「親から虐待を受けていたらしくてな。その内容は酷いものだった。引き取った当初は私たちにも怯えていて、食事も取ろうとしなかったんだ。それでも最近ようやく食べるようになった。でもあの子は、一言も喋らない。あの子が何かものを喋っただけで、叱られていたのかもな」
想太は何も言うことが出来なかった。ただどうしようもない怒りが湧いて、涙が出そうになった。
その日は家に帰って、次の日学校に行ってからも少年の暗くて、奇麗な顔が頭から離れることは無かった。
* * *
「想太さん、大好き。付き合おうよ」
「あーごめんね。ちょっとドライヤーの音で聞こえなかった」
彼の軽口は本当は聞こえていたが、想太は誤魔化した。
美容師として働きだした想太には、既に顧客がいる。高校入学後に染めた校則違反であろう白髪、傷一つない滑らかな肌。初めて出会ったあの頃の彼とは、全くもって見違えった。変化していないところがあるとすれば、顔の美しさ。相変わらずの眉目秀麗だ。
ああそういえば、もう一つ変わったことがある。彼は異常な程に肉体的な愛を求めるようになった。先輩、後輩、同級生、知らない大人──彼は色んな相手に股を開いていると、優から聞いた事がある。彼は所謂、『ビッチ』というものになってしまったのだろう。
「嘘、絶対聞こえてるでしょ。付き合うのがだめなら、一回くらい抱いてよ」
「はいはい、これでも読んでなさいね」
「もう、はぐらかさないで!」
ぷりぷりと腹を立てているフリをしている彼の前に、想太はいくつかの雑誌を置く。
彼が尻軽だのと呼ばれるようになってしまったのも、幼少期の傷が原因なのだろうと想太は思っている。
「……うん? どうかした?」
想太が鏡を見ると、彼の表情が見えた。冷めきった目で、開かれた雑誌を見下ろしている。唇は固く結ばれ、若干震えているようだった。
彼はハッと我に返ったのか、鏡の中の想太を見て再び愛らしい笑顔を作る。
「ううん、なんでもないよ」
しかし彼はそれ以上その雑誌を読もうとはしない。
想太が不思議に思いその頁を覗き見ると、かなり前に一躍大人気となった俳優と女優の特集が載っていた。二人は結婚しており、一人息子も居るらしい。息子はモデルとして活動しており、その顔立ちは両親似で抜群に優れていた。
「そういえば、この俳優さんと君って、似てるよね。でもちょっと君の方が中性的な顔つきというか……それこそこの女優さんみたいに鼻筋すーってしてるよね」
想太はそう笑いかけ、ドライヤーのスイッチに親指をかける。すると彼はいきなり振り返り、ぼそりと言った。
「だからなんなの」
聞いたこともないくらい低い声で話した美少年に驚いて顔を見ると、いつかの小さかった彼が想太をじぃっと見つめて捉えて、決して離さなかった。
『太陽のような』
・征(まさし)
・薫(かおる)
「征さんは、太陽みたいね。ふふ、だからこんなにもわたしの心は暖かくなるんだわ」
薫さんは私を見上げて花笑む。私はどう反応して良いか分からず、思わず仏頂面になる。昔からよく「兄貴はずぅっとその顔してるよね。仏頂面がお似合いなことで」と弟に皮肉った口調で言われているため、私は相当表情の変化が乏しいのだろう。自分ではそれを理解してはいるが、どうやら簡単には直せないようだ。
「……そうか」
無愛想な顔つきで低く太い声で、私はその一言だけを返した。喋りもあまり得意では無いので、そうか、としか言えなかった。
顔が怖い、背も高くて怖い、あまり喋らなくて怖い──かなりの頻度でそのように言われるのだが、薫さんからはそのように言われたことは無い。反対に、私の印象とは程遠い事をよく言う。先程の「太陽みたい」も、その内の一つである。「太陽系の一つを破壊できそう」と揶揄われたことはあるのだが。
全くの無表情で薫さんの顔を見続けていると、彼女はなんだか幸せそうに、そして吹き出しそうな顔で微笑む。
「あの、私が何かおかしなことでもしたか?」
そう訊くと、薫さんはついに少女のように声を立てて笑いだした。
「違うわ征さん。あなたがあんまりにも可愛らしくって、堪えられなかったのよ!」
あはは、ふふ、と彼女の口から漏れてくる声は、多分だが嘲笑や冷笑などは一切含まれていない。なので私を揶揄っているのではないのだろう。
可愛らしい、その言葉も私にとっては初めてであった。弟は私とは違い愛嬌たっぷりの顔をしていたので、周りの人間からはよく言われていたようだが。私はやはり「イカつい」の方が、というよりそれしか言われたことがない。
そもそも、こうして洒落た喫茶店に男女二人きりで来ること自体が初めての経験──二十代半ばで、だ。弟の耳に入れば大笑いされることは間違いないだろう。あいつは童顔の割にはませていた餓鬼で、中学生の頃からよく女子と遊びに行っていたから。
薫さんに「一緒にお出かけしませんか」と誘われ今日は些か緊張してやってきたのだが、誘う相手を間違えたのではないかと何度も何度も脳内で問いかけている。私は特別優れた話術を持ち合わせているわけでも、弟のように愛らしい顔をしているわけでもない。こんな芸のない男と二人きりで遊んでいて楽しいのか。そう訊く勇気は出ない。
「征さんが太陽なら、わたしは一体何になるのかしら」
緩やかに巻かれた肩まである薫さんの髪の毛が、頭と一緒にふんわりと動く。
私は薫さんの言葉を少し不思議に思い、その丸く茶色い瞳を真っ直ぐに見て答えた。
「薫さんは薫さんだろう」
これ以外に答えはない。彼女は彼女だ。私が太陽だろうと何だろうと、薫さんという一人の素敵な女性だ。
私がその結論を出すと、薫さんは驚いたような顔をして、両手で顔を覆ってしまった。
何か嫌な思いをさせてしまったのだろうかと焦り、私は自分自身の口下手さを恨めしく思った。どうすればいいのか、慰め方なんて分からない。そうあたふたしていれば、彼女はくぐもった声でぽつりと、独り言のように呟く。
「もう……そういうところ、ずるいわ」
私はその言葉の意味を理解出来ず、顔を上げた薫さんの顔を見て、また不思議に思う。
ほんのりと淡い飴色に染まる頬をやや膨らませ、彼女はもう一度私に言った。
「ずるいわよ征さん。わたしがあなたをときめかせたくて、頑張ってデートに誘ったのに」
「……え」
デート。
なんと、これはデートだったのか!
私はその事実に驚き、呆然と目の前の可憐な女性を見つめていた。と同時に、とっくりとっくりと、心音が高まる合図が聞こえたような気がしたのだ。
老舗喫茶店の窓際の席に鉄仮面の男と甘美な女性。甘酸っぱいさくらんぼのような空気の二人を遮るように真っ白な陽光が差したが、顔の温度を冷まそうとしている薫さんという女性に、私はほんの少しだけ、心惹かれる心地がした。
* 僕の文によく見られる、誤字脱字はお許しください……。
僕の確認不足でございます。申し訳ありません。
気がついた際には修正しております。