誰もがみんな、少なからず消し去りたい過去を抱えているものだ。日常のふとした瞬間にそれらを思い出して、たまらず奇声を発したり、ベッドの上をのたうち回ったりすることは多々ある。
いやいや、みんなはそれほど他人のことを気にしていない。あなたが恥ずかしいと思っていることも、周りからすれば取るに足らないことだろうし、きっと誰も覚えちゃいないよ。もう一人の自分が、そんなふうにやさしく語りかけてくる。それもそうだなと、私は無理やり納得する。
忌まわしき過去はさっさと思考の外に追いやって、おいしいものでも食べることにしよう。確か冷蔵庫にケーキがあった。苦々しい記憶も、甘ったるい生クリームでまるごと上塗りしてしまえばいい。
ショートケーキは幸福の味がする。ひとくち食べれば、なんだかどうでもよくなった。どんなに恥ずかしい過去があろうが、今この瞬間はおいしいケーキを食べて幸せを感じているのだから、結果オーライ。
むしろ「恥さらし上等」の気持ちで生きたほうが健全なのかもしれない。過ぎたことを気に病んでクヨクヨするよりは。
そうは言っても、やはりクヨクヨせずにはいられないのが私という人間だ。きっとこの先も、過去の自分の痛々しい言動を思い出すたびに発狂しては、発作のようにケーキを喰らう日々を繰り返すのだろう。
コージーコーナーに足繁く通い、自宅の冷凍庫の引き出しを保冷剤でパンパンにする。それが「生きる」ということだと、私は思う。
【テーマ:誰もがみんな】
「ちょっとこれ見てください」
向かいに座った真田さんにスマホの画面を見せると、真田さんは素直に顔を上げた。
俺がチョイスしたのは、猫がキュウリにびっくりする動画だった。俺はわくわくしながら真田さんの反応を盗み見たが、彼は依然として真顔のままである。
やがて「これ何ですか?」と聞いてきたので「猫がびっくりする動画っす」と答えたら、至極興味のなさそうな「へえ」が返ってきた。
「面白くないですか?」
「面白いっていうか、びっくりしました」
「びっくりするんすか?」
「猫がこう、急にびよーんってなったから」
一応、そこがこの動画のおもしろポイントではあるんだが、どうやら真田さんのツボにはハマらなかったらしい。結果、今日も今日とて、俺のチャレンジは失敗に終わった。
最近の俺の挑戦。それは、バイト先の先輩・真田さんを笑わせること。
真田さんの素性は謎めいている。店長は適当な人で、真田さんについて聞いてみても「普段なにやってんのかはよく知らない」とのことだった。
年の頃は二十代後半。細身で、銀のフレームの眼鏡をかけていて、どことなく神経質そうな印象がある。口数は少なく、表情もあまり変わらない。何を考えているのかいまいちわからないし、休憩が被ったときは会話が続かなくて気まずい。そういう理由で、俺は正直、真田さんのことが苦手だった。
けれども最近、ある出来事をきっかけに、真田さんを見る目が変わった。
先月、同じく先輩である森さんが、みんなにおはぎを配っていた。なんでも森さんは料理が趣味らしく、おはぎを手作りしたものの、うっかり作りすぎてしまったらしい。
俺は喜んで貰って、さっそく休憩時間に食べることにした。ラップを剥がしながら、なにとはなしに向かいに座った真田さんをちらりと見ると、ちょうど真田さんもおはぎを食べているところだった。
勝手なイメージで、真田さんは人の手作りが無理なタイプだと思っていた。意外だなと思いつつ見ていると、視線を感じたのか、真田さんもこっちを見た。目が合って、なぜか焦った俺は、咄嗟に真田さんに向かって「おいしいですか」と尋ねた。
真田さんは目を瞬いてから、ちょっとはにかんで「おいしいですよ」と言った。その唇には少しだけあんこがついていた。
そのとき俺は、真田さんの笑顔を初めて見た。真田さんって笑うんだ。おはぎを食べて「おいしい」とか言うんだ。俺はなんだか無性に感動して、それ以来、ちょくちょく真田さんに話しかけるようになった。真田さんは、相変わらず無愛想ではあるけれど、話しかければそれなりに答えてくれた。
あのときの笑顔をもう一度見たい一心で、渾身のすべらない話を聞かせたり、変顔をしてみたり、ネットで見つけたおもしろ動画を見せたりするのだが、真田さんは一向に笑わない。
他の人に聞いてみると、真田さんが笑っているところを見たことがある人は一人もいないのだという。つまり、真田さんの笑った顔を知っているのは俺だけ。
