「あっ、ネコ」
染谷はそう言って足を止めた。つられて視線の先を見れば、塀の上でぶち猫が尻尾を揺らしている。
首輪をしていないが、野良だろうか。まるまると太っているし、毛並みもいいから、たぶんこのあたりに住んでいる人たちに可愛がられているのだろう。染谷が手を伸ばしても逃げない。顎の下を撫でられて、気持ちよさそうに目を細めている。
こちらを振り向いて「お前も撫でろよ」と言う染谷に「俺はいい」と首を横に振った。
「制服に毛がつく」
「えー。こんなにかわいいのに」
染谷はそう言うが、このふてぶてしい豆大福みたいなフォルムの猫をかわいいとは思えない。そもそも、俺は生粋の犬派である。
デブ猫を撫でくりまわしている染谷を白々と眺めながら、例えば、と思う。もしも俺が四足歩行で、三角の耳が生えていて、ニャーと鳴く生き物だったなら。その手で頭を撫でてもらえるのだろうか。
あまりに馬鹿馬鹿しいないものねだりだ。自分で自分に呆れて、俺は小さく笑った。塀の上の猫は退屈そうに、大きなあくびをした。
【テーマ:ないものねだり】
「おい深山、大丈夫か」
俺はローテーブルに突っ伏している深山の傍にしゃがみ込み、軽く肩をたたいた。返事はなく、深山は顔を伏せたまま動かない。
俺は小さく息をついて、買ってきた薬の箱とミネラルウォーターをテーブルに置いて「これ買ってきたから」と言った。すると深山はようやく、のそりと顔を上げた。それからだるそうにこめかみを押さえながら、かすれた声で「あけて」と言う。
「え?」
「フタ」
早くしろという目で睨まれる。召使いじゃねえんだぞとでも言いたくなるが、仕方ない。俺はペットボトルを手にとって、フタを開けてやってから手渡した。
深山はお礼も言わずにそれを受け取ると、手のひらに出した2錠の錠剤を口に含み、水で流し込んだ。そのあいだ、俺は波打つ喉仏をなんとなく眺めていた。
半分くらいまで飲むと、深山は無言で俺にペットボトルを差し出した。「もういらないからフタ締めろ」の意だろう。はいはい、と心の中で肩を竦めながらフタを締める。
「水、冷蔵庫いれとく?」と訊けば、深山は力なく首を横に振った。「ここに置きっぱでいい」と言うので、俺は言われたとおりにペットボトルをテーブルに置いた。
深山とは大学で知り合った。授業が被ってなんとなく喋るようになったところから、今はちょくちょく互いの家に行き来するくらいの仲までになった。
深山と付き合う中で知ったのは、こいつは片頭痛持ちだということだ。雨の日は決まってだるそうにしているし、顔色が悪い。ご機嫌もナナメである。
ひどいときは、大学やバイトを休むこともある。そしてそういう場合はたいてい、俺に雑な呼び出しがかかる。ちなみに今日は『頭痛薬切らしたから買ってきて。あと水』というメッセージ。
残り少なくなった時点で買っとけよなと思うが、芯からだらしない男に言い聞かせてもきっと無駄だ。恐らくこいつは「ま、あいつに頼めばなんとかなるし」とか思っている。
実際、なんだかんだでこいつのことを放っておけない俺は、ため息をつきながらも言うことを聞いてしまう。甘やかしている自覚はある。
というのも、深山の「呼び出し」は、単なるパシリというわけでもなさそうなのだ。以前、買ったものを届けてさっさと帰ろうとしたとき、深山は俺の襟首をひっつかんで引き戻してきた。
ぐえっとなりながら「何?」と訊けば、しんどそうな顔で「帰るな」と言う。なんで、と訊いたら、深山は目を伏せた。それから少し間を置いて、ぽつりと言ったのだ。
「一人でいたくない」
「……なんで?」
「雨が降ってるから」
