♯春爛漫
スーパーに入るなり、私はぶるりと体を震わせた。
えっ……、なに?! 寒い!!
店内は鳥肌が立つほど冷房がきいていた。
たしかに今日は全国各地で夏日を記録している。暦の上では春のはずだが、ジッとしていると汗ばんでくるほどだ。
それを踏まえても、明らかに空調の設定温度を間違えていると私は思った。
だからといって、長居するわけでもない、注文をつける勇気もない。結局、上着を持ってこなかった自分を呪うしかなく、私は気を取り直してカゴの中に商品を入れていく。
最後にベーカリーコーナーへ立ち寄る。
次の瞬間、はっと私は目を見開いた。呼吸すら忘れていた。
そこには満開の桜が咲き誇っていた。
ふらふらと誘われるようにパックを手に取り、二個、三個……と、カゴの中に入れていく。
鼻腔いっぱいに広がるバニラにも似た甘く優しい香りと青っぽく爽やかな匂いに、たちまち私の体は春の陽射しを浴びたみたいにぽかぽかと温まる。
――やっぱり春といったら桜餅よね!
それでも買い占めてしまうのは悪いような気がしたので、ほんの少しの気持ちばかり残し、私はうきうきとレジへ向かった。
♯七色
「お前は毎日楽しそうでいいな」
自主練を切り上げて、体育館を出ようとしたら、突然そんなことを言われた。タオルで汗を拭きながら振り返ると、ボールを持ったチームメイトが仁王立ちに突っ立っている。入部当初から何かと噛みついてくるこのチームメイトが、オレには少しだけ面倒くさい。けど、それを態度に出したらいけないことは、よくわかっている。
妬み、嫉み、僻み……それに気づかないふりをして目をまたたかせるオレに、チームメイトはさらに苛立ちを募らせたのだろう、吐き捨てるような口調で言った。
「どうせ、お前が見ている世界と、オレが見ている世界は違うんだ」
色褪せた世界に住む自分と、七色の光に溢れる世界に住むチームメイト。オレだって、お前みたいにみんなから頼られる、みんなを支えられるような、そんなプレイヤーになりたかった。
そんなの、ただの幻想だ――ため息をつきたくなるのを、オレはこらえる。
オレの目で見る世界がほんとうに輝いてるか、いっぺん目ん玉交換しよっか。
そう言ったところで、火に油を注ぐ結果にしかならないことも、よくわかっている。
うーん、どうだろうなあと、オレは今回も口を濁すしかなかった。
♯記憶
最近、夢見が悪い。
就職をきっかけに実家を出て、とあるマンションでひとり暮らしを始めた。引っ越しは閑散期を狙い、荷造りと荷ほどきは自分で行う。さらに現地のリサイクルショップで家具をそろえることで費用を抑えた。
その悪夢を見始めたのは、初日の夜からだ。
夢の中のおれはベッドに仰向けになっている。
しばらくすると足元のほうからギシ……と軋むような音が聞こえ、同時にマットレスが小さく沈んだ。
だれかがベッドに乗ってきた――夢の中のおれはそう直感する。
今すぐ飛び起きて逃げるべきだと本能が警鐘を鳴らす。しかし、なぜか、指先ひとつ動かすことができない。なんとか目だけを動かし、足元を見下ろす。
――老爺がいた。
白髪がまばらに残った頭と、痩せさらばえた手足。腹部だけが、まるでおとぎ話に出てくる餓鬼のように膨らんでいる。
明らかにこの世のものではなかった。
老爺がゆっくりと覆い被さってくる。年寄り特有の饐えた臭いがツンと鼻をついた。深い皺に埋もれた目には白目がなく、ふたつの黒い穴がおれを無表情に見つめている。
老爺は腕を伸ばすと、突然おれの左胸に指を突き立てた。枯れ枝のような指からは想像できないほどものすごい力だった。それが、服を通して胸の肉に食いこんでくる。
心臓を取られる――!
