ただいま。
風鈴の音がして、誰かが返事をした気がした。
この家にはもう、私しかいないはずなのに。
玄関を開けると、焼けた畳の匂いが
昨日の記憶みたいに漂っていた。
庭の草はのび放題。
でも向日葵だけは、律儀に空を見ている。
廊下を裸足で歩いたら、
床の熱で夏を思い出した。
虫取り網も、麦茶も、
ごっこ遊びの嘘とほんとの間で
私たちはちゃんと、息をしていた。
でも今は、
押入れの奥にしまった声も、
軒下で泣いてた理由も、
あの夜の花火と一緒に消えた。
私は畳に座って声を出す。
この空気、この匂い、この眩しさ。
全部が、私の記憶の中から滲み出ていた。
ほんのすこし、
泣きたくなるくらいの温度で。
冷えてると思ってた。
だけど飲んだら、ぬるかった。
しゅわしゅわって音もせず、
ただ、ぐったりと甘くて、のどに残った。
君と話したいと思ってた。
だけど今日も、君は無口だった。
わたしの話にうなずきもしないし、
下を向いて目も合わせない。そういうやつ。
君は、冷たくて、呼吸のかすかな音を出して。
なんだか炭酸の泡みたい。
甘くないところは炭酸とちがうね。
君の味はたぶんちょっぴりほろ苦いと思うし。
「話すことないの?」って聞きたいけど、
聞いたら、たぶんもっと黙られる。
「別に」って言われたら、たぶん泣いちゃう。
だから言わない。わたしって、変みたい。
君の沈黙の中に、意味を探すのは疲れる。
なんかあるの? ないの? ねえ、ないの?
…ないならない、って言ってよ。
でも言われたら、それもなんだかさみしい。
ぬるい炭酸は、ぬるいまま終わる。
冷たくならない。はじけない。
わたしの言葉も、君には届かない。
でも一緒にいる。今日も、また。
君は冷たく無口なまま、わたしが勝手に話す。
そうしていたら、きっと君はぬるくなってく。炭酸みたいに。
そうだったらいいな。
濡れた足跡の先に、封筒が落ちていた。
角がくしゃりと折れて、
滲んだ文字が踊っている。
開けるのが遅かったのか、
あるいは、開けない方が良かったのか。
判断を誤ったのは、私の方だろう。
砂の上にしゃがんで、
その紙片に指を触れた。
指紋を吸い取るように、ざらりとした感触。
潮の湿り気に溶けていく告白。
だけどもう、この手紙は波のものだった。
波が封筒を攫っていく。
見ている私の方が、
置いていかれるような気がした。
ただ黙って、それを見ていた。
夕陽は、あまりに優しすぎて、
誰かの悲しみを許す色をしていた。
私は自分の手のひらを見下ろす。
何も握っていない。何も掴めなかった。
私はただ一人だった。
ただ濡れた手だけが、私の罪をなぞっている。
蝉の声に包まれた午後、
私はひとり、止まった時計を見ていた。
日焼け止めの匂い、遠くの花火、
どれもが「君」を思い出させてしまうから。
あの夏、君はまっすぐな瞳で、
「また来年もここで」と笑った。
風鈴が揺れて、影が重なった縁側。
その記憶が、今も風に紛れて耳に届く。
8月の光は優しくて、残酷だ。
懐かしさに触れれば触れるほど、
君のいない現実が、ひりひりする。
それでも私は今年も
同じ道を歩いてしまう。
君が走った、白い道。
君が立っていた、青い空。
「8月、君に会いたい」
そんな言葉を胸にしまって、
蝉の声に耳を澄ませる。
君の気配が、また風に乗る気がして。
あの子、まぶしいんだ。
まっすぐで、きれいで、光ってて。
笑うとき、ちょっとまぶしすぎるくらい。
だから、あんまり見ないようにしてる。
だって見たら、比べちゃうじゃん。
わたしの顔とか、声とか、足の速さとか、
わたしの全部がしょぼく見えちゃう。
ほんとはあの子のこと、
きらいじゃないんだよ。
むしろ、ちょっと憧れてる。
でも憧れてるなんて言ったら、
わたしの負けみたいだから言わない。
だって、まぶしいんだもん。
まぶしいってことは、
まぶしくないわたしがいるってことで、
それってなんか悔しくて、
ちょっと泣きたくなる。
でも泣いたら笑われそうだから、
まばたきしてごまかす。
まぶしいから、
目がしょぼしょぼしただけ、って。
あの子のこと、ほんとはすごく気になる。
でもたぶん、
あの子はわたしのこと気にしてない。
それもまぶしくて、つらい。
光ってる人ってずるい。
光ってるだけで勝ちみたいな顔してる。
でもほんとは違うんだよ、って言いたいけど、
光ってないわたしが言っても、
説得力ないじゃん。
だからやっぱり、見ないようにしてる。
まぶしいの、苦手だから。