「顔死んでるよ」
そんな言葉とともに、脳天に軽く手刀を落とされた。じろりと睨み上げると、男は「こわーい」なんて言ってへらへら笑った。
「そんな顔すんなよ。笑顔えがお」
「…………」
「ほら、合言葉はラブアンドピース」
とかなんとか言いながら、俺の隣に腰を下ろす。平気で肩が触れる近さに座る神経が理解できない。こいつのパーソナルスペースはどうなってんだと思いながら、直ちにひとり分の距離をとった。
不快感丸出しの俺の態度などまったく意に介さず、隣の男は上機嫌に鼻歌を歌いながら、なにやらスマホを操作している。てっきり上に報告しているのかと思ったが、よく見れば、画面には焼肉屋のサイトが表示されていた。『人数』の項目に『2』が打ち込まれたのを見て、俺は「おい」と言った。
「それ、何してる」
「ん? 焼肉屋の予約とってる」
「なんで」
「なんでって、打ち上げ」
パーッとやろうぜ、などと言って、俺の背中をばしりと叩いてくる。
「俺は帰って寝る」
「えー、打ち上げしようぜ。うまい肉食えば、おまえの表情筋も生き返るよ」
「…………」
「焼肉食ってるときってさ、ほんと幸せだよな。おれホルモンがいちばん好き」
わかっていたことだが、やはりこいつは正気じゃない。普通の人間だったら、"アレ"を見たあとに焼肉を食おうなんて思わない。ましてやホルモンなんかもってのほかだ。
さっき見た光景が脳裏をよぎって、俺は咄嗟に口元を押さえた。酸っぱいものが込み上げてくる感覚に眉をひそめる。男はそんな俺を見て、薄っぺらい笑みをはりつけたまま「大丈夫?」と言った。細められた目の奥には、深い闇が在る。
なにが「ラブアンドピース」だ。さっきから頬に返り血をべったりくっつけている人間が言っていいセリフじゃないだろ。
そういう俺の手にも、赤黒い血がこびりついている。狂っているのは、俺も同じだ。吐き気とひどい目眩のなかで、俺は力なく笑った。
【テーマ(?):愛と平和】
写真にうつるのはあまり好きじゃないのだと言っていた。どうしてと訊けば、千秋は笑って、魂が抜かれるからだよと答えた。
自分は撮られるのが嫌いなくせに、ひとにはカメラを向けてくる。私は特に明治時代の思想なんかは持ち合わせていないので、そのたびにピースをして、キメ顔をつくるのだが。一緒にうつろうよと言っても、千秋はいつだって、「俺はいいよ」と返す。
千秋は基本的に、私のわがままを受け入れてくれる、優しい彼氏だ。けれども自分が写真にうつることだけは、穏やかに、しかし頑なに拒む。「へんなの」と思うけど、まあ、嫌だと思うことなんて人それぞれだものね。そんなふうに自分を納得させるのだった。
ある夜、千秋はコンビニに行くと言って家を出たきり帰ってこなくなった。
連絡はつかず、心当たりのある人や場所をあたっても、行方は依然としてわからない。警察に行方不明届を出して見つからないまま、もう二年になる。
千秋に家族はいない。だから、帰る場所は私のもと以外にない。他に女でもいたのかと考えたりもしたが、どうしても、そうは思えなかった。思いたくないという気持ちも、もちろんあるけれど。
千秋が私に向ける目、ふれる体温と、名前を呼ぶ声。それらのどれをとっても、彼は私を、きっとだれよりも大切に想っていた。とんだ自惚れ女だと嗤われようが、私は心からそう信じている。
過ぎ去った日々を思い起こそうと、カメラロールを遡るけれど、一枚だって彼の写真は残っていない。千秋はたしかに、そこにいたはずなのに。
最初から、いなくなるつもりだったのではないかと思う。たとえば死期を悟った猫が、静かに姿を消すように。そうして誰の目にもつかないところで、ひっそりと息を引き取るように。
