カーテンの隙間から、細い月明かりが射し込んでいる。暗い部屋の中、ベッドに座ってその一縷の光線を見つめていたら、後ろから名前を呼ばれた。
「なつきちゃん」
みずいろの金平糖のような、それは可愛らしく澄んだ声だ。振り向こうとした私の両目を、つめたい手のひらがそっと塞いだ。いよいよ真っ暗で何も見えなくなる。感じるのはただ、背後にいるさゆきの気配。それから、彼女の袖口から香る甘い匂い。
もういちど、耳元で「なつきちゃん」と名前を呼ばれた。なあに、と返事をしたら、さゆきは嬉しそうにふふ、と笑った。
なつきという名前は、さゆきから貰った。
「わたしが冬だから、あなたは夏。あと、夏の花が似合いそうだから」
ちょっと安直かなあと言うから、私は慌てて首を横に振った。そんなことない、気に入った。私が言うと、さゆきはやっぱり嬉しそうに笑うのだった。
夏の花が似合うだなんて、生まれて初めて言われた。周囲の人間たちからは醜いと蔑まれ、手酷く扱われてきた人生だった。さゆきだけが唯一、私の痣だらけの手をとって、やさしく握ってくれたのだ。
さゆきは過去の私を殺してくれた。そうして、新たに命を与えてくれた。なつき、という名前をもって。
私を縛りつけるものの一切を捨てて、随分と遠くまで来た。自分の足でこんなにも遠いところまで行けるなんて、知らなかった。全部さゆきが教えてくれた。
「このまま朝が来なかったらいいのに」
そんな言葉が口をついて出た。だって、心からそう思うのだ。いまの私は、きっと世界でいちばん幸せな女の子だ。幸せなまま眠りについたなら、いつまでも安らかな夢に身を浸していられる。
けれども、ふたりで地中深くに埋めた「秘密」が掘り起こされるのは、恐らく時間の問題だろう。甘い夢はもうすぐ覚めてしまう。
明日で世界が終わるなら、永遠になれるのに。私の言葉に、さゆきは「本当にね」と笑ってから、目隠ししていた両手を外して、後ろから私を抱きしめた。それから、耳元でささやいた。
「このまま眠っちゃおうか、わたしたち」
背中に伝わる体温と、心臓の鼓動を感じながら、私は静かに息を吐いた。
【テーマ:明日世界が終わるなら……】
あ、やっちまった。二本分の缶コーヒーをレジに置いたところで、はたと気づいた。けれども、時すでに遅し。店員はすでにバーコードを読み取っていた。それから機械的なトーンで「316円です」と言った。
すみません一本返します、なんて今さら言えないから、仕方なく二本分の料金を払う。覇気のない「ありがとうございましたー」を背に受けながら、俺はコンビニを後にした。
何だかな、と思いながら、停めていた車に乗り込む。余った一本をドリンクホルダーにさして、もう一本のプルタブを引いた。缶を呷って、漆黒の液体を喉に流し込む。
コーヒー買ってくると言ったら、あいつは決まって「ついでに俺のもよろしく」と言う。そんなふうにひとを平気でパシるうえに、俺がブラックを買ってきたら、ぶつくさ文句を言ってくる。ミルクが入ってるのが好きなんだと。知るかよ。てかコーヒー代返せ。
あいつが助手席にいないのは、随分と快適だ。もう、あいつのくだらないおしゃべりに付き合わされることもない。コーヒー代を踏み倒されることもない。最後の一本の煙草を、勝手に吸われることもない。
まさかそんな日が来るとは思わなかった。どうしてか、あいつが隣にいる日々が、この先もずっと続くような気がしていた。だから未だに慣れない。明日にでも、ひょっこり帰ってくるような気さえしている。
ぽつりと音がして、顔を上げた。まばらに降りはじめた細い雨が、フロントガラスを濡らしていく。雨音に耳を澄ました。静かな夜は、まるで永遠のようだった。
【テーマ:耳を澄ますと】
「まるで楽園だなあ」
男は恍惚とした声音で言った。
奥まった路地裏は薄暗いうえに狭苦しい。ペトリコールに交じった血の臭いが鼻をつく。視線を落とせば、足元のアスファルトには赤黒い水たまりが広がっていた。その源流は、さっきから白目を剥いて地面に転がっている。しゃがみこんだ男は、もう動かないソレを見下ろして楽しそうに笑った。
「いい顔してるね、このひと」
どこがだよ、と思ったが、ツッコむ気力も起きない。こんな仕事さっさと終わらせて、家帰って風呂入って寝たい。
「おい、どーでもいいから帰んぞ」
そう声をかけると、男は顔を上げた。頼りなく明滅を繰り返す街灯の下、いつもの薄ら笑いを浮かべて俺を見る。頬に軽くはねた返り血も相まって気味が悪い。はーい、と返事をして、男は立ち上がった。
「僕も帰〜ろおうちに帰ろ〜……の続きってなんだっけ、歌詞思い出せねえ」
「…………」
「いやあ、今日も楽しい1日だった。な、今日こそ打ち上げ行くだろ?」
「行かない。帰って寝る」
「はあ、相変わらずノリ悪いなあ。そんなんじゃモテないぞ〜、わははは」
笑いながら、ばしばしと背中を叩いてくる。久々の仕事でだいぶキマっているようだ。こいつが変なのはいつものことだが、今日はいつにも増してテンションがおかしい。
