第一歩は、靴の中の小石だった。
痛いけれど、脱げないまま歩き続けた。
舗装のひび割れを辿って、
フェンス越しの向こう側へ。
風景は変わらない。
でも、私は知っている。
今日の風は昨日の風じゃない。
空の色も、ほんの少し違っている。
曲がり角には誰かの影があった。
姿はないけど、そこにあった。
忘れられたガラス片、ぬるんだ空気、
濡れたままの手すり──
冒険とは、きっとこんなものだと思う。
何かを探してるのに、
何を探してるかは知らない。
「たぶん、ここじゃない」
それだけが頼りで、
それだけが、地図になる。
帰り道に見かけた猫が、
来た時と同じ場所に居てくれる保証はない。
だけどそれも、きっといい。
誰にも説明できない風景を、
誰にも話せない形で、
私はそっと、胸にしまっていく。
たぶん冒険とは
「どこに行ったか」じゃなく、
「誰にも伝えられないこと」のこと。
海が喋っていた。
言葉のない泡が、耳の奥まで忍び込む。
私は、きっと何かを
失くしてしまったのだと思う。
手のひらは濡れて、でも何も掴めない。
届きそうで、届かなかったものたちが、
波の縁にずらりと並んでいる。
それはおそらく、
一度も見たことのない、わたしの後ろ姿。
砂に書いた願い事は、
読み返す前にさらわれた。
答えじゃないものが、風になって返ってくる。
言い訳に似た音が、かすかに揺れて──
そして、やっぱり、
何もなかったように静かになる。
「届いて」と口に出すと、
その声は一番近くにある、
空虚にぶつかって砕けた。
それでも、誰かが振り向いた気がして、
私はまた、目を閉じて、祈る。
届かないという事実が、
誰よりも静かに、私のそばにいる。
それでも
それでも──
たった一粒の泡でいい、
わたしの頬に触れるまで、
この願いを沈め続ける。
目を細めた先に
まだあの日の空は、ある。
厚くて重たい午後だった。
熱をもった風が、
制服の襟をわずかにめくった。
自転車のペダルの音だけが、
通り過ぎた時間の最後尾を引きずっていた。
──戻りたくはない。
でも、見ていたい。
公園の水道は斜めに傾き、
赤く錆びた鉄棒に、
誰の名でもない落書きがかすかに残っていた。
わたしたちがあのときに話した言葉を
もう思い出せない。
笑った理由も、
泣いたことも。
なのに、
夕日だけは覚えている。
見えない膜を通して差し込んでくる、
あの橙の光。
西に吸い込まれていったわたしたちの影。
今の私があの日にいたなら、
何を変えられただろう。
何も変えられなかっただろう。
だから、今もこうして思い出してしまう。
景色は、
もうそこにはない。
でも、
そこにいた「わたし」は、まだここにいる。
あの日の景色は、
失われた世界の手がかり。
そして、
見失いたくない誰かの影が、まだ
そっと、
記憶に差し込んでいる。
夜の中で、言葉がふいに重くなる。
枕に沈む呼吸の奥、
まだ誰にも知られていないわたしが、
そっと願い事を結びはじめる。
お願い。
痛みがちゃんと「痛み」でありますように。
お願い。
わたしの好きが「怖くない」と
言ってもらえますように。
目をつぶったまま、
視えないものの形を指でなぞる。
それはきっと、
幼いころに描いた空想の友だちと、
今朝読んだニュースと、
昨日言えなかった「ごめんね」が
溶け合ってできた、
不思議な紙片。
それを折って折って、
できた星がひとつ、布団の中に転がる。
どうか、
その星が光らなくても、
願いごとであることをやめませんように。
朝になれば、忘れる。
昼になれば、笑う。
夕方には、また思い出してしまう。
だから、
せめて夜には、
私がわたしの願い事を
忘れないでいてあげたい。
聞こえなくてもいい。
届かなくてもいい。
ただ──願いごとが「ここにあった」と
夜のどこかに記されますように。
この季節の空は、遠くて近い。
雲が流れていくのが目で追えるくらい、
はっきりしていて。
それなのに、どこにも触れられない。
あなたを見つけた日、
あの空にも少しだけ恋をした。
不安定な光が、
あなたのまつ毛に影を落としていて、
風が服の袖を揺らしたとき、
私はなんでもない顔で、
ちゃんと覚えていた。
あなたはきっと知らない。
空を見て笑っていたことも、
同じ空を見上げると胸がちくっとすることも。
恋だなんて、そんな言葉は使いたくなかった。
だって空は広すぎて、
私の想いは小さすぎたから。
いつか届く?
そんなはずない。
風がさらっていくのは、
涙より先に、私の声。
だからせめて、空に恋をしたことにしておく。
それならきっと、誰にもバレない。
あなたが知らなくても、
雲は全部、
わたしの気持ちを運んでくれる気がするから。
明日、晴れるといいね。
あなたが見上げる空に、
私の気持ちが少しでも混ざってたら──
それだけで、ちょっとは報われる気がするの。