星座占いを見ながらコーヒーを啜っていたら、がらりとリビングのガラス戸が開く音がした。俺はテレビ画面を見たまま「おはよ」と言ったが、いつもと違って、寝ぼけた声の「おはよ」が返ってこない。
不思議に思って視線を向ければ、廊下から顔の半分をのぞかせた同居人が、俺をじとりと睨んでいた。まるでホラー映画のワンシーンのような構図である。
「……どした? なんか怖いんだけど」
俺は言った。すると同居人は低い声で「それはこっちのセリフだ」と言った。どう考えても俺のセリフだろと思いつつ、俺は「どういうこと?」と尋ねた。
「お前さ、俺が怖いのダメって知ってるだろ」
「知ってるけど」
「じゃあ夜中にリビングでホラー映画流すのやめろ」
同居人は恨めしげに言った。
俺の趣味は映画鑑賞である。金曜日の夜になると、俺はひそかに祭りを開催する。サブスクで前から気になっていた作品を片っ端から観まくる。そのまま観続けて朝になっていることもあれば、いつのまにかソファで寝落ちしていることもある。
ちなみに昨夜は後者のパターンだ。中盤くらいまで観たところで、睡魔に負けた覚えがある。そしてこいつの言う通り、それはたしかにホラー映画だった。
が、だから何だというのか。今のところ、こいつにクレームを言われる筋合いはない。
「お前が寝た後に観てるんだからべつにいいだろ」
俺が言い返すと、同居人は眉間の皺を深めて「全然よくない」と言った。
「夜中にトイレ行こうと思って前通ったら、ドア越しに見えちゃったんだよ! 血まみれの女が大画面で……うっ……」
話しながら思い出したのか、同居人はぶるりと身震いした。
「とにかく、お前のせいで俺は結局トイレに行けず、膀胱がパンパンのまま朝を迎えた」
「……」
「今回はギリ間に合ったけどさ、もし俺が漏らしてたらお前、どう責任とるつもりだったわけ?」
どう、と言われても。そもそも俺の責任なのか? 寝る前に麦茶をがぶ飲みしていたお前にも非はあるし、第一、いい大人が怖くてトイレに行けないっていうのはどうなんだ。
「よって、今後この家の中でホラー映画を観ることを禁止する。いいな?」
同居人はびしりと言った。一度こうなってしまったら梃子でも動かないことを知っているから、俺はため息をついて「はいはい」と返してやった。
「そんなのどうでもいいから。朝飯食お」
「は? 今どうでもいいって言った?」
「言ってない言ってない」
「適当すぎる!」
同居人は喚いた。朝っぱらから騒がしい奴だと呆れながら、俺はふたたびマグカップに口をつけた。
【テーマ:怖がり】
はいこれ、と差し出されたのは、青いリボンでラッピングされた、手のひらサイズの小さな箱。
「なにこれ」と訊けば、白石はにっこり笑って「ハッピーホワイトデー」と言った。
「はあ?」
「いいからちょっと開けてみて」
わけがわからず顔をしかめる俺に、白石は箱を押し付けてくる。俺は怪訝に思いながらも受け取って、リボンをほどき、箱を開けてみた。
中にぴったり収まっていたのは、ハート型のチョコレートだった。上には溢れんばかりのスターシュガーが散らばっている。見るからに甘ったるそうなそれを見下ろし、俺はふたたび「なにこれ」と言った。
「何ってチョコだよ。見りゃわかるだろ」
「そうじゃなくて……これお前が作ったの?」
「うん。お前のために夜なべして作った」
「なんで」
「ホワイトデーだから」
「ホワイトデーは昨日だ」
「あれっ、そうなの? 今日だと思ってた」
今日だと思っていたんだとして、なんでお前が俺のためにチョコを作って渡すんだ。もちろん俺は、こいつにバレンタインチョコを贈った覚えなど一切ない。
「ホワイトデーって、バレンタインに貰ったチョコのお返しをする日なんじゃないのか」
