euryale

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9/15/2022, 3:38:54 AM

【命が燃え尽きるまで】


――最低だ、私……。
――なにやってるんだろう……。

……
…………

仕事が終わるなり、すぐに走って帰ってきた。
そして、家に着くや否やこの部屋に直行して……

「…………」

(ああ、死んでる……)

部屋の片隅に設置していた、小動物用の小さなケージ。
その中で、うさぎのルナが力尽きていた。

この体勢で目を閉じて眠っているのは、ルナにはよくあることで……
それでも、眠っているのではなく死んでいるのだと、一目見ただけで判ってしまった。

「…………」

ケージの前にしゃがみこんで、動かないルナをじっと見つめる。
頭の中が真っ白で、何も考えられない。

「…………」

それでも、やがて感情が巡り始める。
ごく小さな火花のように発生したそれは、たちまち業火と化した。

(最低だ、私……)
(なにやってるんだろう……)

それは、悲しみが入り込む余地もないほどの――
激しい怒りだった。

ここ数日、ルナは調子が悪かった。
ごはんに全く手をつけず、辛そうに目を細めて静かに丸くなっていた。
仕事を休み、慌てて動物病院に連れて行ったのが一昨日のこと。

(なんて言っても、もう9歳だし……)
(人間に換算したら80歳……)
(そろそろ何があってもおかしくない……)

そんなことを考えつつ、薬を飲まして……
それでもあまり様子が変わらなかったので、私は昨日も会社を休んで付きっきりでルナの傍にいた。

(これが最後かもしれない……)
(だったら、ずっと傍にいてあげたい……)

そんなふうに思ったのは、実際にはルナのためというより、自分のためだったのだろう。
でも、辛そうなルナの介助をして、少しでも苦痛を和らげてあげたいと思ったのも嘘じゃない。

「大丈夫、一緒にいるからね、ルナ」

そして、今朝――
ルナは少し元気になっていた。
私がケージに近付いて中を覗き込むと、嬉しそうに寄ってきてくれた。

(ああ、薬が効いてくれたんだ!)

自発的に水を飲むルナを見て、安堵の涙が出てきた。
だから私は――

(よし、それじゃ、今日は会社に行こうかな)

――なんてことを考えてしまった。
そして、いつも通りの時間に家を出て、会社に向かった。

途中、幾度となく、

(でも、本当に元気になったのかな?)
(まだ様子見をした方がいいんじゃないかな?)

と、不安になったが、

(でも、さすがに3日連続で休むのはみんなに迷惑掛けすぎだし……)
(今日は、お客さんとの打ち合わせの予定もあるし……)
(きっと大丈夫、大丈夫よ……)

などといった考えに流され、心のどこかで感じ取っていた『嫌な予感』から目を逸らしてしまった。

その結果、私は……
最期の時を、ルナに寄り添って過ごしてあげることが出来なかった。
ひとりぼっちで旅立っていったルナを思うと……

「ごめん……ごめんね、ルナ……」

申し訳なさに、涙がぼろぼろと溢れ落ちた。
魂の抜けたルナを見つめながら、私はルナへの謝罪の言葉を唱え続ける。
その間も、心の内では自責の念が止まらない。

(なんて身勝手なんだろう……)
(私は、どうして……なんで……こんな、いつも、自分本位で……)

握りしめた膝に爪が食い込む。
怒りと憤りに、両手がわなわな震えていた。

(ルナ、ごめん……)
(私、自分のことばかりで……)
(ごめんね、ごめんね……)

(何となく嫌な予感がしてたの……)
(でも、私はそれを無視した……)
(仕事なんかより、ルナの方がずっと大事なのに……)
(そういうつもりでいたはずなのに、結局は仕事を選んでしまった……)

(しかもね、プロ意識とかそういう立派な理由で仕事を選んだんじゃないの……)
(職場のみんなの目を気にして……ただ「悪く思われたくない」って、単にそれだけ……)
(そんなくだらないことを重んじて、ルナのことを軽んじて……)
(本当に……どうしようもないクズだね、私……)

(あとね、本当はこんなの間違ってるの……)
(ルナが死んでしまったのだから、ここは心の底から悲しみに暮れるべき場面なの……)
(なのに、私は自分に腹を立てて、悔やんで、自己嫌悪して……)
(ルナのことそっちのけで、自分のことばかり考えてる……)

(ああ、どうしてこうなの、私は!)
(いつだって自分のことばかりで、大切な存在さえ大切に出来なくて!)

