おさしみ泥棒

Open App
1/28/2026, 2:16:50 PM

 一番目が柴犬。次にコーギー。また柴犬。四番目にパグ、五番目にチワワ、最後にフレンチブルドッグ。

「合計六回、散歩中の犬とすれ違った」

 指折り数えて報告すれば、同居人は鍋の中の味噌汁をかき混ぜながら「すごいな。最高記録じゃない?」と言った。

「みんな光る首輪つけてた」
「そっか」
「光ってる犬って愉快だよな」
「わかる」

 味噌汁を一口すくって飲むと、同居人は「うん、うまい」とうなずいた。

「もうできるから、手洗ってきな」
「ん」

 言われたとおりに、俺は洗面所へ向かった。
 洗面台の前に立つと、鏡にうつる自分と目が合う。ネクタイを緩めながら、前より幾分か顔色の良くなった男を眺めた。

 以前の俺は、我ながら幽霊と見紛うほどひどい顔色をしていた。飯を食っても味がしない。夜はまともに眠れず、ただ暗い天井を眺めるばかりだった。
 あいつと同居するようになって、今の職場に転職してからは、それもわりかしマシになったと思う。前までは、帰り道に何回犬とすれ違ったかなんて、気にする余裕はまるでなかった。
 けれどもここ最近は、自販機のちょっと珍しい缶ジュースとか、新しくできたパン屋とか、道端に咲いてるちっちゃい花とか。街中のどうでもいい風景が、自然と目に入ってくるようになった。

 そうだ、今週の土日はあいつと一緒に出かけよう。ふたりで目的もなく街へ出て、どうでもいい幸福を享受しよう。味噌汁の匂いが漂う中で、ぼんやりとそう思った。

【テーマ:街へ】

1/26/2026, 11:58:24 AM

 明けてしまうのが惜しい夜のことを「アタラヨ」というのだという。
 漢字はどう書くのと聞いたら、彼はおもむろに私の手を取った。それから先細りのひとさし指で、私の手のひらの上に、その字を書いてみせたのだった。

「こう書くんだよ、わかった?」

 そんなふうに問われたけれど、私は肌にふれる彼の体温ばかり気にして、せっかく教えてくれた漢字をまともに見ちゃいなかった。そのせいで、どんな漢字だったか思い出そうとしても、まるで思い出せない。
 あのときちゃんと聞いておけばよかった。辞書をひけば正しい漢字が書いてあるんだろうけど、彼から教えてもらわなければ意味がない。けれども彼が私に「アタラヨ」という言葉を教えてくれたあの夜は、たしかに明けるのが惜しい夜だった。
 いまはどうだろう、わからない。彼が隣にいなければ、朝を朝とも思えない。だから今日も、いつかの体温の記憶を抱きしめながら、目を閉じるのだ。深い深い夜の底で、いつまでもあなたを想っている。

【テーマ:ミッドナイト】

1/22/2026, 6:23:41 AM

 特別な夜にしようと思ったのだ。小心者の俺にとっては、一世一代の覚悟だった。好きな女の子を遊園地に誘うだなんて。
 震える手で二人分の割引チケットを差し出せば、松井さんは笑って「いいよ」と言ってくれた。その笑顔があまりにも可愛くて、俺はすっかり舞い上がってしまったのだ。

 眼下の夜景にはしゃぐ彼女を見ていたら、とうとう気持ちがおさえきれなくなった。考えるより先に、言葉が出ていた。
 すきです、と上ずった声で告げた俺を前に、松井さんは困った顔をした。それから彼女は、黒目がちのまるい瞳を気まずげに伏せて、小さな声で「ごめん」と言った。

「私、ニッシーのことは友達だと思ってるから」

 その言葉で、俺はたちまち我に返った。冷静になれば、あたりまえのことだ。もしかしたら松井さんも俺のこと、なんて、馬鹿な勘違いにも程がある。頬がじわじわ熱くなっていく。

