不整脈

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7/5/2025, 11:44:19 AM

波音に耳を澄ませると、
誰かの声よりも先に、私の鼓膜がざらつく。
潮騒はきっと記憶を溶かすためにある。
塩を含んだ風が吹くたびに、
私の背中から時間が剥がれていく。

ほら、あの白い泡は、
溺れた日の夢の中で見たままの形をしている。
呼吸の代わりに砂を吸い込み、
声をあげる代わりに
沈黙をひとくちずつ呑み込んだあの日。

波はわたしの足元で笑った。
何も変わっていないね、と。

海は全部知っている。
言わなくても、言っても、
どちらでもいいと決めつけるような強さで、
私の名前すら、もう呼ばない。

それでも。
それでも私は今日も、
砂にひざをついて耳を澄ます。

私の中にまだ残っている、
あのとき誰にも伝えられなかった
ちいさな波音が、
今日もどこかで誰かの胸を打っている気がして。

7/4/2025, 2:13:24 PM

午後三時すぎ、
洗濯物が乾きはじめる頃、
風が吹いていた。

静かな風だった。
けれどその輪郭には、うっすらと色がついていた。
空の青よりも、少しだけ冷たい青。

青い風は、
あらゆるものに等しく触れていく。
咲きかけの花に、
壊れかけたポストに、
うまく話せないままのふたりにも。

風に名前があるなら、
それはたぶん、
忘れられた思い出のひとつだろう。
口に出せば消えてしまうような、
それでいて確かにここにある何か。

誰も気づかないふりをする。
けれどその風を浴びた午後には、
どこかに小さな影が差し込む。
ふだんなら笑えるようなことも、
少しだけ黙ってしまうような日。

青い風は通り過ぎる。
誰のものにもならずに。
しばらくして、空が深くなる。

7/3/2025, 11:41:21 AM

名前もない風景が
胸の奥で地図のように広がって
私を誘う

行ったこともないのに
そこにずっと、誰かが待っている気がする
声はしないけれど
目を閉じれば、手を伸ばしてくれるような

うまく笑えないとき
まっすぐ歩けないとき
世界がきしんでうるさくて
息が詰まるとき

朝焼けに包まれた坂道とか
子供が落書きした橋の裏とか
誰かが落としたハンカチの匂いのする空とか
そういう、くだらないけど
あたたかい場所を歩いてみたい

なにも証明しなくていい場所
なにも演じなくていい場所
ただの「わたし」でいていい
そんな場所を、遠くで探したい

だから今日も、地図を開けずに
心だけポケットに入れて
そっと、歩き出す

私がわたしに
ただ「よかったね」って
言ってあげられるように

7/2/2025, 11:23:03 AM

わたしはクリスタル。
透明でできていて、中身はからっぽ。
けれど誰かがのぞき込むと、
その瞳に、わたしの中のものが映る。

汚れてなんかいないって、みんな言う。
でもそれは光が当たっている間だけ。
夜になれば、ただの硬い石っころ。
割れそうで割れない、無音の器。

わたしはクリスタル。
誰もが欲しがる装飾品。
友達たちが胸元に下げてくれたときは、
ほんのすこし、嬉しかった。

でも熱で曇っていった。
呼気で曇っていった。
指のあとがついて、爪の先で傷つけられて、
それでもみんなは「きれい」と言ってくれた。

本当は、
最初から欠けていたのかもしれない。
でも誰も気づかないから、
わたしも気づかないふりをした。

わたしはクリスタル。
冷たくて、きれいで、
どうしようもなく、
みんなに触れられたい。

7/1/2025, 12:19:38 PM

夜の熱気に、皮膚がうすく焼かれている。
鼻の奥に刺さる、
湿った土と熱せられたアスファルトの匂い。
それは遠い過去の感情を呼び覚まし、
まだ言葉にならなかった頃の、飢えと怒りを起こしてくる。

夏の匂いがするたび、
私は思い出す。
あの夜、声を出せずに泣いたあとの
あの匂い。
血のついたシャツを脱いだときの
あの汗と錆の混じった匂い。
それを知っているのは、私だけ。

どこまで逃げても、
この季節は必ず追いかけてくる。
吐き出すたびに、息のなかに残ってる。
でも焼けた世界の匂いは、
心の最奥を焼き切ることができない。

私は生きている。
誰にも気づかれない場所で、
手を火傷しながらもこの現実を撫でている。

夏の匂いを嗅げるのは、私が生きている証。

私はそれを信じている。

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