「そうだけど」
「俺はお前に何もあげてない」
「でもほら、俺ってこういうイベントには積極的にあやかってくタイプじゃん?」
知らねえよ。そんなにあやかりたいならその辺の女と交換こでもしとけ。そう言いたくなったが、交換こできる相手がいるならそもそも、こんな奇行に走るはずもない。モテない男の末路がコレかと思うと、なんだか可哀想になってきた。
ため息をついてから、仕方なく「わかったよ、食べてやる」と言えば、白石はぱっと表情を明るくした。
「食べて食べて。隠し味は俺の愛情♡」
「食欲失せるからやめろ」
気色の悪いことを言ってくる男を軽くあしらって、ふたたび手元を見下ろす。星がたっぷり乗っかった、ハートのチョコレート。これを作ったのが可愛い女の子だったなら、喜んで食べたのに。
人の気も知らず、生産者は嬉しそうにニコニコしている。なにがそんなに楽しいんだか。変な奴。
【テーマ:星が溢れる】
私を見つめる両の瞳は安らかで、花を慈しむように優しい。香帆は時折、私にこんな視線を向けてくる。そのたび私はどうしてか、ちょっとドキドキしてしまうのだった。
香帆は小学校からの幼馴染だ。高校生になったいまも、こうして定期的に会っている。
待ち合わせは、いつもの喫茶店。香帆は決まってコーヒーを注文する。ブラックを好んで飲む香帆は、とても格好いい。いつもオレンジジュースばかり飲んでいる自分が子どもっぽく思えて、少し恥ずかしい。
ランチを食べながら、おしゃべりに花を咲かせる。たくさん話して、ちょっとひと息ついたところで、香帆はふいに言った。
「日和といるときが一番おちつく」
静かに微笑む香帆の双眸は、まっすぐに私だけを捉えている。昼下がりの陽光を透かした茶色い虹彩は、とてもきれいだ。
ああ、まただ。私ったらなんでこんなにドキドキしてしまうんだろう。わからない。わからないけれど、今はまだ、わからないままでいい。わからないままがいい。なんだか、そんな気がした。
【テーマ:安らかな瞳】
うちのクラスには、美しいひとがいる。それはもう絵に描いたような美少年だ。名前は瀬川くんという。
もちろん、そのへんにいくらでも落ちている石ころみたいな私が、高嶺の花である瀬川くんに話しかけるだなんて、そんな大それた真似はできない。
けれどもこうして彼の姿をじっくり眺めることができるのは、後ろの席の特権だ。自分の苗字が「瀬木」であることに感謝しなければならない。どうかこのまま1年間席替えすることなく、出席番号に則った席順であり続けますように。そんなことを、私は切に願うのだった。
そんなわけで、私は今日も今日とて、特等席にて瀬川くんの鑑賞に勤しんでいる。
後ろ姿を見ているだけでも目の保養になるなんて、何事だろう。それほどまでに、瀬川くんを形づくる線は繊細で美しい。さらさらの黒髪と色白いうなじのコントラストに、つい見とれてしまう。
授業の内容はそっちのけで、脳内でそんな実況を繰り広げていたとき。私はふと、"それ"の存在に気づいてしまった。
首の付け根のあたり。シャツの襟で見えるか見えないかの微妙なところに、ちいさなほくろがあるのを見つけたのだ。
それが目に入った瞬間、私は妙にどきりとした。心臓が早鐘を打ち始めて、なんだか胸のなかがふわふわする。どうしてか私はいま、見てはいけないものを見てしまったような感覚に陥っていた。
ぽつんと小さく在るそれは、彼が生きた人間であることの証のようで。もちろん瀬川くんは紛れもなく人間なのだけど、なんだかときどき不安になってしまうのだ。それは、ふれたら消えてしまう淡雪の儚さとよく似ている。
きっと、後ろの席の私しか気づいていない。ひょっとしたら、瀬川くん本人も気づいていないかもしれない。首の付け根に、ちいさなほくろがあること。