そんなSSR笑顔を引き出したくて、俺は日々奮闘している。明日はどんな手を使おうか。自転車で帰路を辿りながら、あれこれと考えを巡らすのだった。
【テーマ:スマイル】
さっきから、仏頂面で黙りこくっている。見かねた俺がわざと明るい調子で「いつまでへこんでんだよ」と声をかければ、青木は食い気味に「うるさい」と吐き捨てた。
「自分だけいい気になりやがってクソが」
「別になってないけど」
「いやどっからどう見てもなってんじゃん」
大層な荒れ具合だ。先程の合コンにて、俺と青木の身長差を見た女の子が放った「なんか時計の長針と短針みたい」という一言が、相当堪えたらしい。そのときは場の空気を壊さないように振る舞っていたが、解散して俺と二人きりになった矢先のこれである。
小学校からの友人である俺だから知っているが、低身長いじりは青木の中で地雷中の地雷である。例えば高一のとき、青木は身長のことをいじってきたクラスメイトをぶん殴って停学になった。
小さいけれども中身は凶暴な青木とは反対に、俺は背丈ばかりでかい小心者だ。気弱な性格と無駄に目立ってしまう見てくれが災いして、ガキ大将に絡まれることも多々あった。そのたびに、なぜか俺を庇ってくれるのが青木だった。
正直、青木が低身長と馬鹿にされるのは、自他ともに認めるノッポである俺と一緒にいるせいもあると思う。今日の一件なんてまさにそうだ。
俺とセットで身長をいじられるたび、青木はこんなふうに俺に文句を言うけれど、それでもなんだかんだ、俺と一緒にいることをやめようとしない。
あるとき、一度だけ「俺といるの嫌じゃないの」と尋ねてみたことがある。青木は怪訝な顔で「なんで一緒にいるの嫌な奴とラーメン食いに来てんだよ」と言ってから、替え玉を頼んでいた。それもそうかと思って、それ以来、特に気にすることもなくなった。
「だいたいさ、顔は俺のほうがイケメンだからな。お前は身長高いだけで顔は普通だから」
「はいはい。もうそれでいいです」
「おいその余裕ある感じ腹立つからやめろ」
キャンキャン吠えるチワワのようだ。口に出したら殴られるから言わないけど。
青木のいいところが、身長ごときで損なわれるなんてことはないと思う。女の子の目は揃って節穴だ。
本当に見る目のある女の子が青木の前に現れるまでは、青木の隣は俺の特等席ということになる。それはほんの少しだけ気分がいい。絶対、言えないけど。
【テーマ:時計の針】
「好きです」
ちょうど、ハンバーガーに食らいつこうと大口を開けた瞬間だった。向かいに座った彼が言った四文字を頭の中で処理するのに、丸二十秒かかった。私はちょっと迷った末に、手に持ったハンバーガーをしずしずとトレーの上に置いてから「え?」と聞き返した。
「あなたが好きなので、つき合ってくれませんか」
岸くんは私の目をまっすぐに見て、はっきりとそう言った。そんな彼の鼻の頭には、バーベキューソースがついている。指摘するべきだろうか。いや、告白をされたそばから「鼻にソースついてますよ」と言うのは、いささか失礼すぎるのではないか。
というか、どうして今なんだろう。ここはシンデレラのお城の前でも、花火大会の会場でもない。駅ナカのファーストフード店だ。
私と岸くんは、同じ文芸サークルに所属している。好きな作家が同じだったから、わりとすぐに仲良くなった。
その作家の作品が映画化されたということで、岸くんは一緒に観に行こうと誘ってくれた。私はもちろん快諾した。
映画はとても面白かった。感想を語り合いながら映画館を出て、そろそろランチにしようかと入ったハンバーガーチェーン。
ハンバーガーをひとくち食べて飲み込んでから「それにしてもあのシーンはさ」なんて言おうと思っていた。その矢先に、岸くんがあの四文字を言ったのだ。
ポテトが揚がったことを告げる軽快なメロディをBGMに、私たちは見つめ合う。岸くんはじっと、私の言葉を待っているようだった。鼻先にソースをつけたまま、神妙な面持ちで。
「えっと……今?」
私はとりあえず、正直に思ったことを口にした。すると岸くんは「うん、それは俺も思った」とうなずいた。言った本人も、私と同じ気持ちだったらしい。
「本当はもう少しいい感じの場所で、言おうと思ってたんだけど」
岸くんはちょっと照れくさそうに目を伏せた。
