空恋
私の祖母は、生前こんなことを言っていた。
「もう、じいさんも昔の仲間もほとんど、お空へ昇ってしまった。きっとばあも、そう遠くないうちに、お空へ昇るよ」
そんな、悲しいことを言わないでほしい、とその時は思った。
でも、なんだかその時の祖母の眼があんまりにも穏やかだったから、なにも言えなかった。
祖母と祖父は、孫の私から見ても、とっても仲の良い、いわゆる「おしどり夫婦」だった。だからこそ、祖父の死は、祖母にかなりのダメージを与えたと思う。
愛する人が、空へ逝ってしまった悲しみ。
そして。
祖母の最期の顔は、久しぶりに見るくらい、――いや。
たぶん、祖父が亡くなってからは初めて見るかもしれないくらい、穏やかな笑みだった。
終わらない物語
物語には、「終わり」がつきもの。それは本当のことだ。
そのなかで、環境によっては「終わりに限りなく遠い命」と呼べるものがある。それは。
――大樹。
それは、そのものにより何千、何万。もしかしたら何億後年と、その場所に在るもの。
その場所が何らかの形で変化さえなければ。また、人々が大樹が在ることを望む限りは。
この際、「植物に命があるのか」という論は置いておこう。
そうして、大樹は見守る。人々の行いを、営みを。生と死の狭間を。
それこそが、終わりのない物語、と言えるのかもしれない。
そうそう。我が家にも、それに近く生きる命がある。玄関のアロエだ。
暖かくなれば、外に出して生き生きと。しかし寒くなって、玄関の内にしまうのをうっかり忘れると、ほぼ枯れ果ててしまう……かのように見えるが。
そこから一月もすると、枯れた茶色が、いつの間にか少しずつ、綺麗な緑へと変化していくではないか。
きっと我が家のアロエも、自身が死の淵と生の狭間を彷徨い、毎年生還しているのだ。
ああ、なんて強さだろう。申し訳ない。
ただひとりの君へ
それは、とある学校の、放課後の職員室にて。
「ちょっと! 見てくださいよこれ」
「ん~?」
「なんですか?」
三年1組の担任の女性が、頭を抱えていた。
「あんの、問題児が~!」
なんだなんだと、周りの職員も「それ」を見て。
「うわぁ……」
「また、ですか……」
「今日の、作文ですよね? 確かお題はこのページからとってて」
「そう」
担任は、教科書の1文から、作文のお題をだした。それがこうだ。
「ただひとりの君へ」
「忠仁、理乃、喜美枝へ」
お分かりだろうか。
「ただひと、りの、きみえへ」
へと変換されていたのだ。
しかも、その名前は実在していて、作者の数ある友人たちを指す。
その下に続くのは、やたら大袈裟な友らへの感謝。
友情自体は良い。だが、これでは作文などではなく、ただの「お手紙」だ。
「このやり方、今回で四度目よ? 信じらんない! これで、テストではなんで満点になれるの!?」
今日も今日とて、担任教師は頭を悩ませている。
透明な涙
今日は天気が良くない。
店の前の花に水をやりなから、空を仰ぎ見た。
直に、雨が降るだろうなと思いはするも、花への栄養は欠かさない。それがたとえ、ただの水道水でも。
程無くして、雨だ。
恵みの雨が降ってきた。
ふと、おかしなことを思った。
花が落とす水を「涙」としたなら、どちらの水が多く、土に善いのか。また、それはどんな味だろう、と。
花弁は、語ることなんてない。
落ちる水は、ただただ透明な色だ。
冬晴れ
生命の誕生は、いつになっても「神秘」だと思う。
この子で三人目。だというのに、いや。
きっとどれだけの子を迎えても、こんな感じだろう。
子供二人のほうが、落ち着きさえ感じていて。自分が父親だというのに、これでは示しがつかないような。けれど「慣れる」気はしない。
まったく、なんと言えば良いやら。
だって。
早くに産まれることで未熟児どころか「超」の未熟児になるでしょう。
そんなことを言いわたされたのが数時間前。妻の、苦しむ声の先。
長く、永く感じた時間の末に。
――おめでとうございます、女の子ですよ。
声は、なかった。そのまますぐ、どこかへ連れていかれてしまった。今腕に抱くには、あまりに小さすぎるから、と。
一瞬見えた。小さい。とっても。手のひらサイズもいいところだ。
名前は、決めていた。
冬の晴れまと書いて「冬晴れ」、今日のような日に。
――ひより、と。