モンシロチョウ
その婦人は、花をこよなく愛でている。
瑞々しい花々は、蝶を呼び込む。
決まってそれは、白き蝶。モンシロチョウだ。
だが、その婦人は、少々変わった人柄をしている。
幼き頃に、それこそ蝶よ花よと育てられたそうな。少々子供っぽい面がありつつ、気難しい。
あるときから、その婦人の呼び名は──。
「もんしろの蝶さん! こんにちは!」
「はい、こんにちは」
子供たちが下校する時間帯、紋白蝶の婦人は花に水をやっていた。
最初にそう呼んだのも、どこかの子供だった。
大人達は、婦人の怒りを買うのではとヒヤヒヤしたものだ。
しかし。それこそなぜか、「紋白蝶」を気に入ったらしく。
以降、名乗る際にはこう言っている。
「紋白蝶、という呼ばれ方もあるんですよ、私」
不思議なものだ。
「蝶よ花よ」で育った人間が、蝶を名乗り花を愛でる。
ところで。
紋白蝶の花に誘われてくるのは、なぜか決まって白き蝶だ。
それは、モンシロチョウを知れば知るほどの謎になる。
──綺麗な白のモンシロチョウは、決まってメスなのだ。
これまで、オスのモンシロチョウは現れていない。それはなぜか。
誰も、思いやしないのだろう。
紋白蝶の婦人が、モンシロチョウを育て、メスである白き蝶だけを、外に放っているなど。
──はてさて。謎は深まるばかりだ。
忘れられない、いつまでも
──それは、いつだったろう。
スカートなんて、あなたには似合わないよ。
あなたは女の子らしい色は似合ってない、もっと地味でいいよ。
アイツ、キモいんだよね。
本人に聞こえるだろ、やめとけよ。
えー? 大丈夫でしょ。鈍いもん。
──全部、聞こえてる。
マジで、なんであいつと一緒? ウザいんだけど。
なんでここにいるんだよ、どっかあっち行け。
お前なんか、要らないんだよ。
──全部、聞こえてるってば!!
「…………!!」
バッと目が開く。ここはどこか。
すぐ、自分の部屋のベッドの上だと気づいた。朝の光が窓から部屋に色を入れている。
──また、悪夢か。
きっと、それらを言った人間は、忘れているか、気にもしていないのだろう。
言われたほうが、かなりダメージを受けているのに。
朝の光を浴びながら、気持ちをリセット
しようと、考えを巡らす。
そのままの君で、いいからね。
ずっと、後悔してたの。やっとまた会えて嬉しかった。
あなたに、もっと早く出逢えていればよかったね。
何も言わないのは優しいんじゃなくて、見て見ぬフリをしてたんだよ。
あなたは、優しすぎるんだよ。
あなたに出逢えて、本当に良かった。
「ふぅ……。よし、大丈夫!」
気持ちを切り替えて、今日も生きよう。
きっと、あの「悪夢」を完全に忘れ去ることはできない。
きっと、いつまでも。
でも私には、私を大切に想ってくれるひと達がいる。
出逢いを、喜んでくれるひとがいる。
それを、なんども思い出す。
忘れるには、あまりにも褒美な言葉たち。
そうして、傷も涙も、喜びも抱えて。
私たちは。今日を生きていくんだ。
一年後
それは、とある住宅地で巻き起こった出来事。
1頭の、薄汚れた毛並みの犬が、ゆっくりと歩いていた。首輪はない。
「あ、ママ! ワンワンがいるよー」
「そうね。……でも、危ないから近づいちゃダメよ」
「どこからきたのかねえ」
「迷い犬か……?」
周囲の声に、耳をピクピクとさせながら、その犬は歩く。
一体、なにがあったのか。
やや時間が経ち、近所の大人達はその犬を「保護」することに決めた。
なにを隠そう、この近所には保護犬が多いので、そこはスムーズに受け入れられた。
問題は、「誰が」保護するのかだ。
「うちはもう、いまの子たち以上はちょっと……」
「うちは、1歳の子どもがいるから、難しい」
「…………」
大人達の輪に、長い沈黙が落ちる。
──その時。
「……おや? ぽんた?」
大人達が一斉に振り返ると。
一人の老いた女性が、杖を突きながら犬に近づいていく。
女性の杖は、白杖ではない。が、もうそろそろ眼が見えなくなってきた、と周囲にこぼしていた。加えて、認知症になりつつある。
「ちょっ、ばあさん!」
周りが止めようとした、その時。
保護犬の家族がいる女性は気づいた。
──あの犬、喜んでる。
ほんのわずか、尻尾が揺れているのだ。風のせいでもなく、犬の意思で。
それを聞いたほかの大人達が、つい手も声も止まる。
そして。
──クゥーン、ウォン! ウォン!