俺にとっちゃ、この世は楽園どころか地獄そのものだ。こんな腐った世界に生まれ落ちたことは、呪い以外の何でもない。けれどもこいつはきっと、それを祝福と呼んで笑うのだろう。どうかしている。
はたまた、狂わなければ生きていられないのだろうか、この男も──ふとそんなことを思い、上機嫌に鼻歌を歌う男を、俺は横目でちらりと盗み見た。
【テーマ:楽園】
塗りつぶしたような青の中、ひこうき雲がまっすぐに尾を引いている。長いひこうき雲は雨が降る前兆だと聞いたことがあるが、本当だろうか。嘘であってほしい。なぜなら俺は今日、傘を持っていないから。
そんなことを考えながら空を眺めていると、突然「何見てんの?」と声をかけられた。振り向くと、坂井が立っている。
「ひこうき雲。長いなって思って」
「ふーん」
聞いてきたわりに、まったく興味なさそうな反応が返ってきた。坂井は俺の隣に腰を下ろして、さっそく買ってきた焼きそばパンの袋を開けた。傍らにはコロッケパンとメロンパンとカレーパンも置いてある。どんだけ食うんだコイツと思いながら、俺も保冷バッグから弁当箱を取り出した。
「坂井、おまえ今日傘持ってきた?」
「持ってねーけど。なんで?」
「このあと雨降るかも」
「まじ? こんなに晴れてんのに?」
坂井は天を仰いだ。それから「あっ、鳥」と言って上空を指差した。
「トンビかな」
「うわ、俺らのメシ狙ってんじゃね?」
絶対渡さねえ、と言って、坂井は半分の大きさの焼きそばパンを無理やり口に押し込んだ。
「おい、喉つまらすなよ」
俺の言葉に、リスみたいに口をパンパンにした坂井はぶんぶん首を縦に振った。食い意地ばかり張った幼馴染に呆れつつ、俺はぼんやりと、空をゆるやかに旋回するトンビを見つめた。
鳥は自由でいいなあなんて、ふと思った。我ながらありきたりで薄っぺらい考えだ。鳥には鳥の苦労があるんだろうし。
けれど、もしも俺の背中に翼があったなら。今すぐにでも、この屋上から飛び立ってしまえるのに。そう思わずにはいられない。
毎日弁当を作ってもらっているから。高い学費を払ってもらっているから。塾にも通わせてもらっているから。だから、母さんの期待に応えないといけない。
そう思うのに、ときどき、どうしようもなくなる。風に乗ってどこまでも飛んで、空の果てに消えてしまいたくなる。
「鳥はいいよな」
俺はぼそりとつぶやいた。焼きそばパンを飲み込んで、コロッケパンに手を伸ばそうとしていた坂井が「え?」と言った。
「空飛べて、自由だし」
「…………」
坂井はちょっと目を瞬いてから「うーん、じゃあ」と言って、俺を見た。
「今度俺らで出てみるか」
「ん?」
「鳥人間コンテスト」
「…………」
「人間だって頑張れば飛べるんだぜ」
すげーよなあ、と言いながら、坂井はコロッケパンの袋を開けたのだった。
【テーマ:風に乗って】
「なんか今日、星多くね?」
助手席の男は、窓にほっぺたをくっつけながら言った。「お前も見ろよ」と言われて、フロントガラス越しの空を一瞥する。「今日星多くね」と言われても、俺には夜空の星を数える習慣がないので、いまいちピンとこない。
「なあ、あれってかみのけ座かな?」
男は空のどこかを指さして言った。俺は眠気覚ましのガムを噛みながら「わからん」と答えた。視界を共有してるわけじゃないんだから、"あれ"と言われてもわからない。星座を探そうと思って、いちばんに"かみのけ座"をチョイスするのも不気味である。そんな星座があることを、いま初めて知った。
「12星座って何を基準に選ばれてんのか知らんけど、かみのけ座が含まれてなくて良かったよな」
「なんで?」
「だってほら、プロフ帳の星座の欄に"かみのけ座"って書くの、なんか嫌だろ」
「プロフ帳って、お前は女児か」
成人男性の口から"プロフ帳"という言葉が出てくることなんてあるのか。
「やっぱさ、プロフ帳に書くならカッコいいのがよくね? 射手座とか天秤座とかさ」
「センスは中学2年生だな」
「てかお前って何座だっけ?」
「…………」
唐突に訊かれて、俺は口を噤んだ。このまま無視して運転に集中しようかと思ったが、横から「ねえ何座?」「なんで無視すんの?」「ねえねえねえ」などと、あまりにもうるさい。俺は観念した。
「…………乙女座」
正面を見つめたままなるべく堂々と答えたつもりだったが、それがなんか逆にダサかったかもしれない。隣の男は半笑いで「えっ」と言った。
「乙女座? お前乙女座なの?」
「そうだけど」
「そんなイカつい顔してるくせに?」
「星座に顔は関係ない!」
俺がそう言い放つと、男はいっそうおかしそうに声を震わせた。
「いやまあ、そうだけど。全然いいんだけど」
「……お前な、なんか人のこと馬鹿にして楽しそうだけど。そっちは何座なんだよ」
「俺? 蠍座だけど?」
男は勝ち誇ったように言った。無性に腹が立ったので、俺は「なんか蠍って足多くてキモいよな」と言って反撃に出た。
「は? 蠍カッコいいだろ」
「全然カッコよくない。毒あるし」
「毒あるのがカッコいいんだろ!」
星空の下で車を走らせながら、俺たちはおよそ成人男性とは思えない喧嘩を、小一時間繰り広げ続けたのであった。
【テーマ:星空の下で】