誰にも見つからないように
私は今日を一口ずつ食べていく。
まるで、古い果実。
甘さも酸っぱさも すこしだけ萎びていて、
それでも口に運ぶたび、
歯の奥でぴくりと痺れる。
あの頃はきっと
もっと美味しかったはずなのに──
なんてことを、
冷蔵庫の灯りの下で考えているような。
時計の針が進む音は、
耳ではなく、胸の裏で聞こえる。
私は「今」に掴まれている。
未来は届かないほど遠く、
過去はあまりにも形がぼやけていているから。
ならばせめて、この一秒の痛みに、
優しく触れてやらなくちゃ。
どこにも行けない。
だけど、ここにいる。
これは呪いじゃない、たぶんそういう運命。
静かに息をして、
心臓が奏でる不格好なリズムを、
今夜もひとり聴きつづける。
それが、
今を生きるってことだと思う。
もう、ここにはいられない。
薄くなった日記帳の角に指をかけて、
次のページを破らないように、そっと閉じる。
今日という日が、重たすぎて
胸の中で押し花になってしまう前に。
誰かが言った、
飛ぶには、羽根じゃなくて理由がいるのって。
だけど私の理由は、
いつも地面に縫いつけられたままだった。
でもあの夜、
ホコリがこびり付いた街燈の下で
影が私に手を差し伸べてくれた。
明減する明かりの中で、
小さな声が耳元で囁いた。
飛べ。
人も、住処も、明日も置いて。
ただ、ここを離れて。
誰にも見えない高さで、風を掴んで。
羽ばたき方なんて知らなくてもいい。
夜が。暗闇が。すべてを塗りつぶしてくれる。
誰も、私が飛んだことに気づかないくらいに。
そして私は、ひとつ息を吸いこむ。
腐敗物みたいで、ぐずぐずで、
蟻がたかっているような過去を背にして、
透明な夜空に足をかけた。
飛んだ。
わたしの「はじまり」のために。
私の姿はどんどん小さくなって、
わたしの視界は広くなっていった。
今日は特別な日と漠然と思う。
だけれども
目が覚めても、カーテンの隙間から
普段通りの光しか差してこない
ケーキはない。
プレゼントもない。
だけど、机の引き出しの奥に
わたしの字で書かれた紙片が眠ってる
今日も特別な日。
今日もなぜ特別な日なのか、
頭にモヤがかかっていて、
よく思い出せない。
ただ、読み返す度に
私の中で、わたしの声がふるえて響く
意識が遠のいて
時計の針はふと遅くなる。
特別なんて、用意されたものじゃない。
不意に、過去から届く、
呼び起こされる日。
いつもと変わらないけれど
ちょっぴりいつもと違ってる。
私にしかわからない
私だけの
特別な日。
午後の眠気が 肩を撫でるようにやってきた
木漏れ日が 少しずつ角度を変える
私は 一本の影のゆらぎに
まるで問いかけられているような気がした
風の通り道が 枝を揺らし
光の粒が 地面にゆるやかな祈りを描く
虫の声も どこか遠くで
忘れられた秘密をつぶやいている
さっきまで 誰かといた気がする
でもその輪郭は 木陰のように曖昧で
けれど確かにそれは 存在しているようで
心地よい温度だけが手のひらに残っている
木々のさざめきが 一瞬止まった
その静けさのなかで 私は
目に見えないものに 包まれていた
言葉ではなく
沈黙でもなく
ただ、存在そのものに
それは、幽霊だったのかもしれない
あるいは、私の記憶が見せた幻かもしれない
でも確かに、揺れていた
私の影と、もうひとつの影が
重なって揺れていた
扇風機の音が、時間をねじ曲げる。
まぶたの裏に焼きつく白い空。
わたしはここにいながら、
確かにどこかにいた。
畳の目の間に落ちた光が、
波紋のように揺れている。
一秒ごとに遠ざかる現実の縁で、
誰かが笑った気がした。
なぜか、声が聞こえない。
けれど唇の動きが、
昔くれた言葉をなぞってる気がした。
気のせいならいい。
でも、気のせいじゃなければもっといい。
扇風機の風が頬を撫でるたび、
揺れるカーテンが
まだ名もない風景を運んできた。
ふいに立ち上がって、
声をかけようとした瞬間。
世界はカシャ、と閉じた。
扇風機の音。
遠くの踏切。
目が覚めた。
私は、ここにいた。
たぶん、ずっとここにいたのだろう。
でも、あの白い光のなかで
私は確かに笑っていた。
たとえそれが夢だとしても、
真昼の、眩しすぎる夢だったとしても。