私しか知らない、瀬川くんのこと。ひどくちっぽけで、取るに足りないことでも、なんだか嬉しかった。それからどこか甘やかで、少し切なかった。
この気持ちはなんだろうと考える前に、たしかに感じたその淡いときめきを、私はそうっと大切に、心の奥にしまったのだった。
【テーマ:もっと知りたい】
平穏な日常は、思いのほか呆気なく終わりを迎えるものなんだなと、ぼんやり思った。この期に及んで、まだ当たり前に明日が来るような気がしている。今日で世界は終わるというのに。
店は軒並みシャッターを閉め、通りに人の姿はない。既に人類が滅亡した後なんじゃないかと錯覚してしまうほど、あたりは閑散としている。やはり最期の最期くらいは皆、大切な場所で、大切なひとと共に、ゆっくりとひそやかに終わっていきたいのだろう。
けれども俺のようなやつは、孤独感に押しつぶされないよう、ひとり街に出て彷徨い歩くしかない。だれか、片時でもそばにいてくれる体温を探して。
数年前、地球滅亡の未来を知った人類の阿鼻叫喚ぶりが嘘のように、世界は終焉を受け入れている。どんな研究を、技術を、祈りをもってしても、運命に抗う術はない。できるのはただ、死を待つこと。そんな受け入れがたい真実が明かされたおかげで、ずいぶんと人が減ってしまった。
だからこうして、ふらっと外に出向いてみても、誰ともすれ違うことができない。心もとなさを抱えながらトボトボ歩いていれば、ニャーンと鳴き声がして、足元に黒い毛玉が擦り寄ってきた。
俺はしゃがみこんで、痩せた黒猫を撫でた。首輪の鈴がちりんと鳴る。人こそいないが、飼い主を失った犬や猫は、たまにこうして外をうろついている。
「お前もひとりぼっちか」
そんなセリフを吐きながら猫を撫で回していると、ふいに背後から声が飛んできた。
「クロ! こんなとこにいたのかよ!」
振り向けば、そこには若い男がひとり立っていた。見たところ、俺と同じくらいの年代だ。
目が合って、俺はなんとなく会釈した。すると男は人懐っこい笑みを浮かべて「ああ、どうもどうも」と近寄ってくる。
「それうちの猫なんですよ」
「あ、そうなんですか」
「はい。朝起きたらいなかったから、今までずっと探してたんです」
走って探し回っていたのか、男は額に滲んだ汗を拭いながら言った。それから駆け寄ってきた猫を抱き上げると、俺に向かって「見つけてくれてありがとうございます」と言って、また笑いかけた。
「いや、俺は何も」
ナデナデしてただけです。そう答えれば、男はそうですかと言いながら、やっぱりくすくす笑った。俺もつられて、少し笑った。
ふいに男が、思い出したように「そういえば、今日で終わりですね」と言った。
「そうですねえ」
「時間、あとどれくらいかな」
「さあ、どうだろう」
そんな会話をしながら、ふたり並んで、なにとはなしに空を見上げる。そうして俺は、ふと思いついて、口を開いた。
「あの、終わる前に、名前を聞いてもいいですか?」
「え? 僕のですか?」
「はい。猫ちゃんは、クロですよね」
「あぁはい、この子はクロです」
よいしょ、とクロを抱き直して、男は言った。
「そんで僕が、ユウっていいます」
「ユウさん」
「はい。優しいって書いて、ユウ」
「いい名前ですね」
「へへ。あなたはなんていうんですか?」
「俺はハルです。季節の春」
「ああ僕、季節は春が一番好きです」
「そうなんですか」
「はい、桜が好きで。あー、最期に見たかったなぁ」
中身のない言葉を交わして、笑いあう間にも、終わりは迫る。もうすぐ終わる。
ユウさんの腕の中で、クロが大きくあくびをした。俺とユウさんは、顔を見合わせて笑った。血のように赤く染まった夕焼け空の下で。
【テーマ:平穏な日常】