「ル、ナ……ルナぁ……」

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

「寂しい思いさせて、ごめんなさい!」

子どもみたいに声を上げて――
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして――
私はルナに謝り続けた。

どれだけ謝ってももう届かないし……
何より、届いたとしてもルナにとってはどうでもいいことだろうに……
それでも賤しく謝り続けた。


―END―

9/11/2022, 6:49:44 PM

【カレンダー】


帰宅した茂樹が、やり遂げた顔をして俺んとこに向かってきた。

「彰、聞いてくれや」
「なんや?」
「俺な、歯医者ん予約取ってきたで!」
「は??? いや、そんなんでいちいちドヤんなやw」
「なんでや!? 褒めろや!w」
「知らんがなw で、予約いつなん?」
「来週ん火曜、夜六時半」
「残業とか、大丈夫そうなん?」
「んー……たぶん大丈夫やと思うんやけどなー」
「早めに周りに話しといて、フラグ立てといた方がええで」
「そやな、そしたら帰りやすいわなw」

繁樹はゴム部品の製作所で働いてる。
最近は暇らしくて、今日みたいに定時で帰ってくることも多いし――
その日もまぁ、何とかなるんちゃうやろうか。知らんけど。

「しっかし、来週火曜・六時半、来週火曜・六時半……忘れそうでヤバいわ。最近、記憶力怪しいねん」
「わかる、俺もや」
「いや、おまえはあかんやろw 事務所務めなんやから、しっかりせえやw」
「そう言われてもなぁ……」

俺はガス器具を取り扱う会社で、事務方をやっている。
繁樹が言うように、確かに事務所務めやけど、だからと言うてもう四十路半ばやで?
記憶力の低下から逃れられるわけないやろ。

「あかん、たぶん忘れるわw そもそも、俺、予約とか嫌いやねん」
「そやな、わかるわ」

そう、俺もこいつも予約ってもんがあんまり好きちゃう。
髪切る時も絶対に予約がいらんとこに行くし、外食も予約が必要な店は選ばん。
言うて、新発売の本やらゲームやらを通販で買う時の予約くらいはするけどな。

「だって、普通に考えて、予約なんかしても、予約したことを忘れへん?w」
「それ、本格的に記憶力ヤバいやんww」
「www」

「つうか、そういう時はな、カレンダーに予定書いとくとええねんで?w」
「おお、やるやんw さすがは彰やで! 事務所務めは伊達ちゃうなぁww」
「そやろ?ww」

ケラケラ笑いながら、繁樹は食卓の横のカレンダーの方に足を向けた。

「ちょっw カレンダー、一月のまんまなんやけどww」
「えっ、一月!?w」

俺もカレンダーに目を向ける。
ホンマに一月のままやった。

「今、九月なんやけどwww」
「誰もめくってへんとかwww」

二人でゲラゲラ笑う。

「おまえ、なんでめくらへんの?w」
「いや、おまえこそ、なんでめくらへんねんw」
「だって、めんどいしw」
「俺かて、めんどいわw」
「あかんやんwww」
「最悪やwww」
「wwwww」
「wwwww」

「でも、確か去年もこんなんやったよな?w」
「そやで、去年も一昨年もその前も、確かこんな話したはずやでww」
「wwwww」
「wwwww」

うちの会社は毎年、自社カレンダーを作っとる。
そんで、毎年年末には「これ持って帰りぃや」と、社員全員に一冊ずつが配られる。
で、持ち帰った俺は、とりあえず食卓の横に貼っとる。

