おさしみ泥棒

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3/14/2026, 8:27:01 PM

 私を見つめる両の瞳は安らかで、花を慈しむように優しい。香帆は時折、私にこんな視線を向けてくる。そのたび私はどうしてか、ちょっとドキドキしてしまうのだった。

 香帆は小学校からの幼馴染だ。高校生になったいまも、こうして定期的に会っている。
 待ち合わせは、いつもの喫茶店。香帆は決まってコーヒーを注文する。ブラックを好んで飲む香帆は、とても格好いい。いつもオレンジジュースばかり飲んでいる自分が子どもっぽく思えて、少し恥ずかしい。
 ランチを食べながら、おしゃべりに花を咲かせる。たくさん話して、ちょっとひと息ついたところで、香帆はふいに言った。

「日和といるときが一番おちつく」

 静かに微笑む香帆の双眸は、まっすぐに私だけを捉えている。昼下がりの陽光を透かした茶色い虹彩は、とてもきれいだ。
 ああ、まただ。私ったらなんでこんなにドキドキしてしまうんだろう。わからない。わからないけれど、今はまだ、わからないままでいい。わからないままがいい。なんだか、そんな気がした。

【テーマ:安らかな瞳】

3/12/2026, 2:19:45 PM

 うちのクラスには、美しいひとがいる。それはもう絵に描いたような美少年だ。名前は瀬川くんという。

 もちろん、そのへんにいくらでも落ちている石ころみたいな私が、高嶺の花である瀬川くんに話しかけるだなんて、そんな大それた真似はできない。
 けれどもこうして彼の姿をじっくり眺めることができるのは、後ろの席の特権だ。自分の苗字が「瀬木」であることに感謝しなければならない。どうかこのまま1年間席替えすることなく、出席番号に則った席順であり続けますように。そんなことを、私は切に願うのだった。

 そんなわけで、私は今日も今日とて、特等席にて瀬川くんの鑑賞に勤しんでいる。
 後ろ姿を見ているだけでも目の保養になるなんて、何事だろう。それほどまでに、瀬川くんを形づくる線は繊細で美しい。さらさらの黒髪と色白いうなじのコントラストに、つい見とれてしまう。
 授業の内容はそっちのけで、脳内でそんな実況を繰り広げていたとき。私はふと、"それ"の存在に気づいてしまった。

 首の付け根のあたり。シャツの襟で見えるか見えないかの微妙なところに、ちいさなほくろがあるのを見つけたのだ。
 それが目に入った瞬間、私は妙にどきりとした。心臓が早鐘を打ち始めて、なんだか胸のなかがふわふわする。どうしてか私はいま、見てはいけないものを見てしまったような感覚に陥っていた。
 ぽつんと小さく在るそれは、彼が生きた人間であることの証のようで。もちろん瀬川くんは紛れもなく人間なのだけど、なんだかときどき不安になってしまうのだ。それは、ふれたら消えてしまう淡雪の儚さとよく似ている。

 きっと、後ろの席の私しか気づいていない。ひょっとしたら、瀬川くん本人も気づいていないかもしれない。首の付け根に、ちいさなほくろがあること。
 私しか知らない、瀬川くんのこと。ひどくちっぽけで、取るに足りないことでも、なんだか嬉しかった。それからどこか甘やかで、少し切なかった。
 この気持ちはなんだろうと考える前に、たしかに感じたその淡いときめきを、私はそうっと大切に、心の奥にしまったのだった。

【テーマ:もっと知りたい】

3/12/2026, 9:12:15 AM

 平穏な日常は、思いのほか呆気なく終わりを迎えるものなんだなと、ぼんやり思った。この期に及んで、まだ当たり前に明日が来るような気がしている。今日で世界は終わるというのに。

 店は軒並みシャッターを閉め、通りに人の姿はない。既に人類が滅亡した後なんじゃないかと錯覚してしまうほど、あたりは閑散としている。やはり最期の最期くらいは皆、大切な場所で、大切なひとと共に、ゆっくりとひそやかに終わっていきたいのだろう。
 けれども俺のようなやつは、孤独感に押しつぶされないよう、ひとり街に出て彷徨い歩くしかない。だれか、片時でもそばにいてくれる体温を探して。

