暗い水底のような双眸だ。月の光も届かない、闇と静寂で満たされた深海が、奥に在る。のぞきこんでみても、その真っ黒い水面におれの姿は映らない。
ふいに彼女は目を細めた。青白い細面に浮かぶ微笑に温度はない。まるで笑う少女を象った、精巧な人形を見ているかのようだった。ぞっとするほど美しい。
喜助さん、と女がささやいた。血の気のない生白い顔の中に、唇の朱だけが鮮やかだ。呼びかけに応えるように、震える指先で、頬にそっと触れた。ひどくつめたい。おれはいよいよ恐ろしくなった。
この娘の正体はきっと、人ではないなにかだ。すべてを呑み込む夜の海のような、おぞましいなにかだ。
彼女に魅入られて、おれは仕事も妻子も、なにもかもを捨てた。世間の目から逃れるように、辺境の古屋に移り住んだ。この女をひと目見たときから、おれは狂ってしまったのだ。
己の内に渦巻く狂気は、彼女への愛憎は、どうしたって消し去ることはできない。逃れようとすればするほど、泥濘に足を取られ、深く深く沈んでいく。
女郎蜘蛛という妖怪は、人を滝壺に引きずり込むのだという。いつか耳にした伝承を、糸のように細い黒髪に触れながら、ぼんやりと思い出した。
【テーマ:海の底】
1/20/2026, 11:16:38 AM