月凪あゆむ

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一年後

 それは、とある住宅地で巻き起こった出来事。

 1頭の、薄汚れた毛並みの犬が、ゆっくりと歩いていた。首輪はない。
「あ、ママ! ワンワンがいるよー」
「そうね。……でも、危ないから近づいちゃダメよ」
「どこからきたのかねえ」
「迷い犬か……?」

 周囲の声に、耳をピクピクとさせながら、その犬は歩く。
 一体、なにがあったのか。


 やや時間が経ち、近所の大人達はその犬を「保護」することに決めた。
 なにを隠そう、この近所には保護犬が多いので、そこはスムーズに受け入れられた。
 問題は、「誰が」保護するのかだ。

「うちはもう、いまの子たち以上はちょっと……」
「うちは、1歳の子どもがいるから、難しい」

「…………」

 大人達の輪に、長い沈黙が落ちる。
 ──その時。
「……おや? ぽんた?」
 大人達が一斉に振り返ると。
 一人の老いた女性が、杖を突きながら犬に近づいていく。
 女性の杖は、白杖ではない。が、もうそろそろ眼が見えなくなってきた、と周囲にこぼしていた。加えて、認知症になりつつある。
「ちょっ、ばあさん!」
 周りが止めようとした、その時。
 保護犬の家族がいる女性は気づいた。

 ──あの犬、喜んでる。

 ほんのわずか、尻尾が揺れているのだ。風のせいでもなく、犬の意思で。
 それを聞いたほかの大人達が、つい手も声も止まる。
 そして。

 ──クゥーン、ウォン! ウォン!

犬が、老婦人の手を舐めた。そして、甘えた声で鳴く。尻尾もぶんぶんに振っている。
「よしよし。どうしたんだい」
 「ぽんた」と呼び、老婦人は愛おしそうに、犬の背を撫でていたのだった。



 そんな出来事があった日から、一年後。
「おばあちゃん! ぽんた! 会いにきたよー!」
「おやまあ、そっちにいるのかい?」
 あれから、目が完全に見えなくなった老婦人。しかし彼女には、白杖よりももっと頼もしい相棒がいる。
「ねえ、ぽんたって本当に、迷い犬だったの?」
 孫の問いに、老婦人は頷く。
「そうさ。わたしが、昔飼ってた犬にあんまりにもそっくりだから、つい呼んじゃったのよ」
 そんなぽんたのおかげもあり、認知症はかなり軽度で留まっている。

「ぽんた。まっしろでキレイだよね」
「ばあちゃんが初めて遭ったときは、すんごい疲れた感じで、毛も白だなんて思わなかったんだけどねえ」
 それだけ、この子は過酷な過去があったのかもしれない。
 でも、人に怯えはしないから、もしかしたら飼い犬で、何らかの理由で迷ってきてしまったのかもしれない。
 
 しかし全ては、「かもしれない」に過ぎない。
 
 だから、「今」のこの子は此処にいて、今の主人である老婦人を大切にし、又大切にされている。
 そして彼女とともに、これからもこの家で、生きていくのだ。きっと、出来うる限りのさいごまで。

5/8/2023, 11:23:58 AM