フィルター
フィルターという言葉。
最初に浮かぶのは写真アプリだろうか。
空の色を変えたり、肌をすべすべにしたりする、
あれ。
でも、わたし達のまわりには、
もっとたくさんのフィルターがある。
たとえば、誰かを見る目。
あの人はこういう人だと、
勝手にフィルターをかけてしまう。
ほんとうは、ちがうかもしれないのに。
時間も、フィルターみたいだ。
子どもの頃の、夏休みの一日。
あのときは、
永遠に続くように感じていたのに。
いま、思い返すと、あっという間。
あの時間が持っていた、
特別な空気だけが、
キラキラと輝いて見える。
嫌な出来事も、いつかフィルターにかかる。
そのときは、もう二度とこんな思いはしたくない、
と、深く深く苦しいのに。
時間が経つと、
その苦しささえも、
意味のあることだったように思えてくる。
痛みが和らいで、
必要な経験だったのだと、
無理やり納得しようとするのかもしれない。
わたし達は、たくさんのフィルターをかけて、
毎日を生きている。
それが悪いことだとは思わない。
フィルターがあるからこそ、
見えるものがあるから。
でも、たまには、
そのフィルターを外して、
ありのままの世界を見てみたい。
空が、ただの空として、
あるがままの色で見える瞬間を、
大切にしたい。
ページをめくる
それは、時間をめくることと同じだ。
本を読んでいるとき、日記をつけているとき。
めくったページの後ろに、さっきまでの自分がいる。
そこに、もう戻ることはできない。
ページは、めくった数だけ、未来へ向かって増えていく。
クロがまだ小さかった頃、よく私のひざの上で寝ていた。
私はその小さな頭を撫でながら、ぼんやりと本を読んでいた。
時々、クロは、ページをめくる手の動きに合わせて、頭を少し持ち上げる。
その仕草が愛しくて、私は何度も同じページを行ったり来たりした。
でも、クロはどんどん大きくなって、私のひざの上には収まらなくなった。
そしていつの間にか、本を読む私よりも、私の手の動きをじっと見つめるようになった。
ページをめくると、風がふく。
どこからか、遠い日のクロの匂いがする。
私は今、たくさんのページをめくって、ここにいる。
めくるたびに、クロとの時間が風になって通り過ぎていく。
でも、悲しいわけじゃない。
ページをめくるのは、未来へ向かって歩くことだから。
そして、いつかまた、新しいページをめくる日がくる。
その日は、きっと、クロも一緒にいる。
8月31日、午後5時
去年の夏も、そうだった。
一昨年の夏も、きっと。
8月31日、午後5時。
太陽は、まだ、空にいて、
でも、その光は、夏のそれとは違って、少しやさしい。
熱いのは、日差しのせいじゃない。
胸の奥が、ぎゅっと、熱くなる。
それは、過ぎてしまった夏への、ほんの少しの、後悔と、
そして、もうすぐ始まる、新しい季節への、
漠然とした、不安と、
それから、ほんの少しの、期待。
夕焼けの色が、少しずつ、濃くなっていく。
空に、赤と紫と、そして、なんだか、うすい水色。
その色を、見つめていると、
なんだか、遠い昔の、
忘れていた記憶が、ふいに、よみがえってくる。
それは、特に、たいしたことのない、
ただ、風が、少しだけ、やさしかった、
そんな、夕方の、ひととき。
夏休みは、終わってしまった。
でも、わたしたちは、まだ、ここにいる。
この、なんでもない、
特別な、8月31日、午後5時。
この、なんでもない、
特別な、時間が、
いつか、遠い未来で、
大切な記憶になって、
わたしたちを、そっと、あたためてくれる。
そんな気が、する。
ふたり
ひとりぼっちでいると、ふいに、宇宙飛行士になったような気持ちになる。
無重力の空間に、ぽつんと浮かんでる。
まわりには何もない。ただ、静かな光が、遠くから差し込んでくるだけ。
その光は、とても綺麗で、でも、どこか寂しい。
そんな時に、ふたりでいることを思い出す。
同じ重力の中で、ちゃんと立って、ちゃんと歩いて。
隣にいるあなたの呼吸の音や、ふいに触れた指先の温もり。
当たり前だと思っていたことが、本当は、ものすごく特別なことだったんだと、
胸の奥がぎゅっとなる。
ふたりでいることは、もう、宇宙飛行士じゃない。
ちゃんと地球に降り立って、土を踏みしめている。
風の匂いを感じて、雨の音を聴いて、
同じ時間の中に、いっしょにいる。
そうか、私たちは、お互いの宇宙だったんだ。
あなたの重力があるから、私はここにいられる。
私の重力があるから、あなたはそこにいられる。
ふたりでひとつの、小さな惑星。
どこへ行くにも、いっしょだね。
ここにある
ここにあるのに、見えないものがたくさんある。
目に見えないからといって、ないわけではない。
たとえば、クロが、そっと足元に寄ってきて、その大きな体で私の足に寄りかかってくるとき。
そのとき感じるのは、体温だけじゃない。
穏やかな重みと、それから、ああ、ここにいてくれるんだ、という安心感。
その安心感は、目には見えない。
私たちは、どこかへ行こうとする。
もっと遠い場所、もっと違う自分を求めて。
でも、本当に大切なものは、案外、いつだって、ここにある。
クロが静かに呼吸をする音。
風に揺れるカーテンの向こう、街灯が灯る瞬間の、ほんの少しの輝き。
コーヒーを淹れるときに立ちのぼる、あたたかな湯気。
そういう、ちいさな、ちいさなことの中に、確かにある。
「大丈夫だよ」と、誰かが言ってくれた言葉。
心の中に、ずっと残っている。
それも、ここにある。
そして、その全てが、私を支えている。
目には見えないけれど、たしかに、ここにある。