気がつくと、俺は公園のベンチに座っていた。頭上で風に吹かれた葉っぱが、内緒話をするようにさわさわ音を立てる。その隙間から射すあたたかな陽光に目を細めた。
ふいに砂利を踏む足音がして目を向ければ、男が立っている。紺色のポロシャツに、少し褪せたジーンズを履いた男は、「よっ」と片手を上げた。俺も軽く手を上げて応えた。
「今日もあついなあ」なんて言いながら、男は俺の隣に腰を下ろす。
「アイスでも買ってきたらよかった」
男はつぶやいた。その横顔を、俺はぼんやりと眺める。あついだなんだとか言っているわりに、男は汗ひとつかいていない。
ふと俺の爪先に何かが当たった。視線を下げると、青色のボールが落ちている。転がってきたほうに視線を向ければ、数メートル先で、小学生くらいのちいさな男の子がちらちらとこちらを窺っていた。
隣の男は横からボールを拾い上げ、のんびりした声で「いくよー」と言った。飛んだボールは宙でゆるく弧を描き、男の子の細い両腕のなかにぽすりとおさまった。
男の子はちょっと恥ずかしそうに「ありがとう」と言うと、こちらに背を向け、向こうで待つ友達の元に駆けていった。
隣で、穏やかに笑う声が聞こえる。なにとはなしに、俺は隣の肩口にもたれかかった。
「なに、眠いの?」
肩に緩く手を回された。かすかな重みが心地良い。
「ずっとこうしてたいな」と、男がぽつりと言った。そうだな、と言いたかった。だけどやっぱり声が出なくて、あきらめる。
見ることができる。聞くことができる。ふれることができる。だけど決まって、声を発することはできないのだ。だから言いたいことの一欠片も、俺は伝えることができない。こんなにも近くにいるというのに。
もうすぐ醒める。そんな気がする。今日もまた、何も言えなかった。夢が醒める前に、少しでも伝えたくて、その手にそっと指を重ねた。
【テーマ:夢が醒める前に】
「この世界は不条理だ」
ぼそりとつぶやいた男の目は、どんよりと暗く沈んでいる。放っておけば今に呪詛でも唱えだしそうだったから、俺は仕方なく話を聞いてやることにした。ソファの隅っこでコンパクトに体育座りしている同居人の隣に腰を下ろし、「なにがあった?」と尋ねる。
「裏切られた」
「だれに?」
「今朝、電車でおばあちゃんに席を譲ったんだ」
「へえ。えらいじゃん」
「ありがとねえって言われた」
今のところただのイイ話だ。ここからどう転べば、闇堕ちした主人公みたいなセリフを吐くまでに至るのだろう。
「今日は仕事が早く終わったから、俺は駅前のパン屋に寄ろうと思った。無性にあそこのメロンパンが食べたい気分で」
「あー。ふわふわでうまいよな」
「うん。俺は鼻歌まじりにパン屋に入店した」
ご機嫌な奴だと思いながら「うん」と相槌を打つ。
「メロンパンはラスト一個だった。よっしゃラッキーと思って取ろうとしたら、同じタイミングで横からトングが伸びてきて」
「おお」
「咄嗟に見たら、それは今朝俺が席を譲ったおばあちゃんその人だった」
おばあちゃん再登場。なかなかにアツい展開だ。
「目が合って、向こうも俺だってわかったみたいで」
「おー」
「今朝はありがとねえなんて言われて、俺はいえいえとか返して」
「素敵じゃん」
「挨拶もそこそこに、おばあちゃんは『じゃあまたね〜』ってレジに向かっていった」
「うん」
「俺はメロンパンに視線を戻した。すると」
「……」
「メロンパンは、跡形もなく消えていた……」
怪談の大オチみたいなトーンで、同居人は言った。それきり、沈黙が落ちる。話はここで終わりらしい。
「怖いな」
俺は率直な感想を口にした。同居人は膝を抱えて「マジで怖い」と言った。