でも、誰もめくらへん。
だから、常に一月のまま。
めくられへんカレンダーは、もはや我が家の名物やな。

「もうええわw やっぱ書くのはめんどいし、歯医者の日はちゃんと覚えるようにしとく」
「おお、頑張れやw」

繁樹は結局、歯医者の予定を書き込まんかった。
というか、カレンダーをめくらんかった。

(まぁ、そやろなぁ……)

俺と繁樹――
俺らが二人で暮らすようになって、もう二十年近くになる。
あの当時は今みたいにLGBTとかいう言葉も知られてなくて、色々地味にやりにくいこともあった。
そんでも、あの時「繁樹と一緒に暮らす」と決めた自分を、俺は褒めてやりたい。

繁樹との生活は、とにかく楽。
ラクで、楽しい。

この前は、繁樹が「たこせん食いたい」って言い出して、俺が「ホットケーキ食いたい」って言うたから、晩飯がたこせんとホットケーキになった。
その晩飯は、他のご家庭やったらアウトやろ。

テレビのラーメン特集を見てラーメンの気分になったものの、最近の下腹の出も気になってて……
「そうや、歩いてカロリーを消費すればええねん!」と閃いて、往復三十キロを歩いてラーメンを食いに行くとかアホなこともした。

休日には酒盛りしながら徹夜でゲーム大会したり、行先も決めずにふらりとツーリングに出たり、アニメに影響されて釣りキャンプに行ったり……
なんやもう、遊んでばっかりやw

毎日、思っとる。
「こんな毎日がずっと続きますように」って。

もちろん、永遠に続くわけないのは解っとるし、俺らももうおっさんやから、老後への不安がないわけでもないけど。
「跡継ぎ的なもんがおったら、将来不安って多少は和らいだりすんのかなー?」とか、たまには思ったりもするけど。
そんでも、一日一日がめっちゃ楽しい。
毎日、笑い転げて暮らしとる。

世間一般的に『普通』と言われてる、子持ちの異性カップルに比べたら、俺らは圧倒的に縛りが少ない。
特に、時間の流れに縛られることがないのが大きい。
成長の早い子どもがおると、どうしても時間の流れに縛られてしまうやろ?
幼稚園から小学校、小学校から中学校、中学校から高校――
そんな変化に付き合わんとあかん親は、どうしても時間の流れに縛られてしまう。

もちろん、それが悪いとは全然思わん。
きっとそれ故の楽しみ・苦しみが色々あるんやろうしな。
立ち位置が違うから、いいもんも悪いもんも含めて得られるもんが違うってだけや。

というか、世間的にはむしろ、縛られてへん俺らの方が悪者やろうけどな。

「大人の義務を果たしとらん」――
「無責任な生き方をすんな」――

まぁ、正直、そう言うて責めたなる気持ちは解るわ。
そんでも、誰に責められようが、縛られへん今の暮らしが俺は本気で気に入っとって絶対に捨てられへん。

俺らの暮らしは――
言わば、国民的アニメの世界と同じや。
季節が巡っとるのに、登場人物がいつまでも歳を取らんっていう、アレな。

そう、アレと同じ。
俺らは、まるでループする世界の中を生きるように、毎日を面白可笑しく過ごしとる。
めくられへんカレンダーは『縛られることのない楽しい毎日の象徴』というわけやな。

(だから、俺も繁樹も予約が嫌いやし……)
(なんとなーく、カレンダーをめくらんようにしとるんやろうなぁ……)


