俺がマスクを外すと、いつだって思い詰めたような顔をする。けれども決して目を逸らさない。
たいていの人間は、肉色の生々しい傷跡と、引き攣れた頬の皮膚を見れば、顔に嫌悪をにじませて視線を逸らす。もしくは好奇の目で、じろじろと観察してくるのが常だ。
この傷を前にして、まるで自分の痛みのようにひどく苦しげに眉を寄せるのは、この男だけである。いっちょまえに罪を引き受けたような顔をするから、つい笑ってしまいそうになる。
馬鹿なやつだと、つくづく思う。もう十数年も前の出来事に、いつまでも囚われている。まあ、逃げられないように足枷を嵌めているのは、ほかでもない俺なんだけど。
あれは事故だった。咄嗟に庇ったのは俺の判断なのだから、べつにお前が気に病む必要はない。そう言ってやればいいんだろうが、あいにく俺はそこまでお人好しじゃない。
むしろ、ちょうどいいと思った。お前がだれかのものになるくらいなら、俺はお前の傷になる。骨の髄まで抉るような、とびきり深い傷痕に。
なんでもよかった、お前の心を繋ぎ止めることができるなら。いびつな形の絆でもかまわない。一生消えない傷を抱えるように、一生俺の隣にいてね。
【テーマ:絆】
⚠︎ちょっと長め⚠︎
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「あの、すみません」
ふいに頭上から声が降ってきた。顔を上げれば、見覚えのある青年が、こちらを見下ろしている。
基本的に彼とは、週に一回のペースで顔を合わせている。けれども、名前は知らない。なぜなら、そのコンビニで働く店員の名札には、名前が書かれていないからだ。いわゆるカスハラ防止のためなのか、"スタッフ"とだけ表記されている。
ちなみに俺は、心の中で彼を勝手に「ねむい君」と呼んでいる。いつも眠そうな目をしているから。
今日も変わらず、ねむい君は眠たげだ。いつもと違う点といえば、ねむい君の着ている服がコンビニの制服ではなく、ラフなパーカーであること。それから、ここが夜のコンビニではなく、夜の公園であること。
コンビニ以外の空間でねむい君と会うのは初めてだった。ついでに、ねむい君の口から「いらっしゃいませ」「袋いりますか」「〇円になります」「ありがとうございました」以外の言葉を聞いたのも初めてだ。
俺は毎週金曜日は必ず、仕事帰りにコンビニに寄ると決めている。そうして、自分へのささやかなご褒美として、チョコ味のアイスを買うのだ。それを食べながら駅まで歩くのが、俺のルーティンである。
俺の「いつもの金曜日の夜」を構成するもののうちの一つが、ねむい君。俺がアイスを買いにコンビニに寄れば、レジに立っているのはだいたい彼だった。
けれども先週から、そうじゃなくなった。先週の金曜日、いつものように自動ドアを通り抜け、なにとはなしにレジのほうに目を向ければ、なんとそこには、金髪のギャルが立っているではないか。
俺の金曜日から、突如としてねむい君が消えたのだ。代わりにギャルが現れた。
どうやら、ねむい君はバイトをやめたらしい。見たところ大学生くらいの年代だから、課題やら就活やらが忙しいのかもしれない。
俺とねむい君は、会計のやりとり以外の会話をしたことがない。ねむい君のほうが俺を認知しているかどうかもわからない。だからべつに、いなくなって寂しいとか、そんな感情は特にない。
ただ、違和感はある。一夜にして、黒髪のけだるげな青年が、ウニみたいな睫毛をした金髪ギャルになったから。
慣れないなと思いながら、今日もアイスを買った。元気な「ありがとうございましたー」を背中に浴びつつ、コンビニを出た。そしてふと、足を止めた。やわらかな夜風が頬を撫でて、なんだか春の兆しを感じたのだ。このまま電車に乗って、ひとり暮らしの寂しいアパートにまっすぐ帰るのが惜しくなった。
ほのかな心の浮つきに身を任せて、俺はちょうど目に入った公園に入った。片隅の小さな木を見上げると、街灯の光に照らされて、枝の先で淡いピンクが小さく咲いているのが見えた。俺は近くのベンチに腰を下ろして、アイスの袋を開けた。声をかけられたのはその瞬間だった。
彼の顔を見て、俺は思わず「ねむい君」と言ってしまった。ねむい君が不思議そうに目を瞬いたのを見て、俺はハッと口元を押さえた。
「あ、いや、今のは……」
「ネムイクンって俺のことすか」
「いやその、いつも眠そうだから……」
目を泳がせながらも答えると、ねむい君は「ああ、よく言われます」と言った。気を悪くしている様子はなく、ひとまず安心する。
「すみません、なんか、変なあだ名」
「大丈夫です。俺もあんたのこと、チョコアイスソムリエって呼んでたんで」
「ええ!? そ、そうなの?」
彼がこちらを認識していたことも意外だったが、まさか知らないうちにソムリエにされていたとは。