犬が、老婦人の手を舐めた。そして、甘えた声で鳴く。尻尾もぶんぶんに振っている。
「よしよし。どうしたんだい」
「ぽんた」と呼び、老婦人は愛おしそうに、犬の背を撫でていたのだった。
そんな出来事があった日から、一年後。
「おばあちゃん! ぽんた! 会いにきたよー!」
「おやまあ、そっちにいるのかい?」
あれから、目が完全に見えなくなった老婦人。しかし彼女には、白杖よりももっと頼もしい相棒がいる。
「ねえ、ぽんたって本当に、迷い犬だったの?」
孫の問いに、老婦人は頷く。
「そうさ。わたしが、昔飼ってた犬にあんまりにもそっくりだから、つい呼んじゃったのよ」
そんなぽんたのおかげもあり、認知症はかなり軽度で留まっている。
「ぽんた。まっしろでキレイだよね」
「ばあちゃんが初めて遭ったときは、すんごい疲れた感じで、毛も白だなんて思わなかったんだけどねえ」
それだけ、この子は過酷な過去があったのかもしれない。
でも、人に怯えはしないから、もしかしたら飼い犬で、何らかの理由で迷ってきてしまったのかもしれない。
しかし全ては、「かもしれない」に過ぎない。
だから、「今」のこの子は此処にいて、今の主人である老婦人を大切にし、又大切にされている。
そして彼女とともに、これからもこの家で、生きていくのだ。きっと、出来うる限りのさいごまで。
初恋の日
それは、まだ幼き頃に。
「大きくなったら、ずーっといっしょにいようね!」
「ん? いまは一緒にはいないの?」
「え!? そ、そんなことはないよ!?」
なんて、笑いながらした、帰りの幼稚園バスの中での会話。
楽しかった。嬉しかった。
なのに、今は。
学年も、性別も違う彼とは、大きくなるにつれて、一緒にいることも減った。
加えて彼には、「ファンクラブ」なるものが存在する。
そのわりに、誰かと付き合ってるだとか、そんな浮いた話は一つも聞いたことはない。
さすがに、幼い頃のことを覚えているとは思わないけれど。
しかし。よく眼は合うのはどうしてだろうか。
「……?」
「……!」
ほら、また。
ちょっと彼の背中を見ていたら、振り返られた。
なんとなく、眼を逸らすが時は遅し。一瞬たが、バッチリ眼が合っていた。
彼はくすりと笑みを浮かべながら、前を向いた。
「…………」
そして、それは起こった。
放課後。とある教室にて呼び出しをくらった。と言っても教師にではない。
3対1で、彼のギャラリーと見られる女子達に、囲まれる。
その目のギラつき具合は、さながら野生の肉食動物のようだ。
と。なんとなく思っていたら。
「あんた、何様のつもり? 彼のこと、チラチラ見て。キモいんだけど」
「え……? いえ、何様もなにも」
眼が合うのは、そんなにもいけないことか。
どうも、この女子達は自分の事が目障りらしい。なんとなく不本意だが。
「……すみません。もう、見ないので」
俯き、つぶやく。
ああ、言ってしまった。どうしてこんなに、悲しいのだろう。
そして、満足げな女子達が教室から去ろうとして。なぜか固まっている。
目線を上げてみると。
ドアに、「彼」がいた。
サァーっと、女子達は顔を青ざめる。
彼はわらっていた。怖い笑い方だ。
