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#心のざわめき


「この前、鏡を拾ったんです」
「靴下履いたまま寝ちゃいました」
「うっかりハシゴの下くぐっちゃって」

 ――縁起が悪いなあ。
 ぼくは心の中でそっとこぼす。
 彼女は軽やかなステップで、鼻唄を歌いながら前を歩いている。
 ザワザワとさざ波を立てるぼくの心の声なんて、ちっとも聞こえちゃいない。聞いちゃいない。
「あっ」
 突然、彼女が立ち止まる。
 彼女は地べたの、ある一点を見つめていた。
 ぼくは後ろから覗きこむ。
 黒猫がいた。
 今にも駆け出しそうな姿勢のまま、ニンゲンたちを睨みつけている。
 どうやらそこの角から飛び出してきたらしい。
 ――ああもう、縁起が悪い。
 ぼくが肩をすくめた瞬間、黒猫はパッと消えてしまった。
 彼女が肩越しに振り返る。憎たらしいくらいのとびっきりの笑顔。
「黒猫ですねえ」
 ぼくは口をへの字に曲げる。
「黒猫だなあ」
「不吉、ですかね?」
「絶対、不吉」
「心配しすぎですよぉ」
 ちゃんと聞こえていたんだ。ぼくの心のノイズ。 
「なら、心配かけさせるようなこと、するな」
 彼女はきゃらきゃらと弾けるように笑って、
「ものは考えようっていうじゃないですか」 
 私にとっては幸運を知らせてくれるものばかりです。
 そして、再び軽やかなステップを踏み出した。

3/16/2025, 4:49:35 AM