―END―


9/10/2022, 6:12:28 PM

【喪失感】


『破れ鍋に綴じ蓋』という言葉がある。
壊れた鍋にも、それ相応の蓋があること。
ひいては、どんな欠点を持つ人にもそれに相応しい伴侶がいることの喩え。

その言葉を私に教えてくれたのも、蓮くんだった。

大学に入ってすぐ、チュートリアルとして研究室に向かうよう指示された。
なんでも、自分でやりたいことを見つけて研究室を選ぶ前にとりあえず研究室の制度を知って雰囲気を体験しておけ、とのことらしい。
学籍番号で適当に割り振られた研究室。
そこにいた一つ上の先輩が、蓮くんだった。

蓮くんは最初、私に全然興味なさそうで、一言も話し掛けてこなかった。
でも、新入生に興味を持って色々話し掛けてきた人達が好奇心を満たして去っていった後、私が困っていたりするとさり気なく助言をくれた。
私は小中時代に二回の転校経験があったので、何となく「最初に話し掛けて来る人より、こういう人の方が信用できる」ということを肌で知っていた。

彼は物静かで、知的な人だった。
親切だけど、どこか一線を引かれている感じがした。
思慮深くて、自他の内面に深い関心を持ち、しばしば哲学的な発言をした。

私はすぐに彼を好きになってしまった。
寝ても醒めても彼のことばかり考えるようになった。
彼と接点を持てた日は最高に幸せで、何もない日は溜め息ばかりを吐いていた。

とはいえ、私たちの進展は決して遅くはなかった。
夏になる頃にはもう、私たちの距離はだいぶ近付いていた。

私と蓮くんは、とにかくよく話が合った。
ちょっとした立ち話が一時間コースになり、
疲れてベンチに座って話しては二時間コースになり、
おなかが空いてファミレスに移動して語り合えば夜明かしコースになった。
どれだけ話しても話題は尽きず、私たち二人なら、永遠にだって話し続けられるんじゃないかと思ったものだ。

彼の価値観が新鮮だった。
厳密には、自分以外の人間がここまで自分に近い価値観を持っていることが新鮮だった。
もちろん完全一致なんて有り得ないし、お互いの個性による差異はあった。
でも、その差異が明らかになるのがまた良い刺激となって……ますます病みつきになってしまった。

彼のことは好きだったけど、特に頑張って彼にアプローチをした記憶はない。
後に、彼もまた同じことを言っていた。
私たちはただ「二人で過ごしたい」と強く望み、その結果、現実の方が引っ張られた。
私たちの望みは、双方が何の努力もしないままにすんなりと叶っていった。

何となく、雰囲気に流されて初めてのキスをして……
そこで初めて、私は彼に「好きです」と告白した。
それからお約束の「付き合ってください」も付け加えた。
すると彼は、

「付き合うのはやめた方がいいよ。俺、たぶん浮気するから」

と、至って真面目な顔で言った。

多分、普通なら、その言葉にはショックを受けるんだろう。
けれど、私はとても嬉しかった。
だってその言葉は『いかにも蓮くんが言いそうなこと』だったから。

「でもさぁ、私だって、たぶん浮気するよ?」
「そうなの?」
「今は絶対しないし、きっと今週はしない。でも、一ヶ月後、一年後……どんどん不確かになっていく」
「そうだね。俺もそう思う。『付き合う』って関係は、お互いが一途であり続けるという約束を交わすことだから……未来の自分を信用出来ない俺が手を出すのは不誠実な気がする」
「そんなの、私だって同じだよ? 私も蓮くんも、時間経過とともに変わっていくもの。今、どれだけ強い気持ちを持っていようと、いずれはそれが失われる日が来るよ」

自分に自信を持てない、似たもの同士。
私たちは『付き合う』という関係を結ぶに際して、一つのルールを決めた。

「もし、どちらかが浮気をしたら、浮気をした方が、二人の関係の決定権を持つ」――

つまり、仮に蓮くんが浮気をしたとして、
「他に好きな人が出来たから、おまえとは別れる」と言えば、私はそれを呑んで身を引く。
「他に好きな人が出来たから、その子とおまえと二股掛ける」と言えば、私はそれを呑んで二股を容認する。
そういうことになる。
逆も然りだ。