雨の日に一人でいたくない理由が何なのかは知らないが、俺はそのときの深山の顔がどうしてか忘れられない。つめたい雨の中でひとり震える、小さな子どものような顔だった。体調不良のせいで心細くなるというのはよく聞くけれど、深山の場合、なんとなくそれだけではないような気がする。
だから雨の日はこうして、隣にいてやることにしている。窓に吹きつける雨風の音を聞きながら、何をするでもなく。
つけっぱなしのテレビは、夕方のニュースを垂れ流している。明日の天気は、ところにより雨。お天気お姉さんはそう告げた。
【テーマ:ところにより雨】
「パーソナルスペースって知ってるか」
俺の質問に、榎本は首を傾げて「パーソナルスペース?」とオウム返しした。俺はため息をついてから、「あのな、榎本」となるべく優しい声音で言った。
「人には、それ以上他人に近づかれると不快になる距離ってのがあるんだ。それがパーソナルスペース」
「へえ。住野は難しい言葉知ってんだなぁ」
「…………」
難しいも何も常識だと思うが、生憎こいつに常識は通じない。現に俺の質問の意図をまったく理解していない。もうオブラートに包むのはやめて、ストレートに言うことにした。
「つまりお前は近すぎて気持ち悪い」
「えっ」
「距離感がバグってる自覚を持て」
榎本は目を丸くして俺を見ている。その様子だと本当に自覚がないのだろう。
並んで歩くと腕がぶつかる。やたらと肩に手を回してくる。もし大して仲良くもない奴相手にこんな距離感でいたら、何だコイツと思われるに違いない。
それに、例えば相手が、榎本に好意を抱いている女子だったとする。榎本にそのつもりがなくても、その距離の近さは思わせぶりになる。勘違いさせてしまったら、その女子が可哀想だ。
「俺相手なら別にいいけどさ、気をつけろよ」
俺は友人が女泣かせのクズ男にならないよう、榎本のためを思って注意した。決して榎本がモテるのが悔しいからではない。
けれども当の本人は、俺の指摘にあまりピンときていないみたいだった。なんだか腑に落ちない様子で「うーん」とか言っている。
「まあ俺、住野以外には触りたいと思わないし、大丈夫だと思う」
榎本は平然と言った。想定外の答えが返ってきて、俺は思わず固まった。
「ん? 今なんて?」
「住野以外には触りたいと思わないから大丈夫」
「……俺には触りたいと思うの?」
「触りたいっていうか、近いと安心する」
「なんで?」
「…………特別な存在だから?」
ちょっと考えてから、榎本は真顔で答えた。天然ボケの友人は、たまにこんな爆弾発言をする。本人はなんの他意もなく言っているから恐ろしい。
なんだよ、特別な存在って。それはそれで誤解を生むような気がするが。不覚にもほんの少しときめいてしまったことを悟られないよう、俺は「あっそう」と素っ気なく答えた。
【テーマ:特別な存在】
チャイムの音が響いた瞬間、睡魔との戦いはようやく終わりを告げた。大きく伸びをすれば、背中の骨がポキポキ鳴る。教科書やらノートやらを雑に机の中に突っ込んでから、俺は後ろを振り向いた。
てっきりいつものように机に突っ伏して気持ちよさそうに寝こけているかと思ったが、後ろの席の西木は、今日は珍しく起きていた。
しかも西木は今、教科書を開いて読んでいる。文字が並んでると眠くなる、とか言って、教科書を忌まわしき呪いの書物だと見なしていた、あの西木が。明日槍でも降るんじゃないかと思いながら、俺は「おい、西木」と声をかけた。
「吾妻。悪いけど俺は今集中してる」
ちょっと黙っててくれないか。西木は目を落としたまま言った。こいつって、何かに集中することができたのか。知らなかった。
熱でもあるのかと思って、西木の額に手を当てて自身の体温と比べてみたが、まごうことなき平熱だ。いよいよ不安になってくる。