「あの、君は……」
「ねむい君でいいですよ」
「……ねむい君は、バイトやめたの?」
この際だから訊いてみたら、ねむい君は「はい」とうなずいた。やっぱりやめたのか。
「でも心残りがあって」
「心残り?」
「はい。ソムリエさんにずっと言いたかったことがあるんです」
「えっ、俺に?」
「やめる前に言おうと思ったんですけど、結局言えなくて……だけどやっぱり言いたかったから、今日、バイトやめたのに来ちゃったんです」
「お……俺に何かを伝えるために?」
「はい」
ねむい君はふたたびうなずく。そこまでして俺に言いたかったことって、いったい何なんだ。なんだか怖くなってきた。
「な……何を伝えようと……?」
「ソムリエさん」
ねむい君はがしりと俺の肩を掴んだ。ぐいっと近づいた顔が端正だったから、思わずちょっとだけドキッとした。
「このチョコアイスの、ホワイトチョコバージョンって食べたことあります?」
俺の目をまっすぐに見つめ、真剣なトーンで、ねむい君は俺にそう尋ねた。
「え……? 」
「ありますか?」
「え、いや、な……ない、けど」
狼狽えながら答えると、ねむい君はちょっと目を伏せて「そうですか」と言った。
「そ、それが何か?」
「……俺、そのホワイトチョコ味が、この世で一番好きなんです」
「そうなんだ……」
「もうほんと、美味すぎて、初めて食ったとき涙出ました。今はこのアイス作ってる会社に就職したいと思ってて」
「そ、そうなの」
「ホワイトチョコ味の美味さ、ソムリエさんは知ってるのかなって、ずっと思ってて」
たしかにこのアイスは美味い。ねむい君ほどまではいかないけれど、俺も毎週欠かさず買って食べるくらいには、このアイスの虜になっている。
俺は小さい頃から、気に入ったものだけを飽きるまで繰り返し食べるタイプの人間なので、ミルクチョコレート味の隣のホワイトチョコレート味はまったく眼中になかった。
それを彼は、ずっともどかしい気持ちで見ていたのだろう。このおっさんは、ホワイトチョコ味の美味さを知らないのかもしれない。知らずに人生を終えるなんてもったいない。教えてあげたい。
そんな思いで、バイトをやめたにもかかわらず、彼は俺に伝えに来てくれたのだ。俺はそのことに感動して、泣きそうになってしまった。毎朝満員電車に揺られ、上司には理不尽に怒鳴られ、部下には舐め腐られる。そんな灰色の日々の中で、ねむい君の奇妙な情熱とやさしさが、やけに胸に染みた。
そういえば俺は、これに似た感覚を知っている。まだ入社して間もない頃にミスをして、ひどく落ち込んでいたときだ。なんとなく立ち寄ったコンビニで、チョコアイスを買ってみた。くちどけのよいやさしい甘さがじんわりと染み入って、俺は夜道で少し泣いた。
俺はどうもおかしなノスタルジーとセンチメンタルによってうっすら滲んできた涙をこっそり拭って、笑ってみせた。
「ねむい君、ありがとう。たまにはホワイトチョコ味も食べることにするよ」
「ほんとですか」
「ああ。ソムリエを名乗るからにはね」
俺がそう言うと、ねむい君は嬉しそうに笑った。笑うとけっこう可愛いんだなと、ぼんやり思った。
【テーマ(?):たまには】
「ねえ、三好って俺のこと好き?」
出し抜けにそんなことを訊かれた。俺はスマホの画面に目を落としたまま「わかんない」とだけ答えた。
「わかんないはダメ」
「知らない」
「知らないもダメ」
「存じ上げない」
「じゃあソリティアと俺ならどっちが好き?」
俺が今ソリティアに夢中で、話を聞く気がまるでないことを察したようだ。俺はちょっと考えてから「まあ、お前だな」と答えてやった。すると吉野は、たいそう嬉しそうに「えっ、マジで!」と声を上げた。
「なんだ、断然ソリティアかと思った」
「ソリティアは最近ハマってるだけで、そんなに好きでもないからな。テトリスとお前だったら、断然テトリスだよ」
「テトリスには負けんのかよ俺……」
吉野はがくりと肩を落とした。しっぽを振って喜んだかと思えば、次の瞬間にはしゅんと落ち込む。忙しい奴である。
気を取り直して、というように手を叩いてから、吉野は「じゃあさ」と口を開いた。
「ハンバーグと俺は?」
「まあ、お前かな」
「ステーキと俺は?」
「お前だな」
「フライドチキンと俺は?」
「お前」
「おまっ……ツンデレかよ〜!?」
今度はニヤけながら、肘で俺を小突いてくる。鬱陶しい。俺はなおも画面から目を離さないまま、その腕を押し返した。
「お前俺のこと好きすぎじゃね?」
「言っとくが、俺は肉より魚派だ」
「え?」
「お前より鯖味噌と寿司と天ぷらが好き」
嬉しそうにニヤニヤしてるところ悪いが、お前など鯖味噌の足元にも及ばない。もしも海で同時にこいつと鯖味噌が溺れてたら、俺は迷わず鯖味噌のほうを助けるだろう。
