ほかの誰も見たことのない道を
私たちは歩いていた。
舗装されていない湿った土と、
雨上がりの匂いだけが目印だった。
風が音を運ぶ度に、
わたしは立ち止まり、耳を澄ました。
その静けさを破らぬように
私も口を閉じた。
——ねぇ、
このままどこまでいけるのかな
わたしがそう言ったとき、
私は答えなかった。
だって、分からなかったから。
行き先も、行き止まりも、
すべてが未完成だった。
でも不安はなかった。
地図に描かれた道は誰かのものだけれど、
踏みしめたこのぬかるみは、
私たちのものだったから。
午後の光はやわらかく、
まるで過去を包んでいくようだった。
誰にも知られない場所で
わたしが笑う。
その声の温度に、私は何度も確かめた。
少し暖かく、湿っぽい。
これは幻じゃない。
この湿った空気も
足跡の残る小道も
私の汗ばむ手のひらも
わたしの短く切られた言葉も
全部
二人だけの。
目を閉じれば、
ひとつ前の夏がまぶたの裏に浮かぶ。
それは記憶というには淡すぎて、
夢というには湿っている。
路地裏のアスファルトが、
空の色を映していた。
陽炎は逃げ水のように揺れ、
誰かの影をからかうように踊っていた。
私は白いサンダルで、誰かを待っていた。
多分、もう来ないことを知っていながら。
氷の溶けたジュースのグラスが、
テーブルの上に水たまりをつくる。
その水たまりの奥に、知らない風景が見えた。
なぜか、懐かしかった。
なぜか、少しだけ、怖かった。
夕立が来ると知っていて、
それでも洗濯物を取り込まなかった。
私のなかの誰かが、
わざと忘れたみたいに。
そうして夏が通り過ぎる度、
私の影は少しずつ、
焦げついたように短くなっていく。
夏は過ぎる。
だけど、置いていってはくれない
壁の裏には何があるのか、
私はずっと知っていた。
知っていたけれど、誰にも言わなかった。
言葉にした瞬間、
世界の形が変わってしまう気がして。
家の廊下を歩くと、
二歩だけ音が違う板がある。
指でなぞると、
そこだけわずかに温度が違った。
幼い頃、そこに耳を当てて──
ずっと、何かの息づかいを聞いていた。
母は、私のことをよく叱った。
「また変なこと言ってる」と。
私は黙ることを覚えた。
黙って、見て、嗅いで、感じたものを、
飲み込んだ。
音の大きさは増していった。
ある日、我慢できずに声が漏れた。
「ここに何かいるんだよ」
その瞬間、母の目はわずかに震えた。
それは怒りではなく、恐れだった。
私は知ってしまった。
母も、その存在を知っていた。
だって、それはわたしの形をしていたから。
夜。灯りを消して、目を閉じると
あの音がまた聞こえる。
わたしが、壁の向こうで泣いている。
あの日からずっと、同じ場所で、同じように。
私は知っていた。
ずっと知っていた。
でも、それは「隠された真実」だった。
わたしが隠れたんじゃない。
私が、隠しておきたかったんだ。
鳴った。
とても遠くで。
まるで、別の季節の記憶に引っかかった音。
風鈴は窓辺で揺れ、
ガラス同士が触れ合って、
優しい痛みを生んでいる。
触れたがって、でも壊れたくない、そんな音。
去年の夏が、またぶらさがっていた。
軒先で。
何も変わらないように見えて、
どこかが欠けたまま。
音の正体はたぶん──
私の言えなかった言葉。
わたしが聞こえないふりをした瞬間。
ふたりの沈黙が吊るされたまま
風に吹かれている。
繰り返されるたび、音は軽くなっていく。
まるで忘れる練習をしているように。
もう一度、風が吹いたら壊れてしまいそう。
でも、鳴らないと寂しい。
ねえ、覚えてる?
あの音は、私たちの声の代わりだった。
鳴るたび、ひとつの嘘が風に溶けていった。
鳴るたび、ふたつの影が少しだけ離れた。
風鈴が落ちる日、
わたしたちはやっと話せる気がした。
光が網戸に触れながら
午後を一枚ずつ脱ぎ捨ててゆく。
私はまだ椅子の上、
動かない体に、透明な旅支度。
窓の向こうのベランダで
洗濯物が青空に干される。
風にゆれるシャツが手を振っている。
「はやくおいで」と言っているような──
脈の隙間からそっと抜け出し、
鍵のかかっていない思考の扉をくぐり抜け、
心だけが、するりと抜けた。
逃げた。
逃げてくれた。
草むらを踏み分け、
一度も訪れたことのないはずの
駅を知っていた。
知らない電車の、どこか見覚えのある揺れ。
知らないはずの乗客たちの、
見えすぎるほどの孤独な目。
心だけ、列車に乗った。
私を置いて。
置き去りの体がベランダに寄りかかると、
窓ガラスがうっすら曇った。
透明だったはずの旅が、
ほんのすこしだけ見えた。
「戻ってきたくない」
風がそう言った気がした。
わたしも、そう思った気がした。
心だけの逃避行。
終点のない、心だけの旅。
まだ、終わっていない。
続いている。