「俺さ、思わずそのおばあちゃんの方を見たんだよ。そしたらおばあちゃん、真顔で俺を見つめてた」
「それはどういう感情なんだ」
「わからん。俺にはもう何もわからん」
「おまえはなんにも言わなかったの?」
「言えないだろ、さすがに」
俺はおまえに席譲ったんだから、おまえは俺にメロンパン譲れよ。などと言ったら、そのおばあちゃんはどんな顔をするのか気になった。
【テーマ:不条理】
病室のドアを勢いよく開ければ、「うおっ」と驚いたような声がした。ベッドの上に横たわった志島が、目を丸くして俺を見ている。
「びっくりした。そっと開けろよ」
「…………」
肩で息をしながら病室の入り口に突っ立っている俺に、志島は「大丈夫?」と言った。俺が「は?」と返せば、志島は「いや、顔真っ青だから」と言った。この状況で他人の心配をする奴があるかと思ったが、そんなツッコミを入れる余裕はなかった。
頭に巻かれた包帯と、頬のガーゼ。それから瞼の上の赤い生傷が痛々しい。口角を上げたら傷口が引き攣れて痛いだろうに、そいつは俺の顔を見て、あはは、と笑った。
「あんた、なんて顔してんだよ」
そう言ってからおもむろに上体を起こそうとするので、俺は慌てて駆け寄って「ばか、起き上がるな」とその両肩を押さえた。
「安静にしとけ」
「なんだよ。抱きしめてよしよししてあげようと思ったのに」
志島は不満げに唇を尖らせながらも、おとなしく枕の上に頭をおさめた。
いつもの軽口を叩けるくらいには回復しているようだ。そう思ったらふっと力が抜けて、その場に崩れ落ちそうになった。眼前の男に悟られないよう、足に力を込める。
「……調子は」
「いい感じー。ピンピンしてるよ。俺よりあんたのがよっぽど死にそうだけど」
揶揄うようにほっぺたを指先でつついてくる。「やめろ」と引き剥がそうとして掴んだ手首から手のひらに、たしかな体温が伝わってきた。数時間前に触ったときは、ぞっとするほど冷たかったのに。
志島の手にふれた自身の指先が小さく震えていることに、今気づいた。我に返ってぱっと手を離したが、志島にはきっとバレてしまっただろう。その証拠に、俺を見上げるその顔はにやにやしている。
「なに、泣いてんの?」
「うるさい。泣いてない」
「そうかそうか。大好きな俺のことが心配で心配で泣いちゃったか」
「だから泣いてねえ!」
思わず声を荒らげた瞬間、今度はほっぺたをむにっとつままれた。
「はい、病院内ではお静かに」
「…………」
どこまでいっても憎たらしい。お前みたいな奴なんかのために泣いてやるものか。不覚にもうっすら張っていた涙の膜を、俺は乱暴に拭い去ったのだった。
【テーマ:泣かないよ】
星座占いを見ながらコーヒーを啜っていたら、がらりとリビングのガラス戸が開く音がした。俺はテレビ画面を見たまま「おはよ」と言ったが、いつもと違って、寝ぼけた声の「おはよ」が返ってこない。
不思議に思って視線を向ければ、廊下から顔の半分をのぞかせた同居人が、俺をじとりと睨んでいた。まるでホラー映画のワンシーンのような構図である。
「……どした? なんか怖いんだけど」
俺は言った。すると同居人は低い声で「それはこっちのセリフだ」と言った。どう考えても俺のセリフだろと思いつつ、俺は「どういうこと?」と尋ねた。
「お前さ、俺が怖いのダメって知ってるだろ」
「知ってるけど」
「じゃあ夜中にリビングでホラー映画流すのやめろ」
同居人は恨めしげに言った。
俺の趣味は映画鑑賞である。金曜日の夜になると、俺はひそかに祭りを開催する。サブスクで前から気になっていた作品を片っ端から観まくる。そのまま観続けて朝になっていることもあれば、いつのまにかソファで寝落ちしていることもある。
