♯bye bye…
陽が落ち、辺りは薄闇に包まれていた。
私はひと気のない道を小走りに走る。
この頃、物騒な事件が増えた。息子の身に何もなければいいが――。
ハアハアと息を弾ませながら公園に踏みこむ。
すぐに息子は見つかった。小さな手をせっせと動かして、砂山を作っている。
安堵して息子を呼ぼうとした次の瞬間、私の喉は凍りついた。
ヘドロのようなぬめりを帯びたまっくろな塊が、息子のそばで蠢いていた。目も鼻も口も見当たらない。なのに、息をひそめてこちらを凝視している――私はそんな錯覚に駆られる。何かの腐った臭いがむっと鼻をついた。
しかし。
「ぇ――?」
瞬きをする合間に『それ』は消えていた。
私は困惑して立ちすくむ。
「……おかあさん?」
打たれたように我に返る。息子がきょとんとした顔で立っていた。私は幻覚を頭から振り払い、息子に駆け寄る。
「心配したじゃない、どうしてお友達と一緒に帰ってこなかったの?」
つい咎めるような口調になる。友達の母親に聞くと、息子は「まだもうちょっといる」と言って、ひとり残ったらしい。
息子は押し黙っている。気まずげに砂山を――いや、黒い塊があったところを見つめていた。
私はすぅっと背筋が寒くなるのを感じた。急速に干上がっていく喉をごくりと鳴らし、急いで息子の手を取る。
ただの気のせいよ、きっと。
「ほら、早く帰ろ」
「うん……」
砂でざらついた息子の手は、ゾッとするほど冷たかった。
歩きだそうとしたとき、ふいに息子が後ろを振り返る。それから小さく手を振った。
「……またね」
#君と見た景色
十日前、昔の友達が自殺した。
私は今、とある橋の上に立っている。
まわりを木々に囲まれた石造りのアーチ橋。そのすぐ下を、川幅の広い川が流れている。昨夜の大雨のせいだろう水位は高く、水は底が見えないほど茶色く濁っていた。橋と川の間は約二十メートル。転落したら、ほぼ助からない。
現に、彼女は水面に全身を強く打ちつけて即死したと考えられている。
死体は下流で発見された。目撃者の証言と、ここ一週間ほど思い詰めた様子を見せていたことから、事件性はなく自殺と断定された。
彼女の死を知ったとき、私は瞬間的に自殺だと思った。
私と彼女にとって、ここは思い出深い場所だった。
あの頃の私には夢も希望もなかった。死にたいワケでもなく、かといって生きたいワケでもない。うっかり足を滑らせてダンプカーの前に飛びだしても、頭上からいきなり鉄骨が落ちてきても、自分の悲運を嘆いたりしない――そんな、うっすらとした死への憧れを抱いていた。
彼女も同じだった。だからこそ仲良くなれたのだろう。
『いつか、ここでいっしょに死のう』
『私があなたの、あなたが私の背を押すの』
『そうすれば、死ねるでしょ?』
――けど、進学をきっかけに少しずつ疎遠になり、つい最近まで彼女のことを忘れていた。
とあるネットニュースで、久しぶりに彼女の名前を見かけた。あっさりとしたタイトルの小さな小さな記事。
私は手すりに手をかけ、ほんの少し身を乗りだし、下を覗きこむ。
そこには、いつか彼女と見た景色が広がっていた。
――これを、あの子は最期ひとりぼっちで見ていた。
「……悪いのは、そっちなんだから」
私は欄干の上から体を引き、そう言った。
彼女を記憶のすみっこに追いやった私でもなく、生きる意志が芽生えた私でもない、約束を破ってひとりで死んでいった――彼女こそ悪いのだ。
なのに、私の目からは熱い涙がこぼれていた。
#手を繋いで
だれかが私の手を握ってくるんです。子どものときから。
あっ、毎日じゃないですよ。ときどき。思い出したみたいに。
……どんなとき? えーと、見えないところに手を入れたときとか…… たとえばコタツに手を入れたら、自分の手が見えなくなるじゃないですか。そういう状況のときだと思ってもらえたら。
