泡になりたい
骨折した。痛い。
しかも放置してたらもっと痛くなった。
行きたくなかったけど、仕方なくと、接骨院へ行く。
「あーあ、ついてないなあ」
呟いてから、周りに耳を澄ましてみた。すると。
「ああ、そうか。そうだ、今日だ」
「もう、そんなに経つんだねえ」
と、お年寄りたちの会話が聞こえる。
なんのことだっけ、と思ってたら。テレビが告げていた。
「戦後、今年で80年」
……あ、そうだ。
8月6日。それは広島に原爆が投下されたという日。
そして、「広島平和記念日」という、喜ぶのか悲しむのか、何ともいえない記念日でもある。
周りにはお年寄りたち。交わさせる話はそれのことが多いような気がする。
黙っていると、聞いてなくとも生々しい「その日」の話や、それに関するような言葉がぽんぽんとでてくる。
自分は、弱い。そういうのには、とても弱いんだ。
「……きみ、どうしたの? 痛い?」
「…………。ううん。俺は痛くない」
「なら、どうして泣いてるの?」
「俺は、いたくない……」
そう。形残らず、焼け消えてしまった人たちに比べれば、骨折なんてどうというものでもないんだ。
「ねえ。いまちょっと、泡になりたい気分」
「? 何言ってんのよ」
お母さんに、不思議そうな顔をされた。
ぬるい炭酸と無口な君
今日も、散々だった。
嫌みな上司、わかってくれないお偉いさん。
一つのミスに対して、10の言葉が付いてくる。
もう、こんな会社いやだ。
心の限界を感じながら、目の前にはよく使う自販機。
「……ビール……」
と、手を伸ばすと。
「こっちじゃダメ?」
と、手首にちょっと冷たいペットボトルが。
「え……」
見れば、唯一の同僚がいた。確か彼は、数時間前に仕事は切り上げていたはず。
「…………」
無言で見つめ合う私たち。すると。
「ん!」
とん、と。
しびれをきらしたのか、頭にペットボトルを軽くぶつけられる。
「……くれるの?」
「お疲れでしょ」
ぶっきらぼうながら、気遣いが伝わってくる。
そう、この同僚は言葉に長けていない。無口と言ってもいい。
ありがたくいただいたのは、ビールではなく炭酸飲料だった。
「ビール……」
「…………」
無言で睨まれてしまった。
「はいはい。……ありがと」
――プシュッ、と小さく、気持ち小さく音をたてて、ペットボトルをあけて、口にすると。
「なんかこれ、ぬるくない? いつからのものなの」
なんて、軽い気持ちで抗議すると。
「会社出る時。あんた疲れた顔で、呼び出しくらってたから」
「え?」
ふと、彼は時計を見て、ひとり納得する。
「ああ……もう二時間もたつのか。あんた、かなり長らく捕まってたんだな」
「もしかして。ほんとに仕事終わってから、ずっと……?」
「ん」
…………。
「なんで、こんなところで待っててくれてんの!?」
意味がわからない。
「会社じゃ、またあんたいびられるっしょ。『色目使った』とか言われかねない」
…………。
色々、言いたいことがあった。
一つや二つではなく、もっともっとだ。
――けれど。
「ありがとう」
「礼は二回もいらないし」
この、不器用な優しさというぬるい炭酸を味わうのも、悪くないかもしれない。
ふと、笑みがこぼれた。
空恋
私の祖母は、生前こんなことを言っていた。
「もう、じいさんも昔の仲間もほとんど、お空へ昇ってしまった。きっとばあも、そう遠くないうちに、お空へ昇るよ」
そんな、悲しいことを言わないでほしい、とその時は思った。
でも、なんだかその時の祖母の眼があんまりにも穏やかだったから、なにも言えなかった。
祖母と祖父は、孫の私から見ても、とっても仲の良い、いわゆる「おしどり夫婦」だった。だからこそ、祖父の死は、祖母にかなりのダメージを与えたと思う。
愛する人が、空へ逝ってしまった悲しみ。
そして。
祖母の最期の顔は、久しぶりに見るくらい、――いや。
たぶん、祖父が亡くなってからは初めて見るかもしれないくらい、穏やかな笑みだった。
終わらない物語
物語には、「終わり」がつきもの。それは本当のことだ。
そのなかで、環境によっては「終わりに限りなく遠い命」と呼べるものがある。それは。
――大樹。
それは、そのものにより何千、何万。もしかしたら何億後年と、その場所に在るもの。
その場所が何らかの形で変化さえなければ。また、人々が大樹が在ることを望む限りは。
この際、「植物に命があるのか」という論は置いておこう。
そうして、大樹は見守る。人々の行いを、営みを。生と死の狭間を。
それこそが、終わりのない物語、と言えるのかもしれない。
そうそう。我が家にも、それに近く生きる命がある。玄関のアロエだ。
暖かくなれば、外に出して生き生きと。しかし寒くなって、玄関の内にしまうのをうっかり忘れると、ほぼ枯れ果ててしまう……かのように見えるが。
そこから一月もすると、枯れた茶色が、いつの間にか少しずつ、綺麗な緑へと変化していくではないか。
きっと我が家のアロエも、自身が死の淵と生の狭間を彷徨い、毎年生還しているのだ。
ああ、なんて強さだろう。申し訳ない。
ただひとりの君へ
それは、とある学校の、放課後の職員室にて。
「ちょっと! 見てくださいよこれ」
「ん~?」
「なんですか?」
三年1組の担任の女性が、頭を抱えていた。
「あんの、問題児が~!」
なんだなんだと、周りの職員も「それ」を見て。
「うわぁ……」
「また、ですか……」
「今日の、作文ですよね? 確かお題はこのページからとってて」
「そう」
担任は、教科書の1文から、作文のお題をだした。それがこうだ。
「ただひとりの君へ」
「忠仁、理乃、喜美枝へ」
お分かりだろうか。
「ただひと、りの、きみえへ」
へと変換されていたのだ。
しかも、その名前は実在していて、作者の数ある友人たちを指す。
その下に続くのは、やたら大袈裟な友らへの感謝。
友情自体は良い。だが、これでは作文などではなく、ただの「お手紙」だ。
「このやり方、今回で四度目よ? 信じらんない! これで、テストではなんで満点になれるの!?」
今日も今日とて、担任教師は頭を悩ませている。