♯記憶
最近、夢見が悪い。
就職をきっかけに実家を出て、とあるマンションでひとり暮らしを始めた。引っ越しは閑散期を狙い、荷造りと荷ほどきは自分で行う。さらに現地のリサイクルショップで家具をそろえることで費用を抑えた。
その悪夢を見始めたのは、初日の夜からだ。
夢の中のおれはベッドに仰向けになっている。
しばらくすると足元のほうからギシ……と軋むような音が聞こえ、同時にマットレスが小さく沈んだ。
だれかがベッドに乗ってきた――夢の中のおれはそう直感する。
今すぐ飛び起きて逃げるべきだと本能が警鐘を鳴らす。しかし、なぜか、指先ひとつ動かすことができない。なんとか目だけを動かし、足元を見下ろす。
――老爺がいた。
白髪がまばらに残った頭と、痩せさらばえた手足。腹部だけが、まるでおとぎ話に出てくる餓鬼のように膨らんでいる。
明らかにこの世のものではなかった。
老爺がゆっくりと覆い被さってくる。年寄り特有の饐えた臭いがツンと鼻をついた。深い皺に埋もれた目には白目がなく、ふたつの黒い穴がおれを無表情に見つめている。
老爺は腕を伸ばすと、突然おれの左胸に指を突き立てた。枯れ枝のような指からは想像できないほどものすごい力だった。それが、服を通して胸の肉に食いこんでくる。
心臓を取られる――!
身を引き裂かれるような恐怖におれは絶叫した。
――そこで、いつも目が覚める。
「事故物件じゃないかと思って管理会社に問い合わせてみたが、そんな事実はないらしい」
同僚は箸を置いて、おれの話に聞き入っている。
ここの定食屋は値段の安いわりにボリュームがあることで有名だった。本日もサラリーマンたちで賑わっている。
「引っ越してからその夢ばかり見る。いつか殺されるかもしれない。おれはどうしたらいい」
立て続けに同じ夢を見るからといって、しかも殺されるかもしれないなんて、気にしすぎじゃないかと自分でも思う。だからこそ、相談相手にこの同僚を選んだ。出会って日は浅いが、この男なら笑い飛ばさないだろうという謎の信頼があった。
同僚は真剣な顔で何やら考えこんでいる。しばらくしてから口を開いた。
「家具はリサイクルショップでそろえたと言っていたけど、もしかしてベッドも?」
なぜベッドが出てくるのかと、おれは訝りながらも頷いた。
「あ、ああ……それが?」
「部屋に問題がないとしたら、次に怪しむべきなのはベッドじゃないか?」
「…………」
とっさに答えられなかった。たまにソファでうたた寝をするが、たしかにそのときは悪夢を見ていない……。
だとしても、疑問が残る。
「店員は何も言ってなかった」
「心理的瑕疵があることを教える義務はないはずだ」
同僚は即座に返す。
「学生時代リサイクルショップで働いていた友達からそう聞いたことがある。むしろ買い手がつかなくなるのを考えると黙っていると思う」
「けど、普通そんなものを売るか?」
「曰くつきであっても状態が良好なら買い取るもんじゃないか? あっちも商売で食べているんだ。それにベッドで亡くなった人がいたとしても、それが君より前の持ち主だとは限らない。もっと前の持ち主かもしれない。だから店員も知らなかった可能性がある」
「そんな……」
とある光景が、ふいに脳裏をよぎる。なんてことのない、ただのスチールベッド。その上に敷かれた小汚い布団の中で、あの老爺が静かに横たわっている。――まるで死んでいるかのように。
どれくらい呆けていたのか。はたと我に返ると、同僚が心配そうな目で見ていた。
おれなら――と、彼は複雑そうな笑みを浮かべた。
「中古品は無難に避けるかな。物にだって『記憶』は宿るんだ」
3/26/2025, 6:54:22 AM