不整脈

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7/10/2025, 12:14:26 PM

第一歩は、靴の中の小石だった。
痛いけれど、脱げないまま歩き続けた。
舗装のひび割れを辿って、
フェンス越しの向こう側へ。

風景は変わらない。
でも、私は知っている。
今日の風は昨日の風じゃない。
空の色も、ほんの少し違っている。

曲がり角には誰かの影があった。
姿はないけど、そこにあった。
忘れられたガラス片、ぬるんだ空気、
濡れたままの手すり──
冒険とは、きっとこんなものだと思う。

何かを探してるのに、
何を探してるかは知らない。
「たぶん、ここじゃない」
それだけが頼りで、
それだけが、地図になる。

帰り道に見かけた猫が、
来た時と同じ場所に居てくれる保証はない。
だけどそれも、きっといい。

誰にも説明できない風景を、
誰にも話せない形で、
私はそっと、胸にしまっていく。

たぶん冒険とは

「どこに行ったか」じゃなく、
「誰にも伝えられないこと」のこと。

7/9/2025, 11:14:21 AM

海が喋っていた。
言葉のない泡が、耳の奥まで忍び込む。
私は、きっと何かを
失くしてしまったのだと思う。

手のひらは濡れて、でも何も掴めない。
届きそうで、届かなかったものたちが、
波の縁にずらりと並んでいる。
それはおそらく、
一度も見たことのない、わたしの後ろ姿。

砂に書いた願い事は、
読み返す前にさらわれた。
答えじゃないものが、風になって返ってくる。
言い訳に似た音が、かすかに揺れて──
そして、やっぱり、
何もなかったように静かになる。

「届いて」と口に出すと、
その声は一番近くにある、
空虚にぶつかって砕けた。
それでも、誰かが振り向いた気がして、
私はまた、目を閉じて、祈る。

届かないという事実が、
誰よりも静かに、私のそばにいる。

それでも
それでも──
たった一粒の泡でいい、
わたしの頬に触れるまで、
この願いを沈め続ける。

7/8/2025, 10:50:37 AM

目を細めた先に
まだあの日の空は、ある。

厚くて重たい午後だった。
熱をもった風が、
制服の襟をわずかにめくった。
自転車のペダルの音だけが、
通り過ぎた時間の最後尾を引きずっていた。

──戻りたくはない。
でも、見ていたい。

公園の水道は斜めに傾き、
赤く錆びた鉄棒に、
誰の名でもない落書きがかすかに残っていた。

わたしたちがあのときに話した言葉を
もう思い出せない。
笑った理由も、
泣いたことも。

なのに、
夕日だけは覚えている。
見えない膜を通して差し込んでくる、
あの橙の光。
西に吸い込まれていったわたしたちの影。

今の私があの日にいたなら、
何を変えられただろう。
何も変えられなかっただろう。
だから、今もこうして思い出してしまう。

景色は、
もうそこにはない。
でも、
そこにいた「わたし」は、まだここにいる。

あの日の景色は、
失われた世界の手がかり。
そして、
見失いたくない誰かの影が、まだ
そっと、
記憶に差し込んでいる。

7/7/2025, 1:55:41 PM

夜の中で、言葉がふいに重くなる。
枕に沈む呼吸の奥、
まだ誰にも知られていないわたしが、
そっと願い事を結びはじめる。

お願い。
痛みがちゃんと「痛み」でありますように。
お願い。
わたしの好きが「怖くない」と
言ってもらえますように。

目をつぶったまま、
視えないものの形を指でなぞる。
それはきっと、
幼いころに描いた空想の友だちと、
今朝読んだニュースと、
昨日言えなかった「ごめんね」が
溶け合ってできた、
不思議な紙片。

それを折って折って、
できた星がひとつ、布団の中に転がる。

どうか、
その星が光らなくても、
願いごとであることをやめませんように。

朝になれば、忘れる。
昼になれば、笑う。
夕方には、また思い出してしまう。

だから、
せめて夜には、
私がわたしの願い事を
忘れないでいてあげたい。

聞こえなくてもいい。
届かなくてもいい。

ただ──願いごとが「ここにあった」と
夜のどこかに記されますように。

7/6/2025, 11:32:07 AM

この季節の空は、遠くて近い。
雲が流れていくのが目で追えるくらい、
はっきりしていて。
それなのに、どこにも触れられない。

あなたを見つけた日、
あの空にも少しだけ恋をした。

不安定な光が、
あなたのまつ毛に影を落としていて、
風が服の袖を揺らしたとき、
私はなんでもない顔で、
ちゃんと覚えていた。

あなたはきっと知らない。
空を見て笑っていたことも、
同じ空を見上げると胸がちくっとすることも。

恋だなんて、そんな言葉は使いたくなかった。
だって空は広すぎて、
私の想いは小さすぎたから。

いつか届く?
そんなはずない。
風がさらっていくのは、
涙より先に、私の声。

だからせめて、空に恋をしたことにしておく。
それならきっと、誰にもバレない。
あなたが知らなくても、
雲は全部、
わたしの気持ちを運んでくれる気がするから。

明日、晴れるといいね。
あなたが見上げる空に、
私の気持ちが少しでも混ざってたら──

それだけで、ちょっとは報われる気がするの。

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