 数年前、地球滅亡の未来を知った人類の阿鼻叫喚ぶりが嘘のように、世界は終焉を受け入れている。どんな研究を、技術を、祈りをもってしても、運命に抗う術はない。できるのはただ、死を待つこと。そんな受け入れがたい真実が明かされたおかげで、ずいぶんと人が減ってしまった。

 だからこうして、ふらっと外に出向いてみても、誰ともすれ違うことができない。心もとなさを抱えながらトボトボ歩いていれば、ニャーンと鳴き声がして、足元に黒い毛玉が擦り寄ってきた。
 俺はしゃがみこんで、痩せた黒猫を撫でた。首輪の鈴がちりんと鳴る。人こそいないが、飼い主を失った犬や猫は、たまにこうして外をうろついている。

「お前もひとりぼっちか」

 そんなセリフを吐きながら猫を撫で回していると、ふいに背後から声が飛んできた。

「クロ! こんなとこにいたのかよ!」

 振り向けば、そこには若い男がひとり立っていた。見たところ、俺と同じくらいの年代だ。
 目が合って、俺はなんとなく会釈した。すると男は人懐っこい笑みを浮かべて「ああ、どうもどうも」と近寄ってくる。

「それうちの猫なんですよ」
「あ、そうなんですか」
「はい。朝起きたらいなかったから、今までずっと探してたんです」

 走って探し回っていたのか、男は額に滲んだ汗を拭いながら言った。それから駆け寄ってきた猫を抱き上げると、俺に向かって「見つけてくれてありがとうございます」と言って、また笑いかけた。

「いや、俺は何も」

 ナデナデしてただけです。そう答えれば、男はそうですかと言いながら、やっぱりくすくす笑った。俺もつられて、少し笑った。
 ふいに男が、思い出したように「そういえば、今日で終わりですね」と言った。

「そうですねえ」
「時間、あとどれくらいかな」
「さあ、どうだろう」

 そんな会話をしながら、ふたり並んで、なにとはなしに空を見上げる。そうして俺は、ふと思いついて、口を開いた。

「あの、終わる前に、名前を聞いてもいいですか?」
「え? 僕のですか?」
「はい。猫ちゃんは、クロですよね」
「あぁはい、この子はクロです」

 よいしょ、とクロを抱き直して、男は言った。

「そんで僕が、ユウっていいます」
「ユウさん」
「はい。優しいって書いて、ユウ」
「いい名前ですね」
「へへ。あなたはなんていうんですか?」
「俺はハルです。季節の春」
「ああ僕、季節は春が一番好きです」
「そうなんですか」
「はい、桜が好きで。あー、最期に見たかったなぁ」

 中身のない言葉を交わして、笑いあう間にも、終わりは迫る。もうすぐ終わる。
 ユウさんの腕の中で、クロが大きくあくびをした。俺とユウさんは、顔を見合わせて笑った。血のように赤く染まった夕焼け空の下で。

【テーマ:平穏な日常】

3/10/2026, 11:47:54 AM

「顔死んでるよ」

 そんな言葉とともに、脳天に軽く手刀を落とされた。じろりと睨み上げると、男は「こわーい」なんて言ってへらへら笑った。

「そんな顔すんなよ。笑顔えがお」
「…………」
「ほら、合言葉はラブアンドピース」

 とかなんとか言いながら、俺の隣に腰を下ろす。平気で肩が触れる近さに座る神経が理解できない。こいつのパーソナルスペースはどうなってんだと思いながら、直ちにひとり分の距離をとった。
 不快感丸出しの俺の態度などまったく意に介さず、隣の男は上機嫌に鼻歌を歌いながら、なにやらスマホを操作している。てっきり上に報告しているのかと思ったが、よく見れば、画面には焼肉屋のサイトが表示されていた。『人数』の項目に『2』が打ち込まれたのを見て、俺は「おい」と言った。