「あ……そ、そっか! なんかごめん変なこと言って! 全然忘れてくれていいから!」
「あ、え、いや別に変では……ちょっとびっくりしただけで、気持ちは嬉しいよ、普通に」
「あ、そ、そっか……」
「うん……」
「………………」

 沈黙が落ちる。あまりに空気が重すぎて、ゴンドラごと落ちてしまうんじゃないか。恐らく今の俺たちは、観覧車に乗っている客史上、いちばん気まずい。
 よく考えたら、観覧車に乗ったときに告白するのはリスクが高すぎる。頂点ぴったりで告白してOKされたならいいが、そうでなければ振った相手と振られた相手が、地上に戻ってくるまで無言で向かい合い続ける地獄の時間が発生する。現に今、発生している。

 ゴンドラから出るなり、彼女は俺を振り向いて言った。

「ちょっと用事思い出したから、そろそろ帰るね」
「えっ」
「じゃあね、またバイトで」
「…………」

 駅まで送るよ、と言う前に、彼女は足早に去ってしまった。観覧車のりばの前に、俺はひとり、ぽつんと取り残された。
 しばらく唖然としてその場に突っ立っていたが、俺はやがて近くのベンチに力なく腰を下ろした。幸せそうな顔をしたカップルが、ライトアップされた観覧車に乗り込んでいくのを、ぼんやりと眺める。
 俺、何やってんだろ。自分があまりにダサすぎて、もはや笑えてきた。どうして俺はこうなんだろう。何をやってもうまくいかない。
 うなだれて洟を啜ったそのときだった。正面から、とんとん、と肩を叩かれた。
 顔を上げると、水色のうさぎが立っていて、思わず「えっ」と声を上げた。
 正確には、うさぎのきぐるみだ。もっと正確にいえば、この遊園地のマスコットキャラクターである"ラビくん"のきぐるみである。
 ラビくんは、右手に持った風船をひとつ、俺のほうに差し出してきた。

「え、お……俺にくれるの?」

 聞けば、ラビくんはこくりとうなずいた。それからもふもふの手を伸ばして、俺の目元を拭くような仕草をしてみせた。

「な、泣かないでって?」

 ラビくんはまたこくりとうなずいた。それからぴょんぴょんジャンプしたかと思えば、奇妙なダンスを踊り始める。
 とにかく、一生懸命慰めようとしてくれていることは伝わってくる。あまりに必死なものだから、俺はつい吹き出してしまった。

「はは、ラビくんありがとう。ちょっと元気出たよ」

 そう伝えると、ラビくんはまた嬉しそうに飛び跳ねた。きぐるみ着た状態でよくそんなにジャンプできるなと、一瞬ロマンのないことを思ってしまったのは内緒だ。
 ある意味で特別な夜になってしまったが、過ぎてしまったことは仕方ない。ラビくんの優しさに触れて、俺は早くも、失恋から立ち直りかけていた。

 しかしながら、帰り際になんとなく立ち寄ったおみやげショップで、俺はラビくんに手ひどく裏切られることになる。
 手に取ったハート型のクッキー缶には、イラストが描かれていた。ラビくんと、その隣に並んだピンク色のうさぎが、仲睦まじく手を繋いでいる。

「……お前も彼女いるんじゃねえか…………」

 もう二度と、その遊園地には行かないと誓った。

【テーマ:特別な夜】

1/20/2026, 11:16:38 AM

 暗い水底のような双眸だ。月の光も届かない、闇と静寂で満たされた深海が、奥に在る。のぞきこんでみても、その真っ黒い水面におれの姿は映らない。
 ふいに彼女は目を細めた。青白い細面に浮かぶ微笑に温度はない。まるで笑う少女を象った、精巧な人形を見ているかのようだった。ぞっとするほど美しい。

 喜助さん、と女がささやいた。血の気のない生白い顔の中に、唇の朱だけが鮮やかだ。呼びかけに応えるように、震える指先で、頬にそっと触れた。ひどくつめたい。おれはいよいよ恐ろしくなった。
 この娘の正体はきっと、人ではないなにかだ。すべてを呑み込む夜の海のような、おぞましいなにかだ。