「お前ほんとに西木か?」
「あたりまえだろ」
「今朝なんか変なものでも食べた?」
「食べてない」
「じゃあどっかに頭打ったとか?」
「お前さあ、俺のことなんだと思ってんの」
西木はやっと顔を上げて、俺を見た。いかにも不服そうにこちらを睨んでいる。
「俺がちょっと勉強してるぐらいでさ」
「だって普段のお前からしたらありえないし」
常ならば、授業開始から三秒で爆睡。起きているのは体育の授業中と昼飯時、それから部活動の間だけ。体力ばかりを漲らせたアホの申し子・西木良輔が勉強をしてるなんて、天変地異の前触れとしか思えない。
「どういう風の吹き回しだよ」
俺が言うと、西木は窓の外に目を向けて、「今日あんま風吹いてなくね?」と答えた。どうやら中身はいつもの西木のままのようだ。俺は少し安心した。
「なんで急に勉強に目覚めた?」
俺は改めて、西木でもわかる言葉で言い直した。すると西木は、なぜかちょっと照れくさそうに頭を掻いて「それ聞く?」と言った。
あ、なんかめんどくさそう。直感でそう思ったが、既に西木のスイッチは入ってしまったようだ。
「宮村さんに好きなタイプ聞いたんだよ」
「へえ」
「そしたら、頭のいい人って言われて」
「…………」
隣のクラスの宮村琴葉は、西木の片想いの相手である。告白こそまだしていないらしいが、はたから見ていてもバレバレだ。
宮村さんも、西木の猛烈なアプローチに困っているのだろう。好きなタイプを「頭のいい人」と答えることで、たぶんやんわりと西木を拒絶している。けれども西木が、相手の気持ちを細やかに察するスキルなんてものを持ち合わせているはずもない。
好きな子のタイプが「頭のいい人」だとわかった途端、少しでもそれに近づこうと教科書を熱心に読み始める、単純な男だ。一言で言えばバカ。だけど俺は嫌いじゃない。宮村さんはどうだか知らないが。
「とにかく俺は今から猛勉強して東大入って、宮村さんに告白するんだ」
「あぁそう。まあ何だ、がんばれ」
またすごいこと言い出したなと思いつつ、俺は愛しきバカの頭にぽんと手を乗せた。
【テーマ:バカみたい】
「かわいそうなひとたちだわ」
月子は憤然と言った。そうとうお怒りなのが見て取れる。私は「まあまあ」なんて毒にも薬にもならないような合いの手を入れた。当然、月子の怒りはおさまらない。
「あの子たちには、お月様の声が聴こえないのよ。こんなにもおしゃべりなのに」
言いながら、月子はぎゅっと制服のスカートの裾を握りしめた。華奢な両肩は、小さく震えている。怒りで震える人ってほんとにいるんだ、なんて思いつつ、私は月子の背中をぽんぽんと叩いた。
「あの子たち、私のこと嘘つきって言ったの」
「聞いてたよ。ひどいよね」
「ええ。ママとパパと、同じくらいひどいわ。私とっても傷ついた」
月子の両親は、月子のことを変な子だと思っているらしい。両親に煙たがられているのは私も一緒だから、シンパシーを感じて仲良くなった。こんな時間まで帰らなくても一切心配されないくらいには、私たちは彼らにとってどうでもいい存在なのだ。家にいても窮屈なだけだから、こうして公園のベンチに並んで、いつまでも喋っている。
「理沙は私のこと、信じてくれるよね」
月子はそう言って、私の手にそっと自身のそれを重ねた。迷わず頷けば、月子は嬉しそうに微笑んだ。
あいにく、どんなに耳を傾けても、私には月の声は聴こえない。私にも聴こえたら、月子とおんなじ世界を見れるのに。
そんなことを思っていたら、月子が手をぎゅっと握ってきたから、私はやさしく握り返した。手のひらに伝わる体温があたたかい。
月明かりの下で目を閉じた。二人ぼっちの夜に、ずっと身を浸していたい。そう思った。
【テーマ:二人ぼっち】