「たまには」
3月5日、光のなかで。
三月にしては、あまりに柔らかな日差し。
春が少しだけフライングして届いたような、そんな午後。
たまには、あてもなく歩いてみよう。
黒い塊のようなクロが、私の数歩先を弾むように駆けていく。
時折立ち止まっては、「来てる?」とでも言うように振り返るその瞳。
私たちは海を目指す。
岬の端っこ、真っ白な灯台が見えてきた。
空の青に吸い込まれそうな白。
何年もそこに立っている、静かな記号。
風はまだ少し冷たいけれど、
クロの背中を撫でると、陽だまりの匂いがした。
日常の隙間に落ちている、こういう静かな時間が
きっと、明日を少しだけ軽くしてくれる。
「大好きな君に」
三月の柔らかな光のなかで、君はいつだって僕の足元にいる。
07:30
「ごはんだよ」
袋を揺らす音に、君は世界で一番幸せなニュースを聞いたような顔をする。
器に落ちるドッグフードの、乾いた、けれど確かな音。
待ちきれなくて、君の前足がフローリングを「タカタカ」と小さく鳴らす。
15:00
黒い毛並みに指を沈めると、春の陽だまりの匂いがした。
「クロ」
名前を呼ぶと、君は首をかしげて僕をのぞき込み、濡れた鼻先を僕の手のひらにぐいっと押しつける。
君の瞳に映る僕は、君が思っているよりもずっと不完全で。
それでも、お腹を見せて無防備に眠る君の姿を見ていると、僕の心も少しだけ透き通るような気がするんだ。
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「大好きな君に」(クロの視点から)
06:00
まぶたをひらくと、大好きな人の匂いがした。
まだ夢のなかにいるあの人の、規則正しい呼吸の音。
僕はそっと、布団から出ているその手首に、冷たい鼻先を押しあててみる。
07:30
「ごはんだよ」
あの人が袋を揺らす。魔法の合図だ。
カサカサ、カラカラ。
器に落ちるドッグフードの音を聞きながら、僕は嬉しくて、足にうまく力が入らなくなる。
しっぽが勝手に、床をパタパタと叩いてしまうんだ。
15:00
あの人はときどき、少しだけ寂しそうな顔をして僕を見る。
そんなときは、わざと力いっぱい体を寄せて、あごを膝に乗せてみる。
「クロ」
名前を呼ぶ声が、僕の黒い毛並みに溶けていく。
あの人が笑ってくれるなら、僕は何度でも、この春の陽だまりのなかで踊ってみせるよ。
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「ひなまつり」
三月三日。
春の光が、部屋の隅にある埃を静かに照らしている。
今日はひなまつり。
大きなボウルに、彩り豊かなちらし寿司を作る。
酢飯の匂いがツンと鼻を抜けて、なんだか遠い記憶の扉を叩く。
特別な日の、あの落ち着かない、でも少しだけ誇らしい気持ち。
足元では、愛犬のクロが「自分も混ぜて」という顔をして見上げている。
黒い鼻をひくひくさせて、春の匂いを確認しているみたい。
幸せは、きっとこういう、なんてことない瞬間の積み重ねだ。
ひな人形は出さなかったけれど、
クロと、この鮮やかなお寿司があれば、
私の心には十分、静かな春の風が吹いている。
「物憂げな空」
銀色の午後。
窓の外は、境界線が溶け出したような物憂げな空。
雨が降る直前の、あの重くて静かな灰色が部屋に満ちている。
テーブルには、少し冷めたカフェオレ。
カップの縁にわずかに残った泡の跡を、スプーンの先で静かになぞりながら、
押し入れの奥で見つけた古いアルバムをめくる。
セピア色の写真の中の私は、今よりもずっと、
「永遠」という言葉を簡単に信じていたみたいだ。
足元では、愛犬のクロが深く息をついて丸まっている。
その規則正しい寝息だけが、この止まった時間の中の唯一の時計だ。
「ねえ、クロ。私たちはどこへ行くんだろうね」
答えのない問いを飲み干して、私はまた、
銀色の空の向こう側を眺めている。
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「もう一日の断片」
雨上がりの午後のひかり。
昨日の雨が嘘のように、雲の間から薄いひかりが差し込んでいる。
物憂げな空は、洗い立てのシーツみたいに少しだけ軽くなった。
テーブルの上には、今日もカフェオレ。
スプーンでゆっくりとかき混ぜると、ミルクの色が渦を巻いて、
私のとりとめのない思考と一緒に溶けていく。
古いアルバムはまだ、開いたままそこにある。
愛犬のクロが、そのページの上にわざとらしく顎を乗せて、
「もういい加減にして」とでも言うように私を見上げた。
「わかったよ、クロ。もうすぐ散歩に行こう」
過去の私と今の私が、ふっと重なるような感覚。
新しく淹れ直した温かい一杯を飲み干して、
私は重い腰を上げた。
••┈┈ ˖ ࣪⊹ᴛʜᴀɴᴋ ʏᴏᴜ𖥔. ִֶָ𓂅 ┈┈••
「ゼロからの」
5:42
まだ色のない海。
世界がはじまる前の静けさを、クロの冷たい鼻先がつつく。
「もうすぐだよ」
真っ暗な砂浜に座ると、隣でクロが大きなあくびをした。
6:05
水平線の端が、じわりと滲む。
オレンジでもピンクでもない、名付けようのない光。
昨日までの後悔も、使い古した言葉も、すべて波がさらっていった。
ただ、新しく引き込まれた潮の匂いがあるだけ。
6:15
朝日は、容赦なく今日を連れてくる。
光の粒がクロの黒い毛を金色に縁取った。
なにも持たずに、ここから始めればいい。
真っ白なノートをひらくみたいに、まっさらな心で。
「帰ろうか」
駆け出したクロの足跡を、新しい波がすぐに消していった。