#叶わぬ夢
私は明日、地元を発つ。小さい頃から抱き続けた夢を叶えるために。
病院へ赴き、しばらく会えなくなるだろう幼馴染みの病室を訪ねる。
彼女は先天性の心疾患を持っていた。高校に入ってからも長期入院を繰り返し、ついに友達を作れないまま卒業を迎えた。人並みの生活を送れない、人並みの夢も語れない、かわいそうな子。
「――必ず、会いにいくよ」
今にも折れそうな彼女の手に手を添え、声に力を込める。
簡単に行き来できる距離じゃない。それでも、私は宣言する。医師として彼女を治してやれないなら、友人として彼女の心の支えになろう。そう心に決めたのだから。
彼女は見開いていた目を和ませ、くしゃりと微笑った。今にも泣き出しそうな、いたいけな笑顔だった。ベッド脇の棚を見やり、そこに置かれたクロッキー帳を引き寄せる。絵を描くこと――それが、彼女の唯一の趣味。恒例の披露会。
私は彼女の絵が好きだ。幸せとは言えない身の上でありながら、それでも温かく優しい絵を描き続ける彼女という人が好き。
ほっそりとした白い指が最後のページを開く。
そこには、光と躍動に満ちた彼女の世界が広がっていた。
「……タイトルはないの」
彼女の言葉に、私は右下を見る。たしかに何も書かれていない。
「まだ決めてないってこと?」
「本当はあったんだけど……」彼女は語尾を濁し、控えめに微笑う。「決めるのは、もう少し先でもいいかなって」
そっかと答えて、私はクロッキー帳に目を戻す。
綿飴がぽっかりと浮かんだ空の下、二人の女の子が青々と生い茂った草原を駆けていた。彼女たちを遮るものはなく、小さな手と手を繋いで走り続ける。――二人一緒なら、どこまでも行けるというように。
#花の香りと共に
あの子が佇んでいる日はいつも花の香りがする。
ふんわりと立ちのぼる甘い匂いに、私は教科書から顔を起こした。
上品な優しい香り――梅の香り。
時計に目を向ける。針は二十二時を指していた。
少し迷ったものの椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄る。カーテンの端をそっとつまんだ。
眼下には、砂利を敷きつめた庭が広がっている。
そこに、女の子がひとり佇んでいた。
白梅模様の着物を身につけた同年代くらいの女の子が、家のほうに背を向け、後ろへ首を反らしている。――宙に浮かんだ何かを見つめるかのように。
花の香りと共に女の子が姿を見せるようになったのは去年の暮れ、私が十五歳の誕生日を迎えた頃だ。お父さんも、お母さんも、兄貴も、女の子のことを知らない。家の中にただよう梅の香りにさえ、気づいていない。
不思議なものだと思う。窓を閉め切っているはずなのに。そもそも梅の木なんて無いのに。
もしかしたら――と、私は思いを馳せる。
遠い遠い昔、あそこには梅の木が植えられていたのかもしれない。
そこで、あの子は何か悪いことに巻きこまれてしまったのかもしれない。
はたと、我に返る。女の子から無理やり視線を引き剥がし、急いで窓辺を離れた。机の上を手早く片付けて明日の準備をする。今日はもうおしまいだ。
何も知らないほうがいいんだ。今の私は、この家の誰よりもあの子に近い。
どうしてなのかわからない、わからないけれど、私はあの子を恐いと思えなかった――いや、むしろ。
部屋の明かりを落とし、頭から布団をかぶる。ぎゅっと手足を縮こませ、瞼を閉じた。だけど、なかなか寝つけなかった。
花の香りが薄らいできた頃、私はようやく深い眠りについた。
#心のざわめき
「この前、鏡を拾ったんです」
「靴下履いたまま寝ちゃいました」
「うっかりハシゴの下くぐっちゃって」
――縁起が悪いなあ。
ぼくは心の中でそっとこぼす。
彼女は軽やかなステップで、鼻唄を歌いながら前を歩いている。
ザワザワとさざ波を立てるぼくの心の声なんて、ちっとも聞こえちゃいない。聞いちゃいない。
「あっ」
突然、彼女が立ち止まる。
彼女は地べたの、ある一点を見つめていた。
ぼくは後ろから覗きこむ。
黒猫がいた。
今にも駆け出しそうな姿勢のまま、ニンゲンたちを睨みつけている。
どうやらそこの角から飛び出してきたらしい。
――ああもう、縁起が悪い。
ぼくが肩をすくめた瞬間、黒猫はパッと消えてしまった。
彼女が肩越しに振り返る。憎たらしいくらいのとびっきりの笑顔。
「黒猫ですねえ」
ぼくは口をへの字に曲げる。
「黒猫だなあ」
「不吉、ですかね?」
「絶対、不吉」
「心配しすぎですよぉ」
ちゃんと聞こえていたんだ。ぼくの心のノイズ。
「なら、心配かけさせるようなこと、するな」
彼女はきゃらきゃらと弾けるように笑って、
「ものは考えようっていうじゃないですか」
私にとっては幸運を知らせてくれるものばかりです。
そして、再び軽やかなステップを踏み出した。
#君を探して
「おにいちゃん、おにいちゃん、トニーがいない」
ぼくはため息をつくと、コントローラーを持ったまま振り返る。弟が絵本を小脇に抱えて立っていた。小さな握り拳と、固く強ばったマシュマロみたいなほっぺ。
「なんだって?」
「トニーがいないの」
「だから?」
「いっしょにさがして」
ぼくはテレビに顔を戻した。
「イヤだ」
「どうして? トニーがきらいなの?」
弟の声が涙で滲む。
ぼくはふんと鼻を鳴らして、
「嫌いだ。あいつの顔を見ているとイライラする」
冷たく言い放つと、弟は火のついたように泣きだして、「ママー!」とリビングを出ていった。
弟は今、『トニー君を探せ』という絵本に夢中になっている。何十人、何百人というキャラクターの中から、たったひとりのトニー君を探す——そんな苦行に付き合わされて、ぼくの目はしょぼしょぼだ。
だれが探してやるもんか。
ぼくはコントローラーを握り締めると、ぐっと身を乗り出してテレビを睨みつけた。