小さい頃から大人になりたかった。それなのに、いくつ歳を重ねても自分は大人にはなれなかった。大人という定義に自分はもれなく当てはまっているのに。
「自認が大人な人なんていないよ、大人って言葉は相手に使う言葉なの」
そう言う友人はひどく大人で、私とはまるで同い年でなかった。ハイボールは相変わらず苦い。
友人の話を聞きながら少しずつ大人の輪郭が見えてくる。少しずつ、少しずつ悟ってゆく。
何かを許したり許されたり、何かを失ったり得たり、そういう繰り返しの果てに大人がある。
それに気づいた瞬間、幼い頃から心の中で鳴り続けていた砂時計の音がぴたりとしなくなったんだ。
/砂時計の音
「今日も来てくれたんだ」
そう言って嬉しそうな顔をする。あぁ、今日は調子が良くないみたいだ。
彼女の脳みそは海馬が収縮してしまって、新規の記憶とここ数年の記憶がマーブルのようにごちゃ混ぜになっている。今日は朝からこの部屋にいるのに、トイレに行って帰ってきた彼女が初めてみたいなテンションで話し出すから、僕は泣きたくなった。
でも、今日言おうと前々から決めていた。
「あの、結婚…してくれませんか」
何気ないタイミングだと彼女はびっくりするかもしれない。でも今日は僕にとってとても大切な日だ。
「私、記憶なくなるよ。私じゃない人の方が幸せになれるよ、明日にはこんなに嬉しいプロポーズ忘れちゃうかもしれないよ」
彼女は冷静にそう言った。そう言いながら、傷ついた顔をする。なぜ僕の彼女は幸せになれないのだ。誰が悪い。そうして、彼女は泣きながら言った。
「私忘れたくない。今日だけは神に誓って忘れたくない。絶対に、死ぬまで覚えていたい。わすれたく、ないの」
わんわん子どもみたいに嗚咽して泣く姿を見て、僕も涙が溢れた。一番しんどいのは彼女だから僕は彼女の前で泣かないと決めていたのに。
あぁ神様。お願いです。今この瞬間だけは一生忘れないようにしてあげてください。今日だけは、今日だけは許してください。最悪、僕のことは忘れてしまって構わないから。
/今日だけ許して
ーーズキン。こめかみが脈を打った。
激しいとまではいかないよく慣れたそれだ。片頭痛持ちの私からしたら、よくあるなんて事ない痛みであった。
さて、薬を飲んだら冷えペタを貼って横になろう。携帯はいじらずに目を瞑って一眠りしたらあっという間に居なくなるだろう。
そう思っていたのに、どんどん早くなる脈のリズムに自分の体が持っていかれそうになった。
遠くから頭痛が声を出す。少しずつ少しずつでも確実に、着実に。私の元へやってきている。遠い足音は気が付けば地響きすら感じられるようになって、もう勝ち目がない。
あぁもうダメだと思った時、柔らかい手の温もりが私の頭に降ってきた。撫でられたと気付いたのは撫でられた後。ふわふわとした感覚が頭痛を追い払う。その手の体温が、私は好きだった。
/遠い足音
「それなら、もう別れちゃえば?」
ウィンカーが役目を終えて車が曲がり切った先で、彼女はそう言った。彼女のなんでも簡単に言ってのける癖はいつも突拍子がない。
「え〜そんな簡単じゃないんだよ〜」
相手は私の反応がわかっていたかのように笑う。そして、優しくブレーキを踏んだ。
「ほら、愚痴るのにいつもそう言う。そう言うと思った」
夜のドライブに誘い出したのは私で、車を出してくれたのは彼女だ。私の涙の理由は聞かないけれど、いつもより優しい声質が答えだった。
「じゃあせめてこっちから連絡するのはやめなよ。全部あんたからじゃん、相手何様なの」
「うぅ〜、わかった…連絡しないように頑張る」
「それ明日にはあんたから連絡してるよ」
「なんでそんなこと言うの!」
私が癇癪を起こせば、彼女は乾いた声で笑った。
彼女の顔はライトを浴びて、赤と緑を繰り返している。
「好きでも別れるのがいい女だよ」
ぼそっとかけられた言葉は思いの外重くて、私は目を泳がすのに必死だった。
/涙の理由
喫茶店で苦手なコーヒーを注文した。
嫌なことがあった時、甘いものよりも苦いものを口に入れなさい。そうしたら、自分に起きたことが少しだけ苦くないように感じるから。
叔母のその言葉をまんまと信じて成人した私は、今日コーヒーを頼んだ。
コーヒーより苦くない。私の人生、このコーヒーよりかは、苦くない。
急に叔母を呼び出したが、叔母は今向かうね、と連絡をくれる。
嗚呼めぐまれている。うんと恵まれている。叔母にはどこから、何から、どうやって話そうか。そればかりを考える。
心がズキズキと壊れる音がする。コーヒーが冷めないうちに、私はどう話すかを整理する。
紙に書き出した文字たちはまるで私のように生き急いでいた。
/コーヒーが冷めないうちに