不整脈

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7/8/2025, 10:50:37 AM

目を細めた先に
まだあの日の空は、ある。

厚くて重たい午後だった。
熱をもった風が、
制服の襟をわずかにめくった。
自転車のペダルの音だけが、
通り過ぎた時間の最後尾を引きずっていた。

──戻りたくはない。
でも、見ていたい。

公園の水道は斜めに傾き、
赤く錆びた鉄棒に、
誰の名でもない落書きがかすかに残っていた。

わたしたちがあのときに話した言葉を
もう思い出せない。
笑った理由も、
泣いたことも。

なのに、
夕日だけは覚えている。
見えない膜を通して差し込んでくる、
あの橙の光。
西に吸い込まれていったわたしたちの影。

今の私があの日にいたなら、
何を変えられただろう。
何も変えられなかっただろう。
だから、今もこうして思い出してしまう。

景色は、
もうそこにはない。
でも、
そこにいた「わたし」は、まだここにいる。

あの日の景色は、
失われた世界の手がかり。
そして、
見失いたくない誰かの影が、まだ
そっと、
記憶に差し込んでいる。

7/7/2025, 1:55:41 PM

夜の中で、言葉がふいに重くなる。
枕に沈む呼吸の奥、
まだ誰にも知られていないわたしが、
そっと願い事を結びはじめる。

お願い。
痛みがちゃんと「痛み」でありますように。
お願い。
わたしの好きが「怖くない」と
言ってもらえますように。

目をつぶったまま、
視えないものの形を指でなぞる。
それはきっと、
幼いころに描いた空想の友だちと、
今朝読んだニュースと、
昨日言えなかった「ごめんね」が
溶け合ってできた、
不思議な紙片。

それを折って折って、
できた星がひとつ、布団の中に転がる。

どうか、
その星が光らなくても、
願いごとであることをやめませんように。

朝になれば、忘れる。
昼になれば、笑う。
夕方には、また思い出してしまう。

だから、
せめて夜には、
私がわたしの願い事を
忘れないでいてあげたい。

聞こえなくてもいい。
届かなくてもいい。

ただ──願いごとが「ここにあった」と
夜のどこかに記されますように。

7/6/2025, 11:32:07 AM

この季節の空は、遠くて近い。
雲が流れていくのが目で追えるくらい、
はっきりしていて。
それなのに、どこにも触れられない。

あなたを見つけた日、
あの空にも少しだけ恋をした。

不安定な光が、
あなたのまつ毛に影を落としていて、
風が服の袖を揺らしたとき、
私はなんでもない顔で、
ちゃんと覚えていた。

あなたはきっと知らない。
空を見て笑っていたことも、
同じ空を見上げると胸がちくっとすることも。

恋だなんて、そんな言葉は使いたくなかった。
だって空は広すぎて、
私の想いは小さすぎたから。

いつか届く?
そんなはずない。
風がさらっていくのは、
涙より先に、私の声。

だからせめて、空に恋をしたことにしておく。
それならきっと、誰にもバレない。
あなたが知らなくても、
雲は全部、
わたしの気持ちを運んでくれる気がするから。

明日、晴れるといいね。
あなたが見上げる空に、
私の気持ちが少しでも混ざってたら──

それだけで、ちょっとは報われる気がするの。

7/5/2025, 11:44:19 AM

波音に耳を澄ませると、
誰かの声よりも先に、私の鼓膜がざらつく。
潮騒はきっと記憶を溶かすためにある。
塩を含んだ風が吹くたびに、
私の背中から時間が剥がれていく。

ほら、あの白い泡は、
溺れた日の夢の中で見たままの形をしている。
呼吸の代わりに砂を吸い込み、
声をあげる代わりに
沈黙をひとくちずつ呑み込んだあの日。

波はわたしの足元で笑った。
何も変わっていないね、と。

海は全部知っている。
言わなくても、言っても、
どちらでもいいと決めつけるような強さで、
私の名前すら、もう呼ばない。

それでも。
それでも私は今日も、
砂にひざをついて耳を澄ます。

私の中にまだ残っている、
あのとき誰にも伝えられなかった
ちいさな波音が、
今日もどこかで誰かの胸を打っている気がして。

7/4/2025, 2:13:24 PM

午後三時すぎ、
洗濯物が乾きはじめる頃、
風が吹いていた。

静かな風だった。
けれどその輪郭には、うっすらと色がついていた。
空の青よりも、少しだけ冷たい青。

青い風は、
あらゆるものに等しく触れていく。
咲きかけの花に、
壊れかけたポストに、
うまく話せないままのふたりにも。

風に名前があるなら、
それはたぶん、
忘れられた思い出のひとつだろう。
口に出せば消えてしまうような、
それでいて確かにここにある何か。

誰も気づかないふりをする。
けれどその風を浴びた午後には、
どこかに小さな影が差し込む。
ふだんなら笑えるようなことも、
少しだけ黙ってしまうような日。

青い風は通り過ぎる。
誰のものにもならずに。
しばらくして、空が深くなる。

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