NoName

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3/23/2025, 2:54:42 AM

♯bye bye…


 陽が落ち、辺りは薄闇に包まれていた。
 私はひと気のない道を小走りに走る。
 この頃、物騒な事件が増えた。息子の身に何もなければいいが――。
 ハアハアと息を弾ませながら公園に踏みこむ。
 すぐに息子は見つかった。小さな手をせっせと動かして、砂山を作っている。
 安堵して息子を呼ぼうとした次の瞬間、私の喉は凍りついた。
 ヘドロのようなぬめりを帯びたまっくろな塊が、息子のそばで蠢いていた。目も鼻も口も見当たらない。なのに、息をひそめてこちらを凝視している――私はそんな錯覚に駆られる。何かの腐った臭いがむっと鼻をついた。
 しかし。
「ぇ――?」
 瞬きをする合間に『それ』は消えていた。
 私は困惑して立ちすくむ。
「……おかあさん?」
 打たれたように我に返る。息子がきょとんとした顔で立っていた。私は幻覚を頭から振り払い、息子に駆け寄る。
「心配したじゃない、どうしてお友達と一緒に帰ってこなかったの?」
 つい咎めるような口調になる。友達の母親に聞くと、息子は「まだもうちょっといる」と言って、ひとり残ったらしい。
 息子は押し黙っている。気まずげに砂山を――いや、黒い塊があったところを見つめていた。
 私はすぅっと背筋が寒くなるのを感じた。急速に干上がっていく喉をごくりと鳴らし、急いで息子の手を取る。
 ただの気のせいよ、きっと。
「ほら、早く帰ろ」
「うん……」
 砂でざらついた息子の手は、ゾッとするほど冷たかった。
 歩きだそうとしたとき、ふいに息子が後ろを振り返る。それから小さく手を振った。
「……またね」

3/22/2025, 5:33:16 AM

#君と見た景色


 十日前、昔の友達が自殺した。
 私は今、とある橋の上に立っている。
 まわりを木々に囲まれた石造りのアーチ橋。そのすぐ下を、川幅の広い川が流れている。昨夜の大雨のせいだろう水位は高く、水は底が見えないほど茶色く濁っていた。橋と川の間は約二十メートル。転落したら、ほぼ助からない。
 現に、彼女は水面に全身を強く打ちつけて即死したと考えられている。
 死体は下流で発見された。目撃者の証言と、ここ一週間ほど思い詰めた様子を見せていたことから、事件性はなく自殺と断定された。
 彼女の死を知ったとき、私は瞬間的に自殺だと思った。
 私と彼女にとって、ここは思い出深い場所だった。
 あの頃の私には夢も希望もなかった。死にたいワケでもなく、かといって生きたいワケでもない。うっかり足を滑らせてダンプカーの前に飛びだしても、頭上からいきなり鉄骨が落ちてきても、自分の悲運を嘆いたりしない――そんな、うっすらとした死への憧れを抱いていた。
 彼女も同じだった。だからこそ仲良くなれたのだろう。
『いつか、ここでいっしょに死のう』
『私があなたの、あなたが私の背を押すの』
『そうすれば、死ねるでしょ?』
 ――けど、進学をきっかけに少しずつ疎遠になり、つい最近まで彼女のことを忘れていた。
 とあるネットニュースで、久しぶりに彼女の名前を見かけた。あっさりとしたタイトルの小さな小さな記事。
 私は手すりに手をかけ、ほんの少し身を乗りだし、下を覗きこむ。
 そこには、いつか彼女と見た景色が広がっていた。
 ――これを、あの子は最期ひとりぼっちで見ていた。
「……悪いのは、そっちなんだから」
 私は欄干の上から体を引き、そう言った。
 彼女を記憶のすみっこに追いやった私でもなく、生きる意志が芽生えた私でもない、約束を破ってひとりで死んでいった――彼女こそ悪いのだ。
 なのに、私の目からは熱い涙がこぼれていた。

