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【世界に一つだけ】


「退職願、出してきました」
「おお、ついに」
「受理して貰えました」
「スムーズに話が纏まって良かったね。で、会社来るのはいつまで?」
「来月の末まです」
「そっかぁ、来月までか……」

俺の退職の話……
誰よりも伝え辛いと思っていた相手が、この笹木先輩だ。
何故なら、俺が辞めたことによるしわ寄せは、大半がこの人にいくことになるだろうから。

(苦労を掛けると分かってるのに、勝手に一抜けして……)
(こんなの、裏切りみたいなもんだよな……)

その考え方が正しくないのは解っている。
俺の人生は俺の人生なのだから、俺が「もう無理」と思った時点で別の生き方に舵をきるべきなのだ。
同情から遠慮して、ずるずる現状に呑まれて堕ちていく方が絶対に間違っている。

でも……
理詰めでは罪悪感を抑えきれないほどに、俺はこの人にたくさんお世話になってきた。

「阿部くんが辞めたら淋しくなるなぁ」
「俺の代わりなんか、