身を引き裂かれるような恐怖におれは絶叫した。
――そこで、いつも目が覚める。
「事故物件じゃないかと思って管理会社に問い合わせてみたが、そんな事実はないらしい」
同僚は箸を置いて、おれの話に聞き入っている。
ここの定食屋は値段の安いわりにボリュームがあることで有名だった。本日もサラリーマンたちで賑わっている。
「引っ越してからその夢ばかり見る。いつか殺されるかもしれない。おれはどうしたらいい」
立て続けに同じ夢を見るからといって、しかも殺されるかもしれないなんて、気にしすぎじゃないかと自分でも思う。だからこそ、相談相手にこの同僚を選んだ。出会って日は浅いが、この男なら笑い飛ばさないだろうという謎の信頼があった。
同僚は真剣な顔で何やら考えこんでいる。しばらくしてから口を開いた。
「家具はリサイクルショップでそろえたと言っていたけど、もしかしてベッドも?」
なぜベッドが出てくるのかと、おれは訝りながらも頷いた。
「あ、ああ……それが?」
「部屋に問題がないとしたら、次に怪しむべきなのはベッドじゃないか?」
「…………」
とっさに答えられなかった。たまにソファでうたた寝をするが、たしかにそのときは悪夢を見ていない……。
だとしても、疑問が残る。
「店員は何も言ってなかった」
「心理的瑕疵があることを教える義務はないはずだ」
同僚は即座に返す。
「学生時代リサイクルショップで働いていた友達からそう聞いたことがある。むしろ買い手がつかなくなるのを考えると黙っていると思う」
「けど、普通そんなものを売るか?」
「曰くつきであっても状態が良好なら買い取るもんじゃないか? あっちも商売で食べているんだ。それにベッドで亡くなった人がいたとしても、それが君より前の持ち主だとは限らない。もっと前の持ち主かもしれない。だから店員も知らなかった可能性がある」
「そんな……」
とある光景が、ふいに脳裏をよぎる。なんてことのない、ただのスチールベッド。その上に敷かれた小汚い布団の中で、あの老爺が静かに横たわっている。――まるで死んでいるかのように。
どれくらい呆けていたのか。はたと我に返ると、同僚が心配そうな目で見ていた。
おれなら――と、彼は複雑そうな笑みを浮かべた。
「中古品は無難に避けるかな。物にだって『記憶』は宿るんだ」
♯もう二度と
『呪いのかけ方』というタイトルが目に飛びこんできた瞬間、オレは思わず「ぇ、」と声を出していた。
ベッドに腹ばいになっていた彼女が、まるで背後から撃たれたかのように勢いよく振り返る。オレの姿を目にするなりケータイのディスプレイをすばやく伏せた。
「やだぁ、見ちゃった~?」
取って付けたような清々しい笑顔。
「だ、だれかに呪いでもかけんの?」
見ちゃいました。と、自白したのも同然だった。
彼女はきょとんと無邪気な目をしていたが、やがて「ふふっ」と短く笑い、布団の上に座りこむ。
「『のろい』じゃなくて『まじない』って読むんだよ」
「まじない? いや、でも……」
同じ意味じゃないのか。オレの思考を読んだのだろう、「違うよぉ」と彼女は言った。
「同じ漢字だけど、不幸をお願いするか、幸せをお願いするかで意味が変わってくるの」
「……あー、つまり、お前のは『まじない』ってコト?」
彼女は天真爛漫な笑顔とともに頷いた。
「うん。だから怖がんなくていいよ~」
スピリチュアル。頭が痛いことに、それが彼女の趣味のひとつだった。
――天は二物を与えずってヤツだな。
つくづく惜しい女だと思う。貞操観念が緩いうえ体の相性はバッチリときている。見目もいい。しかも、たまにおこづかいをくれる。今のところこの好物件を手放すつもりはないが、今後、趣味を強要してくることがあったら関係を切ろうと思っていた。ちやほやしてくれる彼女なら他にもいる。
「もしかして、わたしに呪われるようなコト、こっそりしちゃってる?」
ドキッとして彼女を見ると、彼女のからかうような目が見つめ返してくる。ジョークだとわかり、オレは胸を撫でおろした。
「ばーか、そんなワケないだろ。隠し事なんかしないって」
隣に座って抱き寄せると、彼女が腰をよじってすり寄ってくる。オレの服の裾をぎゅっと握りこんで、言った。
「ねえ、」
「なに?」
「特別に教えてあげよっか? なんの『おまじない』か」
「へえ、いいの? 聞きたいな」
「うん、その『おまじない』はね――」
――もう二度と、
♯雲り
つまんない。
と、ブランコに乗って足をぶらつかせながら、その子は小ぶりの唇を尖らせた。
ぼんやりと遠くを見つめるつぶらな瞳は、空の色を映して灰色に濁っている。
「ホットケーキも、ソフトクリームも、ふわふわのわたあめも、なんにもないんだもの」
……ぼくがいるのに、そんなコト言うの?
その言葉を、ぼくは胸の中に立ちこめる雲と一緒に押しこめて、「食べものばっかりじゃん」と、明るく笑った。