「もしも未来を見れるなら」
もしも、ほんの少し先の未来が見えるとしたら。
今日の夕飯がマカロニグラタンであることを、私は朝から知っている。
焦げたチーズの匂いや、スプーンを通した時の白い湯気。
そんな些細な幸福を先に「確認」してしまったら、今という時間はどんな色になるだろう。
足元では、愛犬のクロが寝息を立てている。
この子がいつか年老いて、私の隣からいなくなる未来。
それが見えないからこそ、私は今、クロの温かい背中にそっと手を置くことができる。
未来を知ることは、きっと魔法じゃない。
知らないからこそ、私たちは今日という日を、
一皿のグラタンを、
たった一度のまどろみを、
大切に慈しめるのだと思う。
「それでいい」
雨音が、夜の輪郭をゆっくりと溶かしていく。
止まない長雨は、なんだか世界に私ひとりだけが取り残されたような、静かな錯覚を連れてくる。
なんとなく寝付けなくて、台所に立った。
小鍋で茶葉を煮出し、たっぷりのミルクとスパイスを落とす。
湯気と一緒に立ちのぼるチャイの香りが、尖っていた心の角を丸く削ってくれる。
足元では、クロが小さく寝息を立てている。
この子がそばにいて、温かい飲みものがあって、雨の音を聞いている。
それだけで、今日という一日は完成していたのかもしれない。
特別な何かになれなくても。
劇的な明日が待っていなくても。
「それでいい」と、雨の夜が静かにささやいている。
「何気ないふり」
満開を少し過ぎた桜の木の下で、
風が吹くたびに世界が白く揺れる。
隣を歩くクロの鼻先に、
小さな花びらがひとつ、
まるであつらえたボタンのようにくっついた。
本人は少しも気づかない様子で、
春の匂いを追いかけて、
いっそう忙しそうに地面をクンクンと嗅いでいる。
「付いてるよ」
そう教えようとして、やめた。
あまりに自然で、あまりに無垢だから。
私は知らないふりをして、
ただ、その愛おしい横顔を眺めながら歩き続ける。
何気ないふりをして過ごす、
こんな午後の数分間が、
たぶん、いちばん贅沢なのだと思う。
「見つめられると」
テーブルの上のりんごが、静かに光を反射している。
春の光を吸い込んだその赤い肌は、触れれば柔らかな温度が指先に伝わりそうだ。
ふと視線を感じて顔を上げると、足元にクロがいた。
彼は鼻先を微かに揺らし、テーブルから漂う甘い香りを一心に追いかけている。
その黒い瞳が、まっすぐに私を見つめていた。
「まだだよ」
そう口にすると、彼はわかっているのかいないのか、首を少しだけ傾ける。
見つめられると、世界の時間がふいに止まる。
ただの果物と、小さな命。
その間にある、言葉にならない名前のない時間。
私は、剥きかけのナイフを一度置いて、
クロの柔らかい頭をそっとなでた。
「My Heart」
三月の光は、透きとおった水槽の底に沈んでいるみたいに静かだ。
窓をあけると、風にのってやってきた満開の桜の匂いが、胸の奥のいちばん柔らかい場所に触れる。
「ねえ、クロ」
足元で小さく欠伸をした君を呼んでみる。
老いて少し白くなったその背中に触れるたび、私の心は、昨日よりもずっと素直な形に整えられていく。
特別なことなんて、本当は何ひとついらないのかもしれない。
ただこうして、淡い朝の光のなかで、
大切な命の鼓動を手のひらに感じていられること。
私の世界は、そんなささやかな断片だけで、
もう十分すぎるほど、満ち足りてしまっているのだから。