目を覚ました。カーテンの隙間から射しこむ朝の光にちょっと顔をしかめる。
枕元のデジタル時計は、午前7時40分を示していた。重たい瞼をこすりながら、まだ意識のおぼつかない頭で考える。仕事は休み。出かける予定も特にないし、二度寝してもいい。
けれども、さっきから室内に漂う甘美な香りを無視できない程度には腹が減っている。頭のなかの天秤が睡眠欲より食欲のほうに傾いたので、俺は上体をのそりと起こした。
ベッドから這い出して、フローリングに降り立つ。足裏にひやりとした感触が伝わって、早くもシーツに残った温もりが恋しくなった。
自室を出てキッチンをのぞくと、同居人と目が合った。寝起きの掠れ声で「おはよ」と言ったら、同じようなトーンの「おはよ」が返ってきた。
キッチンを満たす、パンの焼ける匂い。同居人は真剣なまなざしで、トースターの中の食パンの焼き加減を見極めている。
「もういいんじゃね?」という俺に、同居人はパンを凝視したまま「もうちょい」と答えた。
俺はなんとなく手を伸ばして、そのほっぺたをつまんだ。トースターをのぞきこんでいたせいか、ほんのりあたたかい。同居人は不思議そうな顔でこちらを見たが、特に抵抗することもなく、黙って頬をむにむにされ続けている。
トーストの匂いと、指先の体温。何でもない朝が、このままずっと続けばいい。そんなことをぼんやり思っていたら、トースターがチーンと鳴った。
【テーマ:ずっとこのまま】
ベッドの中でうとうとしていたら、突然チャイムが鳴った。心地良いまどろみの淵にあった意識が、急速に浮上する。
スマホを見ると、時刻は0時ぴったりだ。こんな夜中に訪ねてくる非常識な奴といえば、思い当たるのは一人しかいない。
バイトで疲れていたし、無視を決め込むことにした。もう一度ピンポーンと鳴ったが、気にせず目を閉じる。少し間をおいて、再びピンポン。ピンポン。ピピンポン。ピピンポンピンポーン。
さすがに飛び起きた。玄関まで飛んでいき、苛立ちまじりにドアを開ける。そこに立っていたのは案の定見慣れた顔だった。
「あ、やっぱり起きてた」
「起こされたんだよお前に」
俺が食い気味に言うと、男はにこやかに「ごめんごめん」と言った。悪びれている気配はまったくない。
「何しに来た?」
「祝いに来た」
「は?」
「誕生日」
おめでとう、と満面の笑みを向けてくるのが不気味だった。この男とは10年来の腐れ縁ではあるけれど、毎年の誕生日を祝い合ったりしない。それがいったいどういう風の吹きまわしだ。
「急になに、誕生日って」
「いやあ、記念すべきハタチの誕生日だし、せっかくなら一番に祝いたいと思って」
「なんだそれ。気持ち悪」
「酒買ってきたからさ、家上げてよ」
言いながらコンビニ袋を突き出してくる。しぶしぶ受け取って中を見ると、缶ビール数本と、カップのアイスがふたつ入っている。
「あ、それ期間限定の味。おまえ好きそうだなーと思って買ってきたやつ」
「…………」
「一緒に食べよ。そんで朝まで楽しく」
「お前、彼女に追い出されただろ」
「………………」
図星を突かれたようで、眼前の男はフリーズした。ようやく点と点が繋がって納得する。
こいつは彼女と同棲している。おおかた喧嘩でもして追い出されたから、ほとぼりが冷めるまで誕生日を建前にして、俺の家に居座るつもりなんだろう。
「一番に祝いたいとか、よく言えたな」
「いやそれは本心。本心だから泊めて」
「嘘つけよ」
「なあ、俺たち親友だろ? お前は親友をこの寒空の下に放り出すのか?」
わざとらしい上目遣いでこちらを見てくる。1ミリもかわいくない。
「ピスタチオ味はお前にあげるから。まじで頼む」
「片方は食おうとしてんじゃねえよ」
「わかった。両方あげるから今日だけ泊めて」
「…………」
必死すぎて、もはや哀れに思えてきた。
それにしても小賢しい男だ。俺がピスタチオ味のスイーツに目がないことを知ったうえで、この交渉を持ちかけてきている。
俺は盛大にため息をついてから、仕方なく「今日だけな」と言った。幼馴染はあからさまに表情を明るくして、さっそく玄関に上がり込んでくる。
「さすが親友! 20歳おめでとう!」
「とってつけたみたいに言うな」
「これからもよろしくな親友!」
「俺はよろしくしたくない」
とか言いながら、なんだかんだでこの男とこの年までよろしくやり続けている俺も俺だ。
とはいえ、ピスタチオに免じて、とりあえず今日のところは大人しく祝われてやることにした。
【テーマ:20歳】
「ねえショウちゃん、幸せってなんだと思う」
