三日月と、クロの背中
十月の夜は、薄い硝子を一枚隔てたような静けさがある。
空には、爪先でひっかいたような鋭い三日月。
銀色に研ぎ澄まされたその光は、どこか遠い誰かの落とし物のようだ。
ベランダに出ると、クロが足元に鼻先を寄せてくる。
「月がきれいだね」と声をかけると、クロはただ、ふさふさした尻尾を一度だけゆっくり振った。
彼の黒い毛並みが、月の光を吸い込んで少しだけ青白く縁取られている。
私たちは、言葉にならない感情の断片を、夜の風に溶かしてやり過ごす。
明日には忘れてしまうような、ささやかな寂しさと、確かなぬくもり。
三日月は少しずつ傾き、クロの背中の上で、静かに夜を深めていった。
雪、光の粒
1月7日。朝。
カーテンを開けると世界が新しくなっていた。
昨日までの景色を真っ白なキャンバスに戻して、「さあ、今日は何を描く?」と問いかけられているみたいだ。
冷たい空気さえ、心の中を洗ってくれる気がする。
午後。
愛犬のクロは、庭の雪に大はしゃぎだ。
黒い弾丸のように駆けまわり、冷たいはずの雪に鼻先を突っ込んでいる。
顔中を真っ白にしてこちらを振り返るクロの瞳が、キラキラと光っている。
「楽しいね」と笑うと、世界がもっと明るくなった。
夜。
冷えた体を温めるスープの匂い。
私の足元で、雪の夢を見ているのかクロの足がピクピク動いている。
明日の朝、まだ誰もいない真っ白な道に、二人で最初の足跡をつけに行こう。
新年
あたらしい光、あたらしい足音。
窓を開けると、まっさらな空気が部屋に流れ込んできた。
「さあ、行こう」
声をかけると、クロはちぎれんばかりに尻尾を振って、喜びを全身で表現する。
その無邪気なリズムに、こちらの心もふっと軽くなった。
冬の光を反射して、クロの瞳がキラキラと輝いている。
去年のことなんて、もうどこかへ飛んでいってしまったみたいだ。
「いいことが、たくさんあるよ」
根拠はないけれど、そう確信しながら歩く。
冷たい風の中、クロの元気な足音と私の靴音が重なる。
一歩進むごとに、世界が新しく塗り替えられていく。
この真っ白な一年の始まりを、私たちはどこまでも自由な気持ちで、どこまでも遠くへ歩いていける。
静かな終わり
十二月三十一日。
世界が少しずつ、丁寧な手つきで閉じられていく。
外を見ていたクロが、小さく鼻を鳴らした。
銀色の毛が混じった背中に触れると、
確かな体温が手のひらに伝わってくる。
「もうすぐだね」
呼びかける声は、冷えた空気に吸い込まれて消えた。
遠くで、最初の除夜の鐘が鳴る。
重く、深い、青い音。
それは何かの終わりというより、
積み上げた日々を、静かに許していく合図のよう。
クロは大きなあくびをして、私の足元で丸くなった。
特別なことは、もう何もいらない。
ただ、この静寂を分け合える命が隣にあること。
それだけで、この一年は完成していたのだと思う。
どこへも行かない旅
使い慣れた一眼レフを首から下げ、クロを連れて河原へ向かう。
「旅」といっても、いつもの散歩道の延長。
けれど、レンズを覗くたびに世界は新しく書き換えられていく。
光の粒子が、クロの黒い毛並みに溶けていく。
シャッターを切る瞬間、私は私自身から少しだけ自由になれる気がする。
遠くへ行くことだけが旅ではない。
自分の心の、いちばん静かな場所へ降りていくこと。
それを、銀色の光が教えてくれる。
足元でクロが小さくあくびをした。
現像を待つ時間のように、答えを急がない。
私の心の旅路は、まだ始まったばかりだ。