「この世界は不条理だ」
ぼそりとつぶやいた男の目は、どんよりと暗く沈んでいる。放っておけば今に呪詛でも唱えだしそうだったから、俺は仕方なく話を聞いてやることにした。ソファの隅っこでコンパクトに体育座りしている同居人の隣に腰を下ろし、「なにがあった?」と尋ねる。
「裏切られた」
「だれに?」
「今朝、電車でおばあちゃんに席を譲ったんだ」
「へえ。えらいじゃん」
「ありがとねえって言われた」
今のところただのイイ話だ。ここからどう転べば、闇堕ちした主人公みたいなセリフを吐くまでに至るのだろう。
「今日は仕事が早く終わったから、俺は駅前のパン屋に寄ろうと思った。無性にあそこのメロンパンが食べたい気分で」
「あー。ふわふわでうまいよな」
「うん。俺は鼻歌まじりにパン屋に入店した」
ご機嫌な奴だと思いながら「うん」と相槌を打つ。
「メロンパンはラスト一個だった。よっしゃラッキーと思って取ろうとしたら、同じタイミングで横からトングが伸びてきて」
「おお」
「咄嗟に見たら、それは今朝俺が席を譲ったおばあちゃんその人だった」
おばあちゃん再登場。なかなかにアツい展開だ。
「目が合って、向こうも俺だってわかったみたいで」
「おー」
「今朝はありがとねえなんて言われて、俺はいえいえとか返して」
「素敵じゃん」
「挨拶もそこそこに、おばあちゃんは『じゃあまたね〜』ってレジに向かっていった」
「うん」
「俺はメロンパンに視線を戻した。すると」
「……」
「メロンパンは、跡形もなく消えていた……」
怪談の大オチみたいなトーンで、同居人は言った。それきり、沈黙が落ちる。話はここで終わりらしい。
「怖いな」
俺は率直な感想を口にした。同居人は膝を抱えて「マジで怖い」と言った。
「俺さ、思わずそのおばあちゃんの方を見たんだよ。そしたらおばあちゃん、真顔で俺を見つめてた」
「それはどういう感情なんだ」
「わからん。俺にはもう何もわからん」
「おまえはなんにも言わなかったの?」
「言えないだろ、さすがに」
俺はおまえに席譲ったんだから、おまえは俺にメロンパン譲れよ。などと言ったら、そのおばあちゃんはどんな顔をするのか気になった。
【テーマ:不条理】
3/18/2026, 2:08:50 PM