「なんだよ、俺は三好のことけっこう好きなのに」
吉野は唇を尖らせて不貞腐れながら言った。
「へえ。じゃあ祝日と俺、どっちが好き?」
「三好」
「えぇ、まじで?」
「まじだよ。せっかく祝日で休みでも、お前がいないならつまんないしな」
「……焼肉と俺だったら?」
「三好」
「…………」
「三好って肉焼くの上手いしな。お前と食べるのが一番……」
「わかった。わかったからもう黙れ」
何なんだこいつは。よく、そんな小っ恥ずかしいセリフを言えるな。完全に素でやっているぶん、たちが悪い。俺はようやく画面から目を離して、隣の男をじとりと睨んだ。目が合うと、吉野は笑った。
「つまり俺はお前がだーいすきってことだな」
「気色悪い。『大』を伸ばすな」
「三好は俺のこと?」
「……嫌いじゃないことはない、こともない」
「んん? それどっち?」
馬鹿で助かった。
【テーマ:大好きな君に】
呆然と立ち尽くす俺を振り向いた同居人は「あ、おかえり〜」と笑った。
同居人の手の中のものを指差して「なんだそれは」と訊けば、同居人は「雛人形だけど」と答えた。見たらわかるでしょとでも言いたげな様子だ。あまりにも当然のような顔をしているから、一瞬、おかしいのは俺の方かと錯覚しそうになる。
いや、どう考えてもおかしいのはこいつだ。だって成人男性のふたり暮らしの家に、雛人形があるはずがない。
「そんなんどっから持ってきた」
「メルカリで買った」
「なんで買った」
「せっかくのひなまつりだし」
スーパーで売ってるひなあられが美味しそうだったからつい買っちゃった、とかいうのはまあ、まだわかる。クリスマスに「せっかくだから」と言ってチキンやケーキを食べる、みたいなものだ。
けれどもこいつの「せっかく」は意味がわからない。クリスマスのノリで雛人形を買う奴があるか。あと、メルカリで売ってる雛人形って、なんかわからんけどちょっと怖い。
「こんなもん買ってどうすんだ」
「女の子の健やかな成長を祈る」
「気色悪っ」
「ひどいな、お前の分も買ってやったのに」
ほら、と言って、もう一体の雛人形を渡される。なんで俺の分があるんだよ、いらねえよ、と言いたくなったがそれよりも、俺は恐ろしいことに気づいてしまった。
「いやお前これ、三人官女!?」
「そうだよ」
「なんでお雛様とお内裏様じゃねえんだよ!?」
「お雛様とお内裏様のセットより、三人官女のセットのほうが安くてお得だった」
同居人はそう答えてから、こっちに残りの奴いるよ、とダンボール箱からもう一体取り出した。
俺はもはや、こいつが怖い。三人官女だけをメルカリで買う意味がわからない。普通、主役の二人を買うだろ。もしくは全員セットになってるやつを買えよ。いやそもそも雛人形自体を買うなよ。馬鹿野郎。
【テーマ:ひなまつり】
顔を上げたら、ガラスに雫が伝っていた。いつのまに降り出したのだろう。文庫本を置いて、窓の外を眺める。鉛色の空から糸のように細い雨がさあさあ降り注ぎ、眼下の街には色とりどりの傘が咲いている。
思い返してみればたしかに、朝の時点でなんだか物憂げな空模様だった。折り畳み傘でも持っていくべきだったかもしれない。
とにかくこれでは帰れない。どうしたものかと考えながら、カップに口をつける。本はたった今読み終えてしまった。コーヒーも残り少ない。このままここで雨がやむのを待つのは、少々退屈だ。
俺は少し迷った末に、鞄からスマホを取り出した。アプリを開いて、メッセージを打ち込む。
『傘を持ってきてほしい。駅前の喫茶店』
送ってから数秒で既読がついた。さすがだなと感心する。彼はいつも、メッセージに気づくのが早い。
それからすぐに、敬礼しているゴリラのスタンプが送られてきた。『了解』ということだろうか。彼はこのシリーズのスタンプをよく使う。気に入っているらしい。
それにしても、頼もしい。やはり持つべきものは、傘を忘れたときに駆けつけてくれる同居人だ。
普段なら面倒臭がりそうなものを、二つ返事で承ってくれたから、少し驚いた。俺が家を出るときは、ソファにだらしなく寝転んでテレビを見ていたのに。
もしかして何か見返りを期待しているのだろうか。そこまで考えて、合点がいく。さては俺に何か奢らせるつもりだな。食い意地の張っている彼にとっては、喫茶店というのが魅力的だったのかもしれない。クリームソーダにナポリタン、サンドイッチ、カレー。いったい何を要求してくるだろう。
そうなれば仕方がないから、一品くらいご馳走してやろう。わざわざ傘を届けてくれるのだから。
もしかしたら、食べている間に降りやんでしまうかもしれない。それはそれでいいだろう。雨上がりの、洗いたてのような世界が好きだ。虹でも見れたら万々歳。空をうつした水たまりを避けながら、彼と並んで帰るのもまあ、悪くはない。
【テーマ:物憂げな空】