「遠くの空へ」
ラムネの瓶が陽に透けて、青い光を放っていた。私は縁側に腰を下ろし、その小さな瓶を指先で転がした。シュワシュワと微かな音が夏に似合っていた。私の脇には、愛犬のクロが静かに寝そべっている。クロの黒い毛並みは、この世のどんな墨よりも深く美しい。彼は私の気配に安心したのか、小さな鼻先だけが時折ひくつき、残りは夢の国だ。私は瓶の口に唇を寄せて、喉を冷たい泡で満たした。ああ、なんということであろう——この平穏な午後、遠い空の彼方へ思いが飛んでいく。ふと見上げると、雲が流れる。ひとつの雲は、まるで先ほど見たクロの寝姿のようだ。私は思わず笑った。空も地上も、今はやさしく、ひろがっている。人間は時に悩み、時に喜ぶ生きものだが、この瞬間ほどまっすぐに生きようと思うことはない。ラムネの瓶の中のビー玉がコトンと鳴る。その音を聞きながら、私はもう少し、この夏の夢に浸っていたくなった。
「君が見た景色」
君が見た景色、それは私の知らぬものだった。私は、そのことにふと気づいて、思わず柔らかな日差しの窓辺に腰を下ろした。小太郎——私の愛犬が、こちらへと小さな足音を立ててやってきた。彼の眼差しには、何もかもが初めての驚きと、無邪気な好奇心が浮かんでいる。その瞳に映る世界はきっと、私のものとは違う色と形に満ちているのだろう。
私は手を伸ばし、小太郎の頭を優しく撫でた。彼はしきりに尻尾を振り、私に寄り添った。草の匂い、遠く鳴く雀の声、ガラス越しの光のまぶしさ——小太郎はそれらすべてを、新鮮な驚きで受け止めているらしい。
「コタ、おまえにはどんな景色が見えているのだろうね」私はそう小さく呟いた。答えぬ小太郎だが、その素直な表情に、私はふと心打たれるものを感じた。世の中のすべては、見る者の心により、一つ一つ違うものになるのだと、私は改めて思うのだった。
「言葉にならないもの」
陽が落ちて間もない夕暮れどきの、ほんのりと葡萄色を帯びていた空が、やがて群青へと沈んでいき、いまや藍色の静けさが辺りを包み込もうとしている。
庭先でクロがぴたりと私の傍らに座った。夏の熱気もようやく和らいで、薄闇に浮かぶクロの黒々とした毛並みが、しっとりと風に揺れる。
手にした線香花火の火玉がはぜる音に、クロが耳をぴくりと動かす。その様子が、妙に愛おしい。
火花は小さく、儚い。ぽとりと落ちる瞬間、何かが胸の奥を通り過ぎる。語ろうとしても、言葉にならない。クロもまた、こちらをじっと見上げて、何かを語りかけようとするが、やはり声にはならない。ただ、静かにその眼差しが、意思のようなものを伝えてくる。
線香花火の最後の一滴が落ちて、ただ静けさが残った。クロの温もりを背に受けながら、私は、言葉にならぬ想いが、この夏の終わりにそっと横たわるのを感じていた。
「風を感じて」
午後の微風が、雨上がりの庭先の木々を震わせていた。私は縁側で、よく冷えたスイカを一切れ手に、ぼんやりと木漏れ日を眺めている。隣では、今年で七歳になる愛犬のクロが、鼻先を風に向けてじっとしている。
「クロも、風の匂いを感じているのか」と声をかけると、彼はわずかにしっぽを振り、こちらを見上げた。
スイカの赤い果肉を口に運ぶ。ひんやりとした甘みが、暑さを追い払うように喉を通り抜けた。その間にも、クロは目を細め、風の中の何かを探るようにしている。
私はふと、昔、父と食べたスイカのことを思い出した。父もまた、風を感じながら、「夏はこうして過ごすものだ」と微笑んでいた。
クロが私の手元に顔を寄せてきた。「これはだめだよ」と言いながらも、その素直な瞳に心を和ませる。私は、小さなスイカの欠片を指先で差し出し、そっとクロに分けてやった。
風は、過ぎ去った日々と今を、静かにつないでいるようだった。
「心の羅針盤」
夜も更けて、ふと窓を開けると、星が一つ、青白く瞬いていた。その瞬きは、どこかおずおずとしながらも、確かにこの夜空の一角を支配しているように見えた。夜風がわずかに頬を撫でていく。ひんやりとしたその感触に、私は思わず目を細めた。
人にはそれぞれ、見えぬ羅針盤が心の底に据えられているのではないか、とふと思う。進むべき道に迷ったとき、目の前の明かりに頼るだけでは足りない。むしろ、こうして夜風に吹かれ、遠い星の光に目を向けたとき、静かに何かが指し示されるのを感じるのだ。
若い頃は、羅針盤の針がどこを向いているのかもわからず、不安の中で手探りしていた。しかし幾たびか星空を見上げ、夜風に身を晒すうちに、自分の中の針がふと動く感触を知るようになった。
何が正しい選択なのか、誰が保証してくれるわけでもない。ただ、あの星の光が遠い昔と変わらず私の目に届くように、心の羅針盤もまた、私なりの答えを静かに指し示してくれる。夜の静けさの中で、私はそれにじっと耳を澄ますのだ。