そう思い当たったのには、わけがある。いつか千秋が言っていたのだ。死に場所を探しているのだと。
なんでもない日の朝、トーストにジャムを塗りながら、千秋は静かに、けれどもたしかにそう言った。
私はどきりとした。けれども私がなにか言う前に、彼が「なんてね」と笑ったので、ほっとして、もうやめてよ、と返した。
ただの冗談だと思いながらも、しばらく心臓がどくどくうるさかったのは、前々から無意識に、不安を感じていたからだろう。彼はどこか、不確かで危うかった。ふっと音もなく消えてしまいそうで。
それに、私は覚えている。あのとき、彼の双眸がわずかに翳ったことを。思えばあれが、分岐点だったのかもしれない。
あの朝の食卓で、寂しそうに笑った彼を、一滴の雫のようにこぼれ落ちた告白を、ちゃんと手のひらで、受け止めていれば。千秋はいまも、私の隣にいたのだろうか。
【テーマ:過ぎ去った日々】
「やっぱお金より大事なものって、優しさだよなぁ」
そいつはニヤけながら言った。相槌を打つのも面倒で、俺はテレビを眺めたまま無視することにした。それを意に介することもなく、男は勝手に「っていうのもね」と続ける。
「俺こないだ、駅でおばあちゃん助けたの」
「…………」
「そしたら今日、ぐうぜん再会してさぁ。あのときのお礼にって、飴ちゃんもらっちゃった」
「…………」
「いやー、いいことってするもんだなぁ」
シカトされているというのに、かまわず上機嫌に話し続けられるのはすごいと思う。そいつは続けざまに「ほらこれ」と言って勝手に俺の右手をとると、手のひらに飴をひとつ乗せてきた。
「二個もらったから、一個あげる」
「いらん」
「なんで!?」
「ハッカ嫌いなんだよ」
「えー。せっかくシェアハピしようと思ったのに」
不満げに唇を尖らせながら、俺から飴を取り上げて、包みを剥がし始める。ハッカのすうすうする匂いが横から流れてきて、俺はちょっと眉を寄せた。かろかろ、と口の中で飴を転がす音がする。
「とにかく俺は、これからも困ってるおばあちゃんがいたらどんどん助けていこうと思うんだ」
「おばあちゃんじゃなくても助けろよ」
「そんなん言われなくてもわかってるよ。おじいちゃんも助けまくるわ」
「おじさんとおばさんもな」
「……お前さぁ、揚げ足とって楽しい?」
じとりと睨まれて、思わずふっと笑った。楽しいか楽しくないかと訊かれたら、正直かなり楽しい。わかりやすい反応が面白くて、つい捻くれたことを言ってしまうのだ。あと単純に、こいつが楽しそうにしてるとなんかムカつくっていうのもある。
「ごめんごめん」
「ごめんは一回。反省してないだろ」
「優しさを謳うならちょっと揶揄うくらい許せよ」
「……お前なあ、相手が俺じゃなかったら今ごろタコ殴りだぞ? 俺だからいいけど」
俺だって相手がお前じゃなかったら、こんな意地の悪いこと言わないけどな。というのは、口には出さないでおいた。
【テーマ:お金より大事なもの】
俺がマスクを外すと、いつだって思い詰めたような顔をする。けれども決して目を逸らさない。
たいていの人間は、肉色の生々しい傷跡と、引き攣れた頬の皮膚を見れば、顔に嫌悪をにじませて視線を逸らす。もしくは好奇の目で、じろじろと観察してくるのが常だ。
この傷を前にして、まるで自分の痛みのようにひどく苦しげに眉を寄せるのは、この男だけである。いっちょまえに罪を引き受けたような顔をするから、つい笑ってしまいそうになる。
馬鹿なやつだと、つくづく思う。もう十数年も前の出来事に、いつまでも囚われている。まあ、逃げられないように足枷を嵌めているのは、ほかでもない俺なんだけど。