ソファに並んで座って、テレビをぼんやり眺めていたら、突然そんな問いを投げかけられた。
「どうした急に」
「なんとなく、ショウちゃんの見解が聞きたくて」
「見解……って言われてもなあ」
視線を宙にさまよわせながら考えてみるが、そういうテツガク的なことは、俺にはさっぱりわからない。
「うーん。まずなんか、いい匂いがするだろ」
「うん」
「で、あったかくて、ふわふわしてる」
「ふわふわしてるんだ」
「そんで、あとは……甘い?」
「つまり、ショウちゃんにとっての幸せは、パンケーキの形をしてるってことでいい?」
甘くてふわふわで、あったかくていい匂い。たしかにパンケーキは、すべての条件をクリアしている。
「うん、パンケーキ。それが俺の見解」
「そっかあ」
「そっちの見解はどうなの」
「私は……んー、フレンチトーストかな」
「アイスのってるやつ?」
「のってるやつ」
まじめな顔でうなずいてから、ふっと笑った。つられて俺も笑った。
【テーマ:幸せとは】
「三浦。三浦。おい三浦!」
まあまあの声量で名前を連呼しながら揺さぶってくるものだから、何事かと思って飛び起きた。
ヘッドボードに置いていた眼鏡に手を伸ばし、慌てて身に付ける。ぼやけていた視界が鮮明になり、眼前の男の顔もはっきり見えた。
「三浦、おはよう」
「おはよう……何、どうした?」
「三浦に見せたいものがある」
「見せたいもの?」
こっち来て、と言うので、言われるがままにベッドを降りた。裸足で踏みしめたフローリングは、まるで凍った水面のようだ。
寒さに身をすくめながら部屋を出る。同居人は廊下をずんずん進んでいく。どうやら玄関に向かっているようだ。
「外行くなら着替えたいんだけど」
「一瞬出るだけだから」
そう言うと、同居人はサンダルをつっかけて、玄関のドアを開けた。たちまち流れ込んできた真冬の冷気が肌を刺す。思わず「うわ寒っ」と声が出た。
せっつかれるままにサンダルに足を通して、玄関から一歩外に出る。「ほら見て」と促されて、顔を上げた。
「……おお」
「な、すごくね? 初日の出!」
影になった建物の縁から、まばゆい光が溢れだす。澄んだ藍が下のほうで、ほの明るい橙と溶け合って、夜明けの色をつくっていた。
富士山越しに見る初日の出は、そりゃあたいそう絶景なんだろうと思うが、マンションの共用廊下から見る初日の出も、存外悪くないことを知った。
さりげなく、隣に視線を流す。わざわざ初日の出を俺と見たいがために、早朝から叩き起こしてきた同居人は、目の前の光景にすっかり目を奪われている。
黄金色の光に照らされて、爆発したみたいな寝癖がよりいっそう芸術的に見えて、こっそり笑った。
【テーマ:日の出】
白い息を吐きながら、重い足取りで通学路を歩いていると、突然ばしりと背中を叩かれた。「ゔぇっ」と潰れたカエルみたいな声が飛び出す。
「よ! あけおめ!」
出会い頭に人の背中をぶっ叩いておきながら、よくもまあそんな爽やかに挨拶ができるな、と思う。
「痛いんだけど」
「おまえが新年早々辛気くさい顔して歩いてるから、喝を入れてやったんだよ」
そういう顔をしていた自覚はあるから、うまく言い返せなかった。本当なら、だれのせいで辛気くさくなってると思ってる、とでも言いたいところだが。
「それより、俺の今年の抱負を聞いてくれ」
鼻の頭を赤くした幼馴染は言った。
聞きたくない。心の底から興味がないし、何より、別に聞かずともなんとなく予想はつく。
「俺は今年こそ、絶対に彼女をつくる!」
隣の男は、高らかに宣言した。俺は鼻で笑った。ほらな、やっぱり。わかりきった答えでも、いちいち胸がへんに軋むから嫌になる。
「ふーん。頑張ってね」
「興味なさすぎだろ」
「お前の恋愛事情とかクソどうでもいい」
「冷たっ! 新年早々当たり強っ!」
やかましい。人の気も知らないで。知られたら困るのは俺だから、墓場まで持っていくつもりだけど。
「そっちは? ないの? 今年の抱負」
「あー、無病息災」
「まじめか!」
下手くそなツッコミが腹立たしい。どうして俺は、こんな奴のことが。自分でもわからない。
去年も今年も来年も、ずっと変わらない。抱負というより、それは願いだ。隣にいたい。たとえ、お前にとっての一番が、俺じゃなくても。我ながら馬鹿みたいだと思う。馬鹿と一緒にいるから馬鹿になるのだ。全部こいつのせいだ。
苛立ちのままに、隣を歩く男に肩をぶつけたら、「はあ? なにすんだよ」とぶつけ返してきた。
上着越しに触れる肩からは、体温は伝わらない。つめたい真冬の空気が、肌に痛かった。
【テーマ:今年の抱負】