 彼女に魅入られて、おれは仕事も妻子も、なにもかもを捨てた。世間の目から逃れるように、辺境の古屋に移り住んだ。この女をひと目見たときから、おれは狂ってしまったのだ。
 己の内に渦巻く狂気は、彼女への愛憎は、どうしたって消し去ることはできない。逃れようとすればするほど、泥濘に足を取られ、深く深く沈んでいく。

 女郎蜘蛛という妖怪は、人を滝壺に引きずり込むのだという。いつか耳にした伝承を、糸のように細い黒髪に触れながら、ぼんやりと思い出した。

【テーマ:海の底】

1/19/2026, 12:59:23 PM

「来ちゃった♡」

 突如として、その男は襲来した。真顔で「お帰りください」と即答すれば「こっくりさんじゃないんだから」とよくわからないツッコミが返ってくる。

「なんですか」
「どうしても君に会いたくて」
「…………」
「調子はどうだい後輩くん」
「見てわかりませんか」

 片手で前髪をよけて、額に貼った冷えピタを見せつける。

「ご覧の通り、今あんたにかまってる余裕ないので帰ってください」
「えーケイくん冷たぁい」

 病人相手に気色の悪い小芝居を続ける男を前に、ただでさえひどかった悪寒と頭痛が、いっそう悪化した気がする。俺は舌打ちして「まじでだるいから帰れ」と言い放った。
 我ながら先輩に対する態度ではないと思うが、こいつに至っては例外である。俺より年上のくせをして、常識も品位も、ついでに万年金もない男相手に、いったい何をへりくだることがあろうか。

「なんだよ、心配して来てやったのに」
「あんたのせいで悪化してます」
「そりゃ大変だ。看病してやるから家上げて」
「だから……」

 か、え、れ、と言おうとしたところで、くらりと頭が揺れた。あ、やべ、と思った瞬間、がしりと肩を掴まれる。崩れそうになった足をなんとか踏みしめた。

「あぶね。大丈夫?」

 今さら心配そうに顔をのぞき込んでくる。だから大丈夫じゃねぇつってんだろさっきから、と怒鳴りたくなるが、そんな気力も残っていない。
 先パイは俺の肩に腕を回して「部屋まで歩ける?」と聞いてくる。上がっていいなんて言ってねえぞと言いたいところだが、もはや支えなしでは歩けない。本格的に熱が上がってきたようだ。
 結局、先パイの肩を借りながら、部屋まで戻ってきた。ベッドにぐったりと倒れ込む。

「スポドリ飲めそう?」

 小さくうなずくと、先パイはペットボトルのキャップを開けて、俺に差し出した。身を起こして、それを受け取る。冷たく甘い液体が、喉を滑りおちていく。内にこもるような、いやな感じの体の火照りが、いくらかマシになったような気がした。
 続けざまに「おかゆ食べれる?」と聞かれたので、ふたたびうなずいた。

「たまごと梅、どっちがいい」
「たまご」
「わかった。寝て待ってろ」

 先パイはビニール袋をガサガサいわせながら、台所に向かった。覚束ない意識のなかで、シンクに水が流れる音や、たまごを割ってとく音を聞いていたら、どうしてか子どものころの記憶が脳裏をよぎった。

 両親は、普段からあまり家にいなかった。だから風邪をひいても、あれこれと世話を焼いてくれる人なんていなかった。ただ、ひとりきりで部屋の片隅にうずくまり、浅い咳をするばかりだった。ひどくさみしかったことを覚えている。

 なぜ今になって、そんなことを思い出すのだろう。いつになくおせっかいな先パイのせいで、調子が狂っているに違いない。
 ほのかに漂う出汁の匂いを感じながら、ゆっくりと目をまたたいた。ふいに胸の内に浮かんだ、あのときの心細さが、ゆるやかに遠のいていく心地がした。

【テーマ(?):君に会いたくて】

Next