あれは事故だった。咄嗟に庇ったのは俺の判断なのだから、べつにお前が気に病む必要はない。そう言ってやればいいんだろうが、あいにく俺はそこまでお人好しじゃない。
むしろ、ちょうどいいと思った。お前がだれかのものになるくらいなら、俺はお前の傷になる。骨の髄まで抉るような、とびきり深い傷痕に。
なんでもよかった、お前の心を繋ぎ止めることができるなら。いびつな形の絆でもかまわない。一生消えない傷を抱えるように、一生俺の隣にいてね。
【テーマ:絆】
⚠︎ちょっと長め⚠︎
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「あの、すみません」
ふいに頭上から声が降ってきた。顔を上げれば、見覚えのある青年が、こちらを見下ろしている。
基本的に彼とは、週に一回のペースで顔を合わせている。けれども、名前は知らない。なぜなら、そのコンビニで働く店員の名札には、名前が書かれていないからだ。いわゆるカスハラ防止のためなのか、"スタッフ"とだけ表記されている。
ちなみに俺は、心の中で彼を勝手に「ねむい君」と呼んでいる。いつも眠そうな目をしているから。
今日も変わらず、ねむい君は眠たげだ。いつもと違う点といえば、ねむい君の着ている服がコンビニの制服ではなく、ラフなパーカーであること。それから、ここが夜のコンビニではなく、夜の公園であること。
コンビニ以外の空間でねむい君と会うのは初めてだった。ついでに、ねむい君の口から「いらっしゃいませ」「袋いりますか」「〇円になります」「ありがとうございました」以外の言葉を聞いたのも初めてだ。
俺は毎週金曜日は必ず、仕事帰りにコンビニに寄ると決めている。そうして、自分へのささやかなご褒美として、チョコ味のアイスを買うのだ。それを食べながら駅まで歩くのが、俺のルーティンである。
俺の「いつもの金曜日の夜」を構成するもののうちの一つが、ねむい君。俺がアイスを買いにコンビニに寄れば、レジに立っているのはだいたい彼だった。
けれども先週から、そうじゃなくなった。先週の金曜日、いつものように自動ドアを通り抜け、なにとはなしにレジのほうに目を向ければ、なんとそこには、金髪のギャルが立っているではないか。
俺の金曜日から、突如としてねむい君が消えたのだ。代わりにギャルが現れた。
どうやら、ねむい君はバイトをやめたらしい。見たところ大学生くらいの年代だから、課題やら就活やらが忙しいのかもしれない。
俺とねむい君は、会計のやりとり以外の会話をしたことがない。ねむい君のほうが俺を認知しているかどうかもわからない。だからべつに、いなくなって寂しいとか、そんな感情は特にない。
ただ、違和感はある。一夜にして、黒髪のけだるげな青年が、ウニみたいな睫毛をした金髪ギャルになったから。
慣れないなと思いながら、今日もアイスを買った。元気な「ありがとうございましたー」を背中に浴びつつ、コンビニを出た。そしてふと、足を止めた。やわらかな夜風が頬を撫でて、なんだか春の兆しを感じたのだ。このまま電車に乗って、ひとり暮らしの寂しいアパートにまっすぐ帰るのが惜しくなった。
ほのかな心の浮つきに身を任せて、俺はちょうど目に入った公園に入った。片隅の小さな木を見上げると、街灯の光に照らされて、枝の先で淡いピンクが小さく咲いているのが見えた。俺は近くのベンチに腰を下ろして、アイスの袋を開けた。声をかけられたのはその瞬間だった。
彼の顔を見て、俺は思わず「ねむい君」と言ってしまった。ねむい君が不思議そうに目を瞬いたのを見て、俺はハッと口元を押さえた。
「あ、いや、今のは……」
