顔を上げたら、ガラスに雫が伝っていた。いつのまに降り出したのだろう。文庫本を置いて、窓の外を眺める。鉛色の空から糸のように細い雨がさあさあ降り注ぎ、眼下の街には色とりどりの傘が咲いている。
思い返してみればたしかに、朝の時点でなんだか物憂げな空模様だった。折り畳み傘でも持っていくべきだったかもしれない。
とにかくこれでは帰れない。どうしたものかと考えながら、カップに口をつける。本はたった今読み終えてしまった。コーヒーも残り少ない。このままここで雨がやむのを待つのは、少々退屈だ。
俺は少し迷った末に、鞄からスマホを取り出した。アプリを開いて、メッセージを打ち込む。
『傘を持ってきてほしい。駅前の喫茶店』
送ってから数秒で既読がついた。さすがだなと感心する。彼はいつも、メッセージに気づくのが早い。
それからすぐに、敬礼しているゴリラのスタンプが送られてきた。『了解』ということだろうか。彼はこのシリーズのスタンプをよく使う。気に入っているらしい。
それにしても、頼もしい。やはり持つべきものは、傘を忘れたときに駆けつけてくれる同居人だ。
普段なら面倒臭がりそうなものを、二つ返事で承ってくれたから、少し驚いた。俺が家を出るときは、ソファにだらしなく寝転んでテレビを見ていたのに。
もしかして何か見返りを期待しているのだろうか。そこまで考えて、合点がいく。さては俺に何か奢らせるつもりだな。食い意地の張っている彼にとっては、喫茶店というのが魅力的だったのかもしれない。クリームソーダにナポリタン、サンドイッチ、カレー。いったい何を要求してくるだろう。
そうなれば仕方がないから、一品くらいご馳走してやろう。わざわざ傘を届けてくれるのだから。
もしかしたら、食べている間に降りやんでしまうかもしれない。それはそれでいいだろう。雨上がりの、洗いたてのような世界が好きだ。虹でも見れたら万々歳。空をうつした水たまりを避けながら、彼と並んで帰るのもまあ、悪くはない。
【テーマ:物憂げな空】
2/25/2026, 8:12:55 PM