『浮気したもん勝ち』なこのルールを良しとする――
恐らく、世間一般的にはどうかしているんだろうけど……それが私たちだった。
まさに、破れ鍋に綴じ蓋とはこういうことなんだろう。

そうして、二年が経った夏……

「他に好きな人が出来た。別れて欲しい」

そう言って、蓮くんは唐突に私との関係を清算した。

その時の喪失感は凄まじく……
まさに、半身をもぎ取られたように痛かった。

(もし、本当に浮気だったら……)
(どれだけ良かったか……)

私と別れた後、彼はいきなり大学を辞めた。
連絡も一切つかなくなった。

(他に好きな人が出来たくらいで、卒業まであと半年のところで大学を辞めたりする?)
(そんなわけないよね?)

(ねぇ、本当は何があったの?)
(なんで、私には何も事情を話してくれなかったの?)
(遠慮したから?)
(役に立たないから?)

通じ合っていると信じていたから……
一方的に切り捨てられたことが、頼られていなかったことが、戦力外通告されたことが、
悲しくて、辛くて、苦しくて……
どうにかなってしまいそうなくらい痛かった。

……
…………

「大親友が少数と、まぁまぁ親しい友人が多数だったら、どっちがいい?」
「私は、大親友が少数の方がいいなぁ」
「俺もそう思う。でも、前者より後者の方が適応的で、健全で、望ましいらしい」
「まぁ、言ってることは解るよ。支えの数が少ないと、それが失われた時に大きく傾いてしまうもんね」
「そうそう。依存先は多いに越したことはない。一つが失われても他が残って支えになってくれるから」

…………
……

時間が傷を癒し……
なんとか立ち直ったふりが出来るようになった。
でも、私の中から、彼の影響が失われることはなかった。

(依存先は多いに越したことはない……)

狭くて深いのが、好きだった。
でも、その危うさを身をもって知ってしまった私は、浅くて広い生き方を選ぶことにした。

趣味を増やし、友人を増やし、好きなものをどんどん増やそうとした。
仕事も遊びも学びも、入れ込み過ぎない程度に打ち込んだ。

そして、そんな生活の中、出会った一人の男性と結婚した。
彼は、蓮くんとは全然違う。
単純で、とてもわかりやすい人だ。
子どもも二人生まれて、今はそれなりに幸せに暮らしている。

けど……
今でも、たまに妄想してしまう。

――もし、蓮くんが私の目の前に現れたら?
――今からでも、あの時のことをちゃんと説明して謝ってくれたら?

(そしたら、私……)
(今の家族と暮らしを全部捨ててでも、彼と……)

とてもいけないこと。
口が裂けても、誰にも言えないこと。
だけど、今でもそういう妄想をしてしまう。

(破れ鍋に綴じ蓋……)

その一体感を私は知ってしまった。
もし知らないままでいれば、きっと今を最高に幸せと感じられただろうに――……


―END―

9/10/2022, 2:01:14 AM

【世界に一つだけ】


「退職願、出してきました」
「おお、ついに」
「受理して貰えました」
「スムーズに話が纏まって良かったね。で、会社来るのはいつまで?」
「来月の末まです」
「そっかぁ、来月までか……」

俺の退職の話……
誰よりも伝え辛いと思っていた相手が、この笹木先輩だ。
何故なら、俺が辞めたことによるしわ寄せは、大半がこの人にいくことになるだろうから。

(苦労を掛けると分かってるのに、勝手に一抜けして……)
(こんなの、裏切りみたいなもんだよな……)

その考え方が正しくないのは解っている。
俺の人生は俺の人生なのだから、俺が「もう無理」と思った時点で別の生き方に舵をきるべきなのだ。
同情から遠慮して、ずるずる現状に呑まれて堕ちていく方が絶対に間違っている。

