波音に耳を澄ませると、
誰かの声よりも先に、私の鼓膜がざらつく。
潮騒はきっと記憶を溶かすためにある。
塩を含んだ風が吹くたびに、
私の背中から時間が剥がれていく。
ほら、あの白い泡は、
溺れた日の夢の中で見たままの形をしている。
呼吸の代わりに砂を吸い込み、
声をあげる代わりに
沈黙をひとくちずつ呑み込んだあの日。
波はわたしの足元で笑った。
何も変わっていないね、と。
海は全部知っている。
言わなくても、言っても、
どちらでもいいと決めつけるような強さで、
私の名前すら、もう呼ばない。
それでも。
それでも私は今日も、
砂にひざをついて耳を澄ます。
私の中にまだ残っている、
あのとき誰にも伝えられなかった
ちいさな波音が、
今日もどこかで誰かの胸を打っている気がして。
午後三時すぎ、
洗濯物が乾きはじめる頃、
風が吹いていた。
静かな風だった。
けれどその輪郭には、うっすらと色がついていた。
空の青よりも、少しだけ冷たい青。
青い風は、
あらゆるものに等しく触れていく。
咲きかけの花に、
壊れかけたポストに、
うまく話せないままのふたりにも。
風に名前があるなら、
それはたぶん、
忘れられた思い出のひとつだろう。
口に出せば消えてしまうような、
それでいて確かにここにある何か。
誰も気づかないふりをする。
けれどその風を浴びた午後には、
どこかに小さな影が差し込む。
ふだんなら笑えるようなことも、
少しだけ黙ってしまうような日。
青い風は通り過ぎる。
誰のものにもならずに。
しばらくして、空が深くなる。
名前もない風景が
胸の奥で地図のように広がって
私を誘う
行ったこともないのに
そこにずっと、誰かが待っている気がする
声はしないけれど
目を閉じれば、手を伸ばしてくれるような
うまく笑えないとき
まっすぐ歩けないとき
世界がきしんでうるさくて
息が詰まるとき
朝焼けに包まれた坂道とか
子供が落書きした橋の裏とか
誰かが落としたハンカチの匂いのする空とか
そういう、くだらないけど
あたたかい場所を歩いてみたい
なにも証明しなくていい場所
なにも演じなくていい場所
ただの「わたし」でいていい
そんな場所を、遠くで探したい
だから今日も、地図を開けずに
心だけポケットに入れて
そっと、歩き出す
私がわたしに
ただ「よかったね」って
言ってあげられるように
わたしはクリスタル。
透明でできていて、中身はからっぽ。
けれど誰かがのぞき込むと、
その瞳に、わたしの中のものが映る。
汚れてなんかいないって、みんな言う。
でもそれは光が当たっている間だけ。
夜になれば、ただの硬い石っころ。
割れそうで割れない、無音の器。
わたしはクリスタル。
誰もが欲しがる装飾品。
友達たちが胸元に下げてくれたときは、
ほんのすこし、嬉しかった。
でも熱で曇っていった。
呼気で曇っていった。
指のあとがついて、爪の先で傷つけられて、
それでもみんなは「きれい」と言ってくれた。
本当は、
最初から欠けていたのかもしれない。
でも誰も気づかないから、
わたしも気づかないふりをした。
わたしはクリスタル。
冷たくて、きれいで、
どうしようもなく、
みんなに触れられたい。
夜の熱気に、皮膚がうすく焼かれている。
鼻の奥に刺さる、
湿った土と熱せられたアスファルトの匂い。
それは遠い過去の感情を呼び覚まし、
まだ言葉にならなかった頃の、飢えと怒りを起こしてくる。
夏の匂いがするたび、
私は思い出す。
あの夜、声を出せずに泣いたあとの
あの匂い。
血のついたシャツを脱いだときの
あの汗と錆の混じった匂い。
それを知っているのは、私だけ。
どこまで逃げても、
この季節は必ず追いかけてくる。
吐き出すたびに、息のなかに残ってる。
でも焼けた世界の匂いは、
心の最奥を焼き切ることができない。
私は生きている。
誰にも気づかれない場所で、
手を火傷しながらもこの現実を撫でている。
夏の匂いを嗅げるのは、私が生きている証。
私はそれを信じている。