リュックの内ポケットに、黒い手帳が入っていた。何だろうと思って開いてみると、どうやら日記のようだ。すこし角ばった字で、日付と天気、その下に文章が数行、書き記されている。
あいつ、日記なんてつけてたのか。あのだらしなくていい加減な男が、毎日欠かさず。よく続いたもんだと感心する。
読んでみると、帰り道に猫がいたとか、コンビニの新作スイーツがうまかったとか、それから、俺の寝顔がアホみたいだったとか。書いてあるのはそんな、とりとめのないことばかりだった。
おい、誰がアホだ。ああ、たしかにあの映画は面白かった。そういえば、そんなこともあったな。心の中で相槌を打ちながら、ページをめくっていく。
日記は、一週間前の日付で途切れている。
夕飯のシチューがうまかった。世界一うまいって言ったら、大げさだろって笑われた。本気で言ったんだけどな。また食べたい。そんなことが書いてあった。
世界一ってことはないだろう。三ツ星シェフが作ったシチューのほうが、何倍もうまいに決まってる。それでもあいつはきっと、俺が作ったやつがいいって、そう言うんだろう。
シチューなんて、いくらでも作ってやる。それから近所の野良猫を撫でて、新作のスイーツが出たらふたつぶん買ってきて、映画を見よう。寝顔がアホだとか、そんな軽口だっていいから。
もういちど聞きたい。おまえの声を。濡れたら滲んで消えてしまう、文字なんかじゃなくて。
ただ、いつもどおりのただいまに、いつもどおりのおかえりを返してやりたいのに。今日も、玄関の扉は開かない。
【テーマ:閉ざされた日記】
吹きつける木枯らしに身震いした。
隣になんとなく目をやると、男は缶を傾けて、底をしきりに叩いている。底に残ったコーンがなかなか出てこないらしい。
このもどかしさに耐えられないから、どんなに寒い日でも、俺は缶のコーンスープを買わない。けれどもこいつは「そのもどかしさがスパイスになってさらに美味くなるんだよ」とかよくわからないことを言って、むしろ自販機のコーンスープを好んで買う。
いつだったか、この男は「コーラは瓶のほうが美味く感じるのと同じで、コーンスープも缶で飲むほうが美味い」とも言っていた。至極どうでもいいと思ったので、ふーん、と気のない返事をしたことを覚えている。
バス早く来ねえかなと思いながら、コーンスープと格闘する姿をぼんやり眺めていると、友人は突然むせた。どうやら、コーンが変なところに入ったようだ。激しく咳き込みだしたので、おお大丈夫かと背中をさすってやる。
友人はひと通り咳き込んでから、息をついた。とりあえず落ち着いたらしい。俺が渡したペットボトルの水を飲み、男は掠れた声で「コーンスープに殺されかけた」と言った。
「コーンのせいでコンジョウの別れになるところだったな」
「…………」
ひときわ強い木枯らしが吹いた。
【テーマ:木枯らし】
つくづく美しいひとである。
教室の窓のすき間から流れ込んだ風に、つややかな黒がさらさら靡く。細い前髪の隙間からのぞく目もとは、甚く涼しげだ。長い睫毛が、透き通るほど色白い頬の上に、微かな影を落としている。
伏せられていた視線が、ふいに持ち上がった。ついドキリとして、息を呑む。冴えた月を閉じ込めたような双眸が、ファインダー越しに僕を射抜いた。
「撮れた?」
そう問いかけられて、数秒間固まっていた僕は、はっと我に返った。
「う、うん。すごくいいのが撮れた」
「そっか。よかった」
「ありがとう、瀬川くん」
僕は慌てて頭を下げた。瀬川くんは薄く笑って「どういたしまして」と言った。あ、今の顔も撮りたい、と思ったけれど、さんざん撮影会につき合ってもらった手前、これ以上お願いするのも忍びない。
「あ、そ、そうだ。これ」
僕は机に置いていた鞄の中から、購買で買ったお菓子を取り出して、瀬川くんに差し出した。
「撮らせてもらったお礼です。よかったら」
「…………」
瀬川くんは、僕の差し出したコアラのマーチの箱をまじまじと見つめている。何も言わずにただ見ているから、だんだん不安になってきた。
もしかして、コアラのマーチ嫌いだったかな。どうしよう。特に親しいわけでもないくせに、突然被写体になってほしいだなんて頼んだあげく、お菓子のチョイスを間違える。僕はなんて失礼なやつだろう。
泣きそうになっていたら、瀬川くんはふいに「よくわかったね」と言った。
「えっ?」
「俺の一番好きなお菓子、コアラのマーチなんだ」
「え、そ、そうなんだ……」
「うん」
瀬川くんは嬉しそうに笑った。さっきの微笑みとは違う、無邪気な笑い方。こんな顔もできるんだ、と思った。