だから私、だれの手なのかわからないんです。確かめようとしたらすぐに引っ込んじゃうし……それに、その人たちの手もスベスベしてたりゴツゴツしてたり、冷たかったり温かかったり、小さかったり大きかったりいろいろで、人物像がいまいち思い浮かばないっていうか……え? 『その人たち』? あっ、はい、握ってくる人はいつも一人なんです。それも右手。そこまで力は強くなくて……うーん、握る、っていうより、包みこむ、って言葉のほうが正しいのかも。
たくさんいるんです。私と手を繋ぎたい人。
もちろん、初めは怖かったですよ。でも繋ぐ以外にナニかされたことなんてないから、いつのまにか慣れちゃって。今でも急にこられたらビックリしちゃいますけど。
………………。
…………。
……だから、こんなことになっちゃって、残念です。
ペットが死んじゃったときとか、
彼氏にフラれたときとか、
君はひとりじゃないよ。って励ましてくれている、そんな気がしたから。
……なのに、私の左手、なくなっちゃいました。
私の不注意なんです。気をつけていたつもりなのに。私、ハンドルの下のほうを握るクセがあるんです。そうすると視界に手が入らなくなるでしょう? それでハンドルを切り損ねちゃって……。
でも、今まで運転中に握ってきたことなんてなかったのになぁ。
#どこ?
コール音がぷつりと途切れる。
「なあ、今どこにいるんだよ?」
開口一番、おれは姉ちゃんに尋ねた。
キッチンでは母さんが夕飯の準備をしている。午後七時。部活ならとっくに終わっている時間だ。
「今日は鍋だから、母さんが早く帰ってこいってさ」
姉ちゃんのことだ、いつもみたいに友達とおしゃべりしているに違いない。おあずけを食らう身にもなってほしいものだ。
「…………?」
そこで、おれは首を傾げた。受話口の向こうからは何の声も返ってこない。聞こえてくるのは抑えたような息遣いだけ。
「姉ちゃん?」
一度スマホを下ろし、ディスプレイを見る。ちゃんと姉ちゃんの名前になっている。……それなら、どうして、何も答えないのだろう?
再びスマホを耳に押し当てる。受話口の向こうは不気味なほど静まり返っていた。押し殺すような呼吸が耳の細かな産毛をちりちりと逆立てる。
「おい、悪ふざけはやめろよ」
呆れ半分、怒り半分でそう言ったときだ。
「ただいま~」
突然、リビングのドアが開いた。
「ごめーん、遅くなっちゃった」
きまり悪げに笑いながら、姉ちゃんが母さんに謝っている。その手には学生鞄と——スマホが握られていた。
おれの耳には、だれかの吐息が聞こえ続けていた。
#大好き
「おいし~! シュークリーム大好き~!」
両手に大事に大事に包んだシュークリーム。クリームがこぼれないように慎重にかぶりつき、もぐもぐと口を動かして、ごくりと呑みこんでから、「さいこ~!」と高らかに叫ぶ。
喜びを噛み締める彼女の横顔を、ぼくは苦々しい思いで見つめていた。
一週間前は何とかというミュージシャンのライブに付き合って。
三日前は何がおもしろいのかわからないマンガを買って貸して。
今日はコンビニに立ち寄って、少しお高めのスイーツをおごってやった。
ぜんぶ彼女の『大好き』なものだ。けど『大好き』なものを与え続けるぼくに、『大好き』を与えてくれたことは一度もない。
彼女のいちばんの『大好き』をプレゼントできたら、もしかしたら……?
思い当たる人物が、ひとりだけ。
『大好き』なあの人の隣で食べる『大好き』なシュークリームのほうが、もっともっとおいしい。
――でも、
ぼくは手の中のシュークリームを見つめ、小さくかじる。クリームのとろけるような甘さとなめらかな舌触り。けど、ざらついた心を融かすにはまったく足りなかった。
……彼女のいちばんの『大好き』だけは、どうやら与えてやれそうにない。