「それ、止めてくんない? 俺言ったよね、ファンクラブなんて要らないって」
「や。それは……」
「それに」
「俺の恋路を、邪魔すんな」
真顔の彼は恐い。なんてぼんやりと考えている間に、女子が逃げていった。
「……真顔は怖い。とか思ってんだろ」
「え……!」
はぁぁ、と大きなため息をつかれながら、一歩、また一歩とこちらへ近づいてくる。
つい、こちらも一歩と下り、結局壁に当たる。もう、下がれない。
「ねえ、覚えてる? 俺の告白」
「こく、はく……?」
いつにない、真剣な眼で、告げられた。
「ずーっと、一緒」
それは、幼い頃の言葉よりも、ずっとずーっと甘い響きで。
ああ、やっぱりズルいな。
はたして私の初恋は、彼に奪われたのか、否か。
──なんて。言うまでもないことだろう。
大地に寝転び雲が流れる
自分たちは、一体何をしているのだろう。
そう思うと、聞かずにはいられない。
「……なあ、弟よ」
「なあに~、お兄ちゃん」
あくびでもしてそうな、能天気な声が返ってくる。
「なんで俺たち、こんな芝生で寝転んでるんだ?」
「……えへへ」
「えへへ、じゃねえよ。ちゃんと答えれ。なんで、このためだけに、病院からの外出許可もらってんだよ」
本当に、苦労したのだ。
弟は、難病だ。治療法がない。
主治医や看護師も、この外出はなかなか首を縦には振ってくれなかった。
しかし。
弟が、なにかを伝えた。
その「なにか」を聞いて、やっと外出許可を得て、何故か河川敷の、芝生の上という今に至る。
兄には、理由を教えてはくれていない。
そこが、少々不服だ。
「──ねえ、お兄ちゃん」
なんだ、と返そうとして、兄は息が一瞬止まった。
空を見上げる弟の目から、涙が頬につたっていた。
とても静かに、泣いていたのだ。
「ねえ、ぼくはいつ、病院から外に出られるのかなあ」
それは、日々難病と闘う弟の、紛れもない本音だった。
「…………」
「あ、ごめんね。泣いてるんじゃないからね! 心拍数は上がってないよ」
何の言葉も返せない兄に、弟は努めて明るい声で、続けた。
「もしかしたら明日とか、ぼくの息止まったりするのかなあ、とか思うとね」
兄はまだ、言葉がでてこない。
「そしたらその前には、ちょっとでも外に出て走ったり、叫んだり、こうしてねっ転んで空を見上げたいなあ、って思うんだ」
「…………」
沈黙が、二人の間に流れる。
まだ、兄は言葉を探していた。
どのくらい、そうしていたのだろうか。
それは、雲が流れ、晴れ間が顔を出したその瞬間に。
兄は言葉を紡いだ。
「……また、来れるさ」
「別に、気休めなんていらな──」
その時に初めて、弟は横にいる兄の顔を見た。
弟と同じくらい、否。それ以上に、兄の目には、涙が溢れていた。
しかし、目一杯に涙をためてなお、目からは落ちない。落とさないようにと、頑張って堪えていた。
いつどうなるのか。
回復するのか。急変するのか。
そんなの、二人にも、ほかの者にも分からない。
ただ。
「──ぜっったいに、また、来よう!!」
兄の眼には、「決意」が宿っていた。
また、この空の下で、一緒に芝生の上にでも寝転んで。
たくさん、話をしよう。
──その時には、きっと違う感情の涙で。