「食べる前に絵柄を予想するのが趣味なんだ。的中したことは一度もないけど」
「そ、そうなんだ」
そんな趣味があったんだ。大人びたイメージを持っていたから、なんだか意外だ。
ともあれ、お菓子選びは失敗していなかったようで、心底ほっとした。
「ありがとう。家に帰って食べるね」
瀬川くんは、僕からコアラのマーチを受け取って、大事そうに胸に抱えた。
「文化祭、楽しみだね。写真部の展示見に行くよ」
「うん、ありがとう。瀬川くんは何部なんだっけ?」
「園芸部だよ」
瀬川くん、園芸部なんだ。たしかに瀬川くんは植物が似合いそうだ。瀬川くんと花。写真に撮ったら、きっとすごく綺麗だろう。
「文化祭は育てた花の展示をするんだ」
「そうなんだ。見に行くね」
「うん、ぜひ。ポチも喜ぶよ」
「ポチ?」
「あ、俺が育ててるチューリップの名前」
チューリップの名前、ポチなんだ。
それにしても、コアラのマーチが好きだったり、花に名前をつけたり、瀬川くんってなんだか、かわいいひとだ。
写真を撮らせてくださいと声をかけなかったら、きっと知らないままだった。ただ遠巻きに、その美しい横顔を眺めているだけだった。
勇気を出して、よかった。さっき撮った写真が宝物のように思えて、手の中のカメラをそっと撫でた。
【テーマ:美しい】
「この世界は狂ってる」
机に突っ伏した男は、恨めしげな声でそう言った。絵に描いたような絶望ぶりである。
なんでもこいつは、つき合って1年の記念日当日に、彼女に振られたという。夜景の見えるレストランを予約し、プレゼントも買った。そうして、当日は完璧なデートプランを遂行するはずだった。けれども待ち合わせ場所に彼女は来ず、代わりに送られてきたのは『ごめん。他に好きな人できたから別れたい』という、たった二行のメッセージ。
そんな仕打ちを受けたのだから、こう荒むのもまあ無理もない。
「おいお前、そろそろ終電なんだけどなあー、みたいな顔してんなぁ」
男は顔を上げて、じろりと俺を睨んだ。すっかり目が据わっている。
「そんな顔してないけど」
「いいやしてるね。もー全部顔に出ちゃってる。どーせお前もおれのこと捨てるつもりなんだろ? おれにはわかる!」
「……お前ちょっと飲みすぎ。そのへんにしとけ」
俺は酔っぱらいの手から缶を取り上げた。酔っぱらいは小さく唸ると、ふたたび机に突っ伏した。脱力したまま、まだムニャムニャ何か言っている。
俺はため息をついて立ち上がった。キッチンの棚から引っ張り出してきたゴミ袋に空き缶を放り込んでいく。机の上に散らばったつまみのゴミや、酔っぱらいメンヘラ男が涙と鼻水を拭くのに使ったティッシュもまとめて片付けてやる。当の本人は机に伏したまま、いつの間にか寝息を立てていた。
こいつが女に振られて泣きついてくるのは、これが初めてじゃない。こいつは失恋するたびに、情けないくらい咽び泣きながら、聞いてもいない彼女への未練やら何やらを延々と俺に話し続ける。
俺はいい加減うんざりしていた。それは、この女々しい酔っぱらいに対してじゃない。自分に対してだ。
どこぞの女との惚気話を聞かされるたび、ほの暗い感情が胸の内で渦を巻く。手ひどく振られてしまえばいいのに。そうすればこいつは、一番に俺に泣きついてくるから。
そのたびに、俺はちょっと迷惑なそぶりを見せながら、そばにいてやるのだ。落ち込んでいる幼馴染を放っておけない、優しい友人のふりをして。
拗らせた執着を、いつまでも手放せずにいる。
【テーマ(?):この世界は】
「どうして空は青いの?」
こちらを見上げる、まるくて大きな両目は、きらきら輝いている。大人はなんでも知っていると信じて疑わないような、期待に満ちた視線が肌に痛い。
繋いだ手にうっすら汗が滲むのを感じながら、俺は今さら後悔した。授業なんてそっちのけで、ひたすら消しカスでねりけしを作ることに精を出していた学生時代を。もっとちゃんと勉強してれば良かった。中学の、理科の高柳先生はなんて言ってたっけ。だめだ、あだ名がタカヤンだったことしか思い出せない。
だけど、いたいけな姪っ子の曇りなき眼を前にして「知らない」とも言えないし、だからといって嘘を教えるわけにもいかない。
「あー、ゆいちゃんはどうしてだと思う?」
苦し紛れにそう問いかけたら、大人の愚かなプライドを見透かされたのだろうか、ゆいちゃんの目から、とたんに光がすっと消えた。「おじさん」と、諭すような声音で呼ばれる。
「質問に質問でかえすのはだめなんだよ」
「あ、はい……」
普通に怒られた。
【テーマ:どうして】