でも……
理詰めでは罪悪感を抑えきれないほどに、俺はこの人にたくさんお世話になってきた。

「阿部くんが辞めたら淋しくなるなぁ」
「俺の代わりなんか、すぐに出てきますよ」

俺たちは『社会の歯車』――
その表現は「いくらでも替えがきく」という事実を、非常に的確に言い表している。

「えー、そんなことないと思うけどなぁ」

そう言って、笹木先輩は自分のデスクから一冊のメモパッドを取り出した。

「これ、覚えてる?」

忘れるはずがない。
英会話教室のノベルティ。
俺が彼女の補佐を卒業して、初めて自分一人で担当した案件のグッズだ。

「私さぁ、『唯一無二』って気持ちの問題だと思うんだよね」

笹木先輩がメモパッドの表紙に視線を落とす。

「世界に一つだけの素晴らしい絵画でもさ、絵に興味が興味がない人からすると『そんなん知らんがな』って感じでしょ?」
「……まぁ、そうでしょうね」

「逆に、ダサい安物のアクセサリーでも、大事な人からのプレゼントだと『一生大事にしよう』って思えたりするじゃん?」
「……それも、まぁ、そうですね」

「人命は掛け替えのない大切なものっていってもさ、実際、顔も名前も知らない人がどこか遠くで死んだって聞かされても、あんまりピンとこなくない?」
「……そうですね」

笹木先輩の指先が、メモパッドの表紙を優しくなぞった。

「世間一般の人からすると、このメモパッドはどこにでもありそうな安っぽい消耗品なんだろうね。けど、私からすると世界に一つだけの思い出の品なんだよ」

ニコッと笑う笹木先輩。
だが、俺は疑問に思ってしまった。

「……??? え、なんで、それが笹木さんの思い出の品? それ、担当したの俺なんですけど???」

途端、笹木先輩が(゚ロ゚)こんな顔になった。

「えーっ!? だってこれ、納品が終わった後、阿部くんが私にくれたんだよ?」
「それは、覚えてますけど……」
「『色々ありがとうございました。何とかやりきれたのは笹木さんのおかげです』って言ってくれてさ、今更だけど、私、あの時すっごく嬉しかった!」
「えー? いや、でも、お礼を言うのは普通ですよ。だって、実際にめちゃめちゃお世話になったんですから」
「ううん。残念ながら、阿部くんは普通じゃない。だって、うちの会社、お礼とか言う人他に誰もいないじゃんか」
「……あっ」

秒で納得してしまった。
そう、そんな荒んだ社風だからこそ、俺は「辞めたい」と思うようになったわけで。

「私ね、ずっと阿部くんのこと『まともな子だなー』って思ってた」
「まとも、て……」
「それで『この子はいずれここを出ていくだろうなー。その方がこの子にとってはいいんだろうなー』って思ってた」
「…………」
「でね、『その時が来たら、その選択を肯定して応援してあげよう!』って思ってた」
「…………」

「私、阿部くんには本当に感謝してる。うちの腐った社風に染まらないままでいてくれてありがとね」
「いや、そんな……」
「それがどれだけ私の癒しと救いになったことか」

先輩が笑って肩をすくめる。
それから、メモパッドを丁寧に元の引き出しに片付けた。

「あの……ありがとうございます」
「んー?」
「そのメモパッド、大事に置いてくれてて……」
「いや、別に大事には置いてないからね。引き出しに入れっぱなしにしてただけだし」

そうは言うが、本当は大事にとっておいてくれたのだろう。
何せ、笹木先輩は5Sの権化かよってくらい整理整頓を徹底してやる人だし。

「それでも、ありがとうございます」

俺の方こそ、先輩の存在が癒しで救いだった。
まぁ、逆に、先輩の存在があったからこそ、退職の決断がここまで先延ばしになってしまったとも言えるけど。

(唯一無二……)

そう言えば、俺も先輩から最初に貰った書類作成のお手本を今もずっと持っている。
もうそれがなくても仕事は出来るし今更使うこともないのに、不思議と捨てようと思ったことがない。

