この街を出ると決まってから、途端にこの街が愛おしく感じるのは、なぜだろう。
古びたコインランドリーを汚ねーと思っていたのに、今はもう読書はここでしかできない。
駅の隣にあるコロッケ屋さん、この道を通ると香るカレーの匂い、セールが始まったスーパーの音、夕陽が綺麗に見える公園。
小さな一つ一つの感覚を、僕の五感を通して、ぎゅっと束ねる。
それはまるで、花束を作るための準備みたいだ。
この街の花束を作ろう。そして、僕の心にそっと渡してあげよう。
ここで生活した音と匂いを忘れないために。
/花束
「へんなのー」
脳内に響き渡るのは、まだ声変わりをする前の高い声だ。
小学生の頃の支援学級の友達に投げた言葉は許される言葉ではない。僕が間違えてしまったのだと気づいたのは、その日の夕食時に親に話した時だった。
“変”という言葉は、人に使うべきではない。僕にとって悪気のない笑い事の話でも、本人は一体どう思っているのだろう。
誰にも言えないこと、どこにも書けないこと、は存在する。人間誰しも、一つは持っていて当然。
親友にも恋人にも言えないことはあっていい。言えない自分を否定しなくていい。
そう分かっているのに、自己問答を繰り返して自分を否定し続けることで、僕は贖罪をするしかなかった。
/どこにも書けないこと
財布だけを持って理由のないまま街へ出た。誰かに呼ばれたわけでも、逃げたいほどの不満があるわけでもない。ただ、誰もいない海に行きたいと思った。
電車で遠く遠く進むほど、存在は軽くなる。脳みその重荷も軽くなる。
それなのに僕は妙に現実的で、帰り道と終電の時間だけは正確に覚えていた。スマホは置いてきたのに。
僕はちゃんとあの家に帰りたいんだな、と訳も分からず納得をして、少し笑った。なんか安心した。
電車から降りると、潮風で鼻がつんとする。ザーザーと音がする。
反射で光る水面に目を細めて欠伸を、ひとつ。
/街へ
学生の頃に出会ったあなたの優しさに触れて、嗚呼私は将来こんな人になりたいと思った。この人みたいに優しさを柔らかさだけで作らない、強くて逞しい優しい人になりたかった。
月日は経ったけれど、私はまだあなたみたいになれていません。私が強く優しくなる姿をあなたに直接見てもらいたいから、お願いいなくならないで。まだ、お空にはいかないで。もし、遠くにいってしまうのならば最後に、声だけでも聞かせてください。憧れでした。
私はあなたに、なりたかった。
/優しさ