目を細めた先に
まだあの日の空は、ある。
厚くて重たい午後だった。
熱をもった風が、
制服の襟をわずかにめくった。
自転車のペダルの音だけが、
通り過ぎた時間の最後尾を引きずっていた。
──戻りたくはない。
でも、見ていたい。
公園の水道は斜めに傾き、
赤く錆びた鉄棒に、
誰の名でもない落書きがかすかに残っていた。
わたしたちがあのときに話した言葉を
もう思い出せない。
笑った理由も、
泣いたことも。
なのに、
夕日だけは覚えている。
見えない膜を通して差し込んでくる、
あの橙の光。
西に吸い込まれていったわたしたちの影。
今の私があの日にいたなら、
何を変えられただろう。
何も変えられなかっただろう。
だから、今もこうして思い出してしまう。
景色は、
もうそこにはない。
でも、
そこにいた「わたし」は、まだここにいる。
あの日の景色は、
失われた世界の手がかり。
そして、
見失いたくない誰かの影が、まだ
そっと、
記憶に差し込んでいる。
夜の中で、言葉がふいに重くなる。
枕に沈む呼吸の奥、
まだ誰にも知られていないわたしが、
そっと願い事を結びはじめる。
お願い。
痛みがちゃんと「痛み」でありますように。
お願い。
わたしの好きが「怖くない」と
言ってもらえますように。
目をつぶったまま、
視えないものの形を指でなぞる。
それはきっと、
幼いころに描いた空想の友だちと、
今朝読んだニュースと、
昨日言えなかった「ごめんね」が
溶け合ってできた、
不思議な紙片。
それを折って折って、
できた星がひとつ、布団の中に転がる。
どうか、
その星が光らなくても、
願いごとであることをやめませんように。
朝になれば、忘れる。
昼になれば、笑う。
夕方には、また思い出してしまう。
だから、
せめて夜には、
私がわたしの願い事を
忘れないでいてあげたい。
聞こえなくてもいい。
届かなくてもいい。
ただ──願いごとが「ここにあった」と
夜のどこかに記されますように。
この季節の空は、遠くて近い。
雲が流れていくのが目で追えるくらい、
はっきりしていて。
それなのに、どこにも触れられない。
あなたを見つけた日、
あの空にも少しだけ恋をした。
不安定な光が、
あなたのまつ毛に影を落としていて、
風が服の袖を揺らしたとき、
私はなんでもない顔で、
ちゃんと覚えていた。
あなたはきっと知らない。
空を見て笑っていたことも、
同じ空を見上げると胸がちくっとすることも。
恋だなんて、そんな言葉は使いたくなかった。
だって空は広すぎて、
私の想いは小さすぎたから。
いつか届く?
そんなはずない。
風がさらっていくのは、
涙より先に、私の声。
だからせめて、空に恋をしたことにしておく。
それならきっと、誰にもバレない。
あなたが知らなくても、
雲は全部、
わたしの気持ちを運んでくれる気がするから。
明日、晴れるといいね。
あなたが見上げる空に、
私の気持ちが少しでも混ざってたら──
それだけで、ちょっとは報われる気がするの。
波音に耳を澄ませると、
誰かの声よりも先に、私の鼓膜がざらつく。
潮騒はきっと記憶を溶かすためにある。
塩を含んだ風が吹くたびに、
私の背中から時間が剥がれていく。
ほら、あの白い泡は、
溺れた日の夢の中で見たままの形をしている。
呼吸の代わりに砂を吸い込み、
声をあげる代わりに
沈黙をひとくちずつ呑み込んだあの日。
波はわたしの足元で笑った。
何も変わっていないね、と。
海は全部知っている。
言わなくても、言っても、
どちらでもいいと決めつけるような強さで、
私の名前すら、もう呼ばない。
それでも。
それでも私は今日も、
砂にひざをついて耳を澄ます。
私の中にまだ残っている、
あのとき誰にも伝えられなかった
ちいさな波音が、
今日もどこかで誰かの胸を打っている気がして。
午後三時すぎ、
洗濯物が乾きはじめる頃、
風が吹いていた。
静かな風だった。
けれどその輪郭には、うっすらと色がついていた。
空の青よりも、少しだけ冷たい青。
青い風は、
あらゆるものに等しく触れていく。
咲きかけの花に、
壊れかけたポストに、
うまく話せないままのふたりにも。
風に名前があるなら、
それはたぶん、
忘れられた思い出のひとつだろう。
口に出せば消えてしまうような、
それでいて確かにここにある何か。
誰も気づかないふりをする。
けれどその風を浴びた午後には、
どこかに小さな影が差し込む。
ふだんなら笑えるようなことも、
少しだけ黙ってしまうような日。
青い風は通り過ぎる。
誰のものにもならずに。
しばらくして、空が深くなる。