「ハンバーガーを両手で持ってる田川さんを見てたら愛おしくなって」
「…………」
「気づいたら気持ちが溢れてた」
ハンバーガーを両手で持っている私を見て、岸くんは「愛おしい」と思ったらしい。たしかにハムスターなんかが小さな両手でひまわりの種を食べている姿は愛おしいけれど、私は人間である。「愛おしい」と思う要素は一体どこにあるのだろうか。
けれども思い返せば、かく言う私も、岸くんに対して愛おしさにも似た感情を抱いたことが何度かあった気がする。
たとえば、チャックが半開きになっているリュックを気づかずに背負っている後ろ姿。教室で眠たげにあくびをする横顔。お気に入りの本について語るときは、いつもより少しだけ早口になるところ。それから、鼻先にソースをつけたまま大真面目な顔をしている、今この瞬間の彼のことも。
取るに足らない、ちいさな愛おしさが積み重なり、やがて溢れ出す。恋ってそういうものなのかもしれない。ハンバーガーの匂いに包まれながら、齢十九歳にして、私は春を知ったのだった。
【テーマ:溢れる気持ち】
今日はツイてない。俺は深くため息をついてから、Yシャツの袖をまくった。躊躇っていても仕方がないので、腹をくくってトイレブラシを手に取る。
まず「床のモップがけと便器掃除、それぞれどちらが担当するか」をじゃんけんで決めることになった。その結果、俺はパーを出し、佐倉はチョキを出した。ただでさえ、トイレの掃除当番というだけで憂鬱なのに、俺は便器磨き担当になってしまった。
モップ担当の佐倉が、さっきから上機嫌に口笛を吹いているのが腹立たしい。けれども俺がパーを出した事実は変えられないので、俺は黙って便器をこする他なかった。
と、ふいにムカつく口笛がやんだ。と思ったら佐倉は「そういえばさあ」と切り出した。
「尾上ってさ、アレしたことあるの?」
「アレってなに?」
「だからアレだよアレ。人間と人間がさ、口と口をこう、合わせるやつ」
「……え、キスのこと?」
「そう。Kissのこと」
「なんだよそのキモい言い方」
便器を磨く手を止めて「何急に?」と聞けば「いいから答えろよ。あるの、ないの」と返ってくる。いったい何なんだ、藪から棒に。
「いやまあ、ないけど」
「あーやっぱりね」
「やっぱりってなんだよ失礼だな」
「予想どおりって感じ」
「てかお前はどうなの。したことあんの?」
「……ま、ね。ないけど、俺も」
「ねえのかよ。何なんだよお前」
まじで何なんだ。キスをしたことがないことを、互いに発表し合っただけの時間。
「いやさ、どんな感じなんかなぁと思って」
「……何が?」
「Kissが」
「だからやめろってその言い方」
「なんか一説によると、キスの感触ってマシュマロに似てるらしい」
思春期か。いやまあ、17歳は思春期か。
とにかく真面目に聞く価値はないと判断して、俺はトイレ掃除を再開する。
「俺たちってさ、やっぱキスの感覚も知らないまま死んでいくのかな?」
「おい『俺たち』ってなんだよ。一緒にすんな」
「いや一緒だろ。俺ら目くそ鼻くそだよ」
カチンときて、俺は手に持ったブラシをスイングした。飛び散った水に、佐倉は「ぎゃあ」と悲鳴を上げて飛び退いた。
「お前っ……やっていいことと悪いことがあんだろ!」
「お前が先に喧嘩売ってきたんだろうが」
「ああ!?」
佐倉はモップを放り出して、俺に掴みかかろうとしてきた。すかさず応戦しようと一歩踏み出した瞬間、うっかり濡れたところを踏んでしまって、ずるりと足が滑った。勢い余って、佐倉を巻き込んで倒れ込む。
「…………」
「…………」
下敷きにした佐倉と目が合う。佐倉は、呆然とした顔で俺を見ていた。しばらく見つめ合ってから、佐倉は「尾上」と口を開いた。
「俺らさ、やっぱ一生Kissできないよ」
「……そうだな」
俺は素直に認めた。トイレで取っ組みあった挙句に、二人揃って床にすっ転んでいる奴らに、そんな甘酸っぱい青春がもたらされるはずがない。そう思ったらなんだかどうでもよくなって、さっきまでの怒りが嘘のように、心が凪いできた。
「なんかごめん、佐倉」
「……いや、俺の方こそ言い過ぎた。ごめん」
タイルに倒れたまま、俺たちは謝罪し合った。そして、どちらからともなく笑った。
その日、俺たちはたしかに、本当の親友になったのであった。
【テーマ:Kiss】