おさしみ泥棒

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 平穏な日常は、思いのほか呆気なく終わりを迎えるものなんだなと、ぼんやり思った。この期に及んで、まだ当たり前に明日が来るような気がしている。今日で世界は終わるというのに。

 店は軒並みシャッターを閉め、通りに人の姿はない。既に人類が滅亡した後なんじゃないかと錯覚してしまうほど、あたりは閑散としている。やはり最期の最期くらいは皆、大切な場所で、大切なひとと共に、ゆっくりとひそやかに終わっていきたいのだろう。
 けれども俺のようなやつは、孤独感に押しつぶされないよう、ひとり街に出て彷徨い歩くしかない。だれか、片時でもそばにいてくれる体温を探して。

 数年前、地球滅亡の未来を知った人類の阿鼻叫喚ぶりが嘘のように、世界は終焉を受け入れている。どんな研究を、技術を、祈りをもってしても、運命に抗う術はない。できるのはただ、死を待つこと。そんな受け入れがたい真実が明かされたおかげで、ずいぶんと人が減ってしまった。

 だからこうして、ふらっと外に出向いてみても、誰ともすれ違うことができない。心もとなさを抱えながらトボトボ歩いていれば、ニャーンと鳴き声がして、足元に黒い毛玉が擦り寄ってきた。
 俺はしゃがみこんで、痩せた黒猫を撫でた。首輪の鈴がちりんと鳴る。人こそいないが、飼い主を失った犬や猫は、たまにこうして外をうろついている。

「お前もひとりぼっちか」

 そんなセリフを吐きながら猫を撫で回していると、ふいに背後から声が飛んできた。

「クロ! こんなとこにいたのかよ!」

 振り向けば、そこには若い男がひとり立っていた。見たところ、俺と同じくらいの年代だ。
 目が合って、俺はなんとなく会釈した。すると男は人懐っこい笑みを浮かべて「ああ、どうもどうも」と近寄ってくる。

「それうちの猫なんですよ」
「あ、そうなんですか」
「はい。朝起きたらいなかったから、今までずっと探してたんです」

 走って探し回っていたのか、男は額に滲んだ汗を拭いながら言った。それから駆け寄ってきた猫を抱き上げると、俺に向かって「見つけてくれてありがとうございます」と言って、また笑いかけた。

「いや、俺は何も」

 ナデナデしてただけです。そう答えれば、男はそうですかと言いながら、やっぱりくすくす笑った。俺もつられて、少し笑った。
 ふいに男が、思い出したように「そういえば、今日で終わりですね」と言った。

「そうですねえ」
「時間、あとどれくらいかな」
「さあ、どうだろう」

 そんな会話をしながら、ふたり並んで、なにとはなしに空を見上げる。そうして俺は、ふと思いついて、口を開いた。

「あの、終わる前に、名前を聞いてもいいですか?」
「え? 僕のですか?」
「はい。猫ちゃんは、クロですよね」
「あぁはい、この子はクロです」

 よいしょ、とクロを抱き直して、男は言った。

「そんで僕が、ユウっていいます」
「ユウさん」
「はい。優しいって書いて、ユウ」
「いい名前ですね」
「へへ。あなたはなんていうんですか?」
「俺はハルです。季節の春」
「ああ僕、季節は春が一番好きです」
「そうなんですか」
「はい、桜が好きで。あー、最期に見たかったなぁ」

 中身のない言葉を交わして、笑いあう間にも、終わりは迫る。もうすぐ終わる。
 ユウさんの腕の中で、クロが大きくあくびをした。俺とユウさんは、顔を見合わせて笑った。血のように赤く染まった夕焼け空の下で。

【テーマ:平穏な日常】

3/12/2026, 9:12:15 AM