「ネムイクンって俺のことすか」
「いやその、いつも眠そうだから……」
目を泳がせながらも答えると、ねむい君は「ああ、よく言われます」と言った。気を悪くしている様子はなく、ひとまず安心する。
「すみません、なんか、変なあだ名」
「大丈夫です。俺もあんたのこと、チョコアイスソムリエって呼んでたんで」
「ええ!? そ、そうなの?」
彼がこちらを認識していたことも意外だったが、まさか知らないうちにソムリエにされていたとは。
「あの、君は……」
「ねむい君でいいですよ」
「……ねむい君は、バイトやめたの?」
この際だから訊いてみたら、ねむい君は「はい」とうなずいた。やっぱりやめたのか。
「でも心残りがあって」
「心残り?」
「はい。ソムリエさんにずっと言いたかったことがあるんです」
「えっ、俺に?」
「やめる前に言おうと思ったんですけど、結局言えなくて……だけどやっぱり言いたかったから、今日、バイトやめたのに来ちゃったんです」
「お……俺に何かを伝えるために?」
「はい」
ねむい君はふたたびうなずく。そこまでして俺に言いたかったことって、いったい何なんだ。なんだか怖くなってきた。
「な……何を伝えようと……?」
「ソムリエさん」
ねむい君はがしりと俺の肩を掴んだ。ぐいっと近づいた顔が端正だったから、思わずちょっとだけドキッとした。
「このチョコアイスの、ホワイトチョコバージョンって食べたことあります?」
俺の目をまっすぐに見つめ、真剣なトーンで、ねむい君は俺にそう尋ねた。
「え……? 」
「ありますか?」
「え、いや、な……ない、けど」
狼狽えながら答えると、ねむい君はちょっと目を伏せて「そうですか」と言った。
「そ、それが何か?」
「……俺、そのホワイトチョコ味が、この世で一番好きなんです」
「そうなんだ……」
「もうほんと、美味すぎて、初めて食ったとき涙出ました。今はこのアイス作ってる会社に就職したいと思ってて」
「そ、そうなの」
「ホワイトチョコ味の美味さ、ソムリエさんは知ってるのかなって、ずっと思ってて」
たしかにこのアイスは美味い。ねむい君ほどまではいかないけれど、俺も毎週欠かさず買って食べるくらいには、このアイスの虜になっている。
俺は小さい頃から、気に入ったものだけを飽きるまで繰り返し食べるタイプの人間なので、ミルクチョコレート味の隣のホワイトチョコレート味はまったく眼中になかった。
それを彼は、ずっともどかしい気持ちで見ていたのだろう。このおっさんは、ホワイトチョコ味の美味さを知らないのかもしれない。知らずに人生を終えるなんてもったいない。教えてあげたい。
そんな思いで、バイトをやめたにもかかわらず、彼は俺に伝えに来てくれたのだ。俺はそのことに感動して、泣きそうになってしまった。毎朝満員電車に揺られ、上司には理不尽に怒鳴られ、部下には舐め腐られる。そんな灰色の日々の中で、ねむい君の奇妙な情熱とやさしさが、やけに胸に染みた。
そういえば俺は、これに似た感覚を知っている。まだ入社して間もない頃にミスをして、ひどく落ち込んでいたときだ。なんとなく立ち寄ったコンビニで、チョコアイスを買ってみた。くちどけのよいやさしい甘さがじんわりと染み入って、俺は夜道で少し泣いた。
俺はどうもおかしなノスタルジーとセンチメンタルによってうっすら滲んできた涙をこっそり拭って、笑ってみせた。
「ねむい君、ありがとう。たまにはホワイトチョコ味も食べることにするよ」
「ほんとですか」
「ああ。ソムリエを名乗るからにはね」
俺がそう言うと、ねむい君は嬉しそうに笑った。笑うとけっこう可愛いんだなと、ぼんやり思った。
【テーマ(?):たまには】