(気持ちの問題、か……)

職場が変わって、
ひょっとしたら業種や職種まで変わるかもしれなくて、

(それでもきっと、俺は……)

笹木先輩が俺のために作ってくれた手ほどきメモを、ずっと手元に残しておくんだろうな。


―END―


9/8/2022, 4:10:41 PM

【胸の鼓動】


ついに感染してしまった。
新型コロナウイルス。

――と、言いつつ、掛かったのはもう一月半も前のこと。
症状も軽症で、療養期間が明けるなりすぐに職場に復帰した。

ただ、今も残る気掛かりが一点……

(あ、また、ドクンってきた……)

あれ以来、動悸がする。
思わずハッとして静止してしまうくらい、唐突にドクンと大きく胸が鳴るのだ。

それまで動悸なんて経験なかった。
コロナになって初めて体験した。
で、あれからずっと……今に至るまで続いている。

(しつこいなぁ、後遺症……)

息苦しさはあまりない。
痛みは全然ない。
でも、急にドクンとくるとやはり怖くて……
自分の体がどうにかなってしまいそうで……
妙に不安になってしまうのだ。

(治ってからもう結構経つのになぁ……)

「ただいまー」
「あ、おかえりなさい」

潤也――夫が帰宅した。
私はキッチンに移動して、さっき作っておいたシチューを温めはじめる。

「今日は大変だったよ。いつもの外注先がさ、コロナが出たとかいって現場を臨時休業にしてきてさぁ」
「……ふうん」
「まったく、大袈裟だっつうの。コロナなんてただの風邪なのに」

これが、潤也のいつもの主張。
PCR検査で陽性が出て、感染確定した私が高熱に苦しんでいた時も同じことを言っていた。

「……ただの風邪ってことはないと思うけどね。治って一ヶ月半経つのに、未だに動悸がするなんてやっぱり変だよ」
「いや、真希はいつもそう言うけどさ、それ多分コロナ関係ないから」
「病院の循環器内科で診てもらった結果、コロナの後遺症だろうって言われたんだけど」
「それ誤診なんじゃないの? どっちかと言えば、真希が行くべきなのは心療内科だと思うけどね」
「なにそれ? どういう意味?」
「だから、心因性の症状じゃないかってこと。メンタルが弱ってるから動悸が起きる、みたいな?」
「…………」
「なんて言うか、真希はさ、コロナを恐れすぎなんだよ。その恐怖が動悸を引き起こしているのかもよ?」
「…………」
「そんな怖がる必要ないでしょ。コロナなんかただの風邪なんだしさ」
「…………」

まぁ、私のメンタルが弱っているのは間違いない。
この一月半、私と潤也はこんな応酬を何度も何度も繰り返してきた。
その度に、私は何とも言えない徒労感に苛まれてきた。
心がすり減っていることには自覚がある。

「それよか、おなか空いたよ。今夜はシチュー?」
「……うん、シチュー」

シチューはいい感じに温まった。
火を止めて、皿に盛り付ける最中、

「……あっ」

また、胸の鼓動が大きく響いた。
思わず手が止まってしまう。

「なに? また動悸?」
「……うん」
「やっぱさ、行った方がいいよ。心療内科」
「…………」

結局のところ……
潤也にとっては、私の不調より「コロナは風邪」という自分の主張の正当性の方が大事なのだろう。
私の動悸がコロナ由来だと認めると都合が悪い。
だから、やたらと心因性の動悸だということにしたがる。

(そんな不自然な目の逸らし方さぁ……)
(とてもじゃないけど、私のことを本気で心配してくれてるように見えないよ……)

うるさく高鳴るくせに……
私の心臓は冷えていく一方だ。

(昔はこんな奴にドキドキしたこともあった……)
(すごく好きで、一緒にいると幸せで……)
(それで、ついには結婚までしちゃって、さぁ……)

(…………)

(ははっ、今になって思えばバカみたいだわ……)


―END―

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