ちなみに昨夜は後者のパターンだ。中盤くらいまで観たところで、睡魔に負けた覚えがある。そしてこいつの言う通り、それはたしかにホラー映画だった。
が、だから何だというのか。今のところ、こいつにクレームを言われる筋合いはない。
「お前が寝た後に観てるんだからべつにいいだろ」
俺が言い返すと、同居人は眉間の皺を深めて「全然よくない」と言った。
「夜中にトイレ行こうと思って前通ったら、ドア越しに見えちゃったんだよ! 血まみれの女が大画面で……うっ……」
話しながら思い出したのか、同居人はぶるりと身震いした。
「とにかく、お前のせいで俺は結局トイレに行けず、膀胱がパンパンのまま朝を迎えた」
「……」
「今回はギリ間に合ったけどさ、もし俺が漏らしてたらお前、どう責任とるつもりだったわけ?」
どう、と言われても。そもそも俺の責任なのか? 寝る前に麦茶をがぶ飲みしていたお前にも非はあるし、第一、いい大人が怖くてトイレに行けないっていうのはどうなんだ。
「よって、今後この家の中でホラー映画を観ることを禁止する。いいな?」
同居人はびしりと言った。一度こうなってしまったら梃子でも動かないことを知っているから、俺はため息をついて「はいはい」と返してやった。
「そんなのどうでもいいから。朝飯食お」
「は? 今どうでもいいって言った?」
「言ってない言ってない」
「適当すぎる!」
同居人は喚いた。朝っぱらから騒がしい奴だと呆れながら、俺はふたたびマグカップに口をつけた。
【テーマ:怖がり】
はいこれ、と差し出されたのは、青いリボンでラッピングされた、手のひらサイズの小さな箱。
「なにこれ」と訊けば、白石はにっこり笑って「ハッピーホワイトデー」と言った。
「はあ?」
「いいからちょっと開けてみて」
わけがわからず顔をしかめる俺に、白石は箱を押し付けてくる。俺は怪訝に思いながらも受け取って、リボンをほどき、箱を開けてみた。
中にぴったり収まっていたのは、ハート型のチョコレートだった。上には溢れんばかりのスターシュガーが散らばっている。見るからに甘ったるそうなそれを見下ろし、俺はふたたび「なにこれ」と言った。
「何ってチョコだよ。見りゃわかるだろ」
「そうじゃなくて……これお前が作ったの?」
「うん。お前のために夜なべして作った」
「なんで」
「ホワイトデーだから」
「ホワイトデーは昨日だ」
「あれっ、そうなの? 今日だと思ってた」
今日だと思っていたんだとして、なんでお前が俺のためにチョコを作って渡すんだ。もちろん俺は、こいつにバレンタインチョコを贈った覚えなど一切ない。
「ホワイトデーって、バレンタインに貰ったチョコのお返しをする日なんじゃないのか」
「そうだけど」
「俺はお前に何もあげてない」
「でもほら、俺ってこういうイベントには積極的にあやかってくタイプじゃん?」
知らねえよ。そんなにあやかりたいならその辺の女と交換こでもしとけ。そう言いたくなったが、交換こできる相手がいるならそもそも、こんな奇行に走るはずもない。モテない男の末路がコレかと思うと、なんだか可哀想になってきた。
ため息をついてから、仕方なく「わかったよ、食べてやる」と言えば、白石はぱっと表情を明るくした。
「食べて食べて。隠し味は俺の愛情♡」
「食欲失せるからやめろ」
気色の悪いことを言ってくる男を軽くあしらって、ふたたび手元を見下ろす。星がたっぷり乗っかった、ハートのチョコレート。これを作ったのが可愛い女の子だったなら、喜んで食べたのに。
人の気も知らず、生産者は嬉しそうにニコニコしている。なにがそんなに楽しいんだか。変な奴。
【テーマ:星が溢れる】