「星になる」
コーヒーの湯気のように、
この世界からそっと、
立ちのぼっていきたいと思うことがある。
ベランダから見上げる夜空は、
いつもひどく遠い。
でも、きっとあの星々は、
誰かがこの場所を恋しく想う心でできている。
クロが膝の上で小さく寝息を立てる。
その重みと温かさが、
私を今の場所に繋ぎ止めるアンカーだ。
いつか、私がこの身体を抜け出し、
ただの光の粒になったとしても、
クロの夢の中くらいには、
時々、ふわっと降りていきたい。
温かいマグカップを両手で包みながら、願う。
愛しいものの記憶の中で、
私はただ静かに輝くひと粒の星になりたい。
それで充分。
クロが顔を上げ、私を覗き込む。
まだ、お散歩の時間じゃないよ。
大丈夫。もう少し、ここにいるからね。
夜空を超えて
この街の屋根の向こう、星が流れる。
今日という一日が終わった場所。
ベランダに出ると、クロがついてきた。
夜の冷たさとは無縁の、
あたたかい毛並みが足に触れる。
「クロ、あそこだよ」
指差す先に、銀色の月。
まるで、誰かの落とした大きなコインみたいだ。
クロは空を見上げない。
わたしの顔を見る。
たぶん、この子の宇宙はわたしの腕の中にある。
わたしが夜空の遥か遠くに心を飛ばすとき、
クロは地面にいる。
けれど、それでいい。
わたしの「超えて」ゆく想いと、
クロの「ここにいるよ」という体温。
そのふたつが、
この夜を一番、穏やかな場所にしてくれる。
「ぬくもりの記憶 」
雨上がりの午後、窓を叩く音が遠い記憶の扉を開けた。あの日の匂い。クロの毛の、乾いた草のような、少し土っぽいぬくもり。
ソファの角で丸くなるクロの、時折小さく震える呼吸を聞きながら、私は冷めたコーヒーをすすった。いつだって、このカップの白さと液体の黒さは、私を静かな思考へと連れ去る。
クロが老いて、眠る時間が長くなった。指先に感じるゴツゴツとした背骨の感触が、そのまま時間というものの手触りのように思える。
コーヒーの苦味の奥に、いつも彼の存在があった。
特別なことは何もない。ただ、そこにいるということが、私の世界に確かな熱を置いていく。
もし、このぬくもりがいつか遠いものになったとしても、私の手のひらは、きっとこの穏やかな重さを永遠に覚えているだろう。
凍える指先と、クロの温もり
この冬一番の冷え込みが、窓ガラスを細かく叩く夜。
暖房をつけた部屋の中でも、
キーボードを打つ指先だけは、
もう随分前から氷みたいに冷たくなっている。
まるで、私だけ別の季節にいるみたいだ。
「大丈夫かい?」
そう言ってくれる声があればいいのに、
聞こえるのは時折聞こえる、愛犬クロの寝息だけ。
毛布にくるまって丸くなった黒い塊は、
たったそれだけで、
部屋の空気をふわりと暖かくしてくれる。
さっき淹れたはずのコーヒーも、
カップの中でもうすっかり冷たくなって、
湯気一つ立てていない。
それでも、一口飲む。
苦い、けれど、体には沁みる。
凍えた指先を、
クロのやわらかい頭にそっと乗せてみる。
温かい。
この温かさがあれば、もう少し、
この静かで冷たい夜と付き合っていける気がする。
「消えない灯り」
夜のしじま。
電気を消しても、窓から微かに届く月の光が、
床にいるクロの輪郭を優しく縁取る。
もうずいぶん長く一緒にいる。
彼が私を見つめる、あの潤んだ黒い瞳。
その奥にある純粋な信頼は、
どんな嵐の中でも揺るがない、
私の心の底で灯り続ける小さな炎だ。
ふと、自分の手のひらを広げてみる。
何かを掴んでいるわけではないけれど、
そこにはいつも、
クロの温もりがあるような気がする。
いつか、すべてが変わってしまう日が来るだろう。
それでも、この「愛されていた」という事実は、
消しゴムでも消せないインクのように、
私の人生という紙に深く染みついている。
クロ、お前は本当に、私の消えない灯りだ。