NoName

Open App

#花の香りと共に


 あの子が佇んでいる日はいつも花の香りがする。

 ふんわりと立ちのぼる甘い匂いに、私は教科書から顔を起こした。
 上品な優しい香り――梅の香り。
 時計に目を向ける。針は二十二時を指していた。
 少し迷ったものの椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄る。カーテンの端をそっとつまんだ。
 眼下には、砂利を敷きつめた庭が広がっている。
 そこに、女の子がひとり佇んでいた。
 白梅模様の着物を身につけた同年代くらいの女の子が、家のほうに背を向け、後ろへ首を反らしている。――宙に浮かんだ何かを見つめるかのように。
 花の香りと共に女の子が姿を見せるようになったのは去年の暮れ、私が十五歳の誕生日を迎えた頃だ。お父さんも、お母さんも、兄貴も、女の子のことを知らない。家の中にただよう梅の香りにさえ、気づいていない。
 不思議なものだと思う。窓を閉め切っているはずなのに。そもそも梅の木なんて無いのに。
 もしかしたら――と、私は思いを馳せる。
 遠い遠い昔、あそこには梅の木が植えられていたのかもしれない。
 そこで、あの子は何か悪いことに巻きこまれてしまったのかもしれない。
 はたと、我に返る。女の子から無理やり視線を引き剥がし、急いで窓辺を離れた。机の上を手早く片付けて明日の準備をする。今日はもうおしまいだ。
 何も知らないほうがいいんだ。今の私は、この家の誰よりもあの子に近い。
 どうしてなのかわからない、わからないけれど、私はあの子を恐いと思えなかった――いや、むしろ。
 部屋の明かりを落とし、頭から布団をかぶる。ぎゅっと手足を縮こませ、瞼を閉じた。だけど、なかなか寝つけなかった。
 花の香りが薄らいできた頃、私はようやく深い眠りについた。

3/17/2025, 12:23:37 AM