口を開けば零れてしまいそうで、
けれど音にすれば、
それはもう別の形になってしまう。
夕暮れの街角、
風に揺れながら私を見ている。
夕陽は、遠くで響く足音と混ざり、
私の胸を、不安と甘さで満たしていく。
刹那の好奇心と、
静かな後悔のあいだに生まれた沈黙。
あの沈黙こそが、
今も私の中で膨らみ続けている。
波打ち際に立ち、
足首を濡らす泡の音を聞いても、
心の奥のあれは形を変えない。
潮風も、月明かりも、
まだ名前を与えてくれない。
言葉にならないものは、
静かに、けれど確実に、
私を繋ぎ止める鎖になる。
甘い香りと、冷たい影とを編み込みながら、
それはずっと、胸の底で呼吸している。
あの年の夏は、やけに音が遠かったの。
セミの声も、波の音も、君の笑い声も、
どこかでフィルターをかけたみたいな。
白いシャツが透けて、
背中の骨の形が見えちゃった。
触れたら、熱で指がやけどしそうで
ただ目を細めた。
かき氷のあおが舌に残って、
君がそれを指差して笑ってた。
わたしは笑い返せなくて、
かわりにスプーンを差し出した。
真夏の空気は、もうとっくに消えたのに、
あの時の匂いだけ、今もまとわりつくんだ。
塩と日焼け止めと、汗の混ざった匂い。
思い出すたびに、
胸の奥で少しあたたまる。
まるで海みたいに。
陽射しは真上、
舗装されたアスファルトは、
息をするように熱を放つ。
その上で、
バニラ色の雫が静かに溶けていく。
ほんの数秒前まで、
私の手の中で冷たく、甘く、
確かに存在していたもの。
それが今は、
形も香りも崩れ、ただ黒い路面に染みていく。
屈んで手を伸ばせば、
指先はもうべたつく熱と、
戻らない甘さだけを拾う。
あのとき落ちなければ、と
頭の中で繰り返しても、
風はそれを慰めるどころか、
砂埃を連れてきて、最後の輝きを曇らせた。
溶けてしまった甘さは、
口に運べないまま、
靴底に貼りつく記憶だけを
残して消えていった。
やさしさなんて、たいしたことない。
ほら、笑ってドアを開けるだけ。
コップに水を入れて渡すだけ。
欲しがりそうなものをあげるだけ。
そんなの、だれにだってできる。
「優しいね」って言われると、へんな気分。
わたしはただ退屈だっただけなのに。
ひとりでいる私に飽きたから、
声をかけただけ。
そんなの、やさしさじゃない。
ほんとうのやさしさなんて、
もっと重たいんだよ。
手がしびれて、背中が曲がって、
心の奥まで削れるくらいの。
でもみんな、それはやらない。
今のわたしは、もうやらない。
ときどき思う。
やさしさって、あげた人じゃなくて、
もらった人が決めるんだって。
じゃあ、わたしが思ってないやさしさでも、
誰かがそうだって言ったら、
それはやさしさなんだ。
変なの。
でも、やさしさはたまに嘘くさい。
笑顔の下で、ため息を隠してる。
「気にしないで」って言いながら、
ちょっと気にしてほしそうにしてる。
わたしもやるの、そういうこと。
だから、人のやさしさもすぐわかる。
それをもらうと、うれしいより先に
「どうせ」って思っちゃう。
ひどいよね。わたし。
やさしさなんて、あってもなくても同じ。
でもね、なくなったら、きっと困る。
困るくせに、簡単に信じないの。
わたしは、そういう人間なんだ。
頬をなぞる風は、
ただの空気ではなかった。
色も匂いもないはずなのに、
それは確かに、あなたの気配を運んでくる。
目を閉じれば、
砂の上に落ちる小さな足音が蘇る。
遠くで笑う声、
それに混じって聞こえる、波のささやき。
指先が冷えるのは、
風のせいか、それともあなたが
もういないせいか。
触れられない距離に置かれた温もりを
私は何度も手探りする。
「忘れてしまえ」と、潮風はささやく。
「まだ探せ」と、陸風が呼びかける。
両方を聞き分けながら歩く。
もし、この風が
あなたの背中を押してくれるのなら、
どうかその行き先で
私の名前をひとつだけ、
呼んでほしい。
風がやむ前に。
夜が来る前に。
私が、立ち止まってしまう前に。