「それ、何してる」
「ん? 焼肉屋の予約とってる」
「なんで」
「なんでって、打ち上げ」

 パーッとやろうぜ、などと言って、俺の背中をばしりと叩いてくる。

「俺は帰って寝る」
「えー、打ち上げしようぜ。うまい肉食えば、おまえの表情筋も生き返るよ」
「…………」
「焼肉食ってるときってさ、ほんと幸せだよな。おれホルモンがいちばん好き」

 わかっていたことだが、やはりこいつは正気じゃない。普通の人間だったら、"アレ"を見たあとに焼肉を食おうなんて思わない。ましてやホルモンなんかもってのほかだ。
 さっき見た光景が脳裏をよぎって、俺は咄嗟に口元を押さえた。酸っぱいものが込み上げてくる感覚に眉をひそめる。男はそんな俺を見て、薄っぺらい笑みをはりつけたまま「大丈夫?」と言った。細められた目の奥には、深い闇が在る。
 なにが「ラブアンドピース」だ。さっきから頬に返り血をべったりくっつけている人間が言っていいセリフじゃないだろ。
 そういう俺の手にも、赤黒い血がこびりついている。狂っているのは、俺も同じだ。吐き気とひどい目眩のなかで、俺は力なく笑った。

【テーマ(?):愛と平和】

3/9/2026, 12:07:50 PM

 写真にうつるのはあまり好きじゃないのだと言っていた。どうしてと訊けば、千秋は笑って、魂が抜かれるからだよと答えた。
 自分は撮られるのが嫌いなくせに、ひとにはカメラを向けてくる。私は特に明治時代の思想なんかは持ち合わせていないので、そのたびにピースをして、キメ顔をつくるのだが。一緒にうつろうよと言っても、千秋はいつだって、「俺はいいよ」と返す。
 千秋は基本的に、私のわがままを受け入れてくれる、優しい彼氏だ。けれども自分が写真にうつることだけは、穏やかに、しかし頑なに拒む。「へんなの」と思うけど、まあ、嫌だと思うことなんて人それぞれだものね。そんなふうに自分を納得させるのだった。

 ある夜、千秋はコンビニに行くと言って家を出たきり帰ってこなくなった。
 連絡はつかず、心当たりのある人や場所をあたっても、行方は依然としてわからない。警察に行方不明届を出して見つからないまま、もう二年になる。
 千秋に家族はいない。だから、帰る場所は私のもと以外にない。他に女でもいたのかと考えたりもしたが、どうしても、そうは思えなかった。思いたくないという気持ちも、もちろんあるけれど。
 千秋が私に向ける目、ふれる体温と、名前を呼ぶ声。それらのどれをとっても、彼は私を、きっとだれよりも大切に想っていた。とんだ自惚れ女だと嗤われようが、私は心からそう信じている。

 過ぎ去った日々を思い起こそうと、カメラロールを遡るけれど、一枚だって彼の写真は残っていない。千秋はたしかに、そこにいたはずなのに。
 最初から、いなくなるつもりだったのではないかと思う。たとえば死期を悟った猫が、静かに姿を消すように。そうして誰の目にもつかないところで、ひっそりと息を引き取るように。
 そう思い当たったのには、わけがある。いつか千秋が言っていたのだ。死に場所を探しているのだと。
 なんでもない日の朝、トーストにジャムを塗りながら、千秋は静かに、けれどもたしかにそう言った。
 私はどきりとした。けれども私がなにか言う前に、彼が「なんてね」と笑ったので、ほっとして、もうやめてよ、と返した。
 ただの冗談だと思いながらも、しばらく心臓がどくどくうるさかったのは、前々から無意識に、不安を感じていたからだろう。彼はどこか、不確かで危うかった。ふっと音もなく消えてしまいそうで。
 それに、私は覚えている。あのとき、彼の双眸がわずかに翳ったことを。思えばあれが、分岐点だったのかもしれない。
 あの朝の食卓で、寂しそうに笑った彼を、一滴の雫のようにこぼれ落ちた告白を、ちゃんと手のひらで、受け止めていれば。千秋はいまも、私の隣にいたのだろうか。

【テーマ:過ぎ去った日々】

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