3/21/2025, 4:49:50 AM

#手を繋いで


 だれかが私の手を握ってくるんです。子どものときから。
 あっ、毎日じゃないですよ。ときどき。思い出したみたいに。
 ……どんなとき? えーと、見えないところに手を入れたときとか…… たとえばコタツに手を入れたら、自分の手が見えなくなるじゃないですか。そういう状況のときだと思ってもらえたら。
 だから私、だれの手なのかわからないんです。確かめようとしたらすぐに引っ込んじゃうし……それに、その人たちの手もスベスベしてたりゴツゴツしてたり、冷たかったり温かかったり、小さかったり大きかったりいろいろで、人物像がいまいち思い浮かばないっていうか……え? 『その人たち』? あっ、はい、握ってくる人はいつも一人なんです。それも右手。そこまで力は強くなくて……うーん、握る、っていうより、包みこむ、って言葉のほうが正しいのかも。
 たくさんいるんです。私と手を繋ぎたい人。
 もちろん、初めは怖かったですよ。でも繋ぐ以外にナニかされたことなんてないから、いつのまにか慣れちゃって。今でも急にこられたらビックリしちゃいますけど。
 ………………。
 …………。
 ……だから、こんなことになっちゃって、残念です。
 ペットが死んじゃったときとか、
 彼氏にフラれたときとか、
 君はひとりじゃないよ。って励ましてくれている、そんな気がしたから。
 ……なのに、私の左手、なくなっちゃいました。
 私の不注意なんです。気をつけていたつもりなのに。私、ハンドルの下のほうを握るクセがあるんです。そうすると視界に手が入らなくなるでしょう? それでハンドルを切り損ねちゃって……。

 でも、今まで運転中に握ってきたことなんてなかったのになぁ。

3/19/2025, 3:11:53 PM

#どこ?


 コール音がぷつりと途切れる。
「なあ、今どこにいるんだよ?」
 開口一番、おれは姉ちゃんに尋ねた。
 キッチンでは母さんが夕飯の準備をしている。午後七時。部活ならとっくに終わっている時間だ。
「今日は鍋だから、母さんが早く帰ってこいってさ」
 姉ちゃんのことだ、いつもみたいに友達とおしゃべりしているに違いない。おあずけを食らう身にもなってほしいものだ。
「…………?」
 そこで、おれは首を傾げた。受話口の向こうからは何の声も返ってこない。聞こえてくるのは抑えたような息遣いだけ。
「姉ちゃん?」
 一度スマホを下ろし、ディスプレイを見る。ちゃんと姉ちゃんの名前になっている。……それなら、どうして、何も答えないのだろう?
 再びスマホを耳に押し当てる。受話口の向こうは不気味なほど静まり返っていた。押し殺すような呼吸が耳の細かな産毛をちりちりと逆立てる。
「おい、悪ふざけはやめろよ」
 呆れ半分、怒り半分でそう言ったときだ。
「ただいま~」
 突然、リビングのドアが開いた。
「ごめーん、遅くなっちゃった」
 きまり悪げに笑いながら、姉ちゃんが母さんに謝っている。その手には学生鞄と——スマホが握られていた。

 おれの耳には、だれかの吐息が聞こえ続けていた。

3/19/2025, 2:17:45 AM

#大好き


「おいし~! シュークリーム大好き~!」
 両手に大事に大事に包んだシュークリーム。クリームがこぼれないように慎重にかぶりつき、もぐもぐと口を動かして、ごくりと呑みこんでから、「さいこ~!」と高らかに叫ぶ。
 喜びを噛み締める彼女の横顔を、ぼくは苦々しい思いで見つめていた。
 一週間前は何とかというミュージシャンのライブに付き合って。
 三日前は何がおもしろいのかわからないマンガを買って貸して。
 今日はコンビニに立ち寄って、少しお高めのスイーツをおごってやった。
 ぜんぶ彼女の『大好き』なものだ。けど『大好き』なものを与え続けるぼくに、『大好き』を与えてくれたことは一度もない。
 彼女のいちばんの『大好き』をプレゼントできたら、もしかしたら……?
 思い当たる人物が、ひとりだけ。
『大好き』なあの人の隣で食べる『大好き』なシュークリームのほうが、もっともっとおいしい。
 ――でも、
 ぼくは手の中のシュークリームを見つめ、小さくかじる。クリームのとろけるような甘さとなめらかな舌触り。けど、ざらついた心を融かすにはまったく足りなかった。

 ……彼女のいちばんの『大好き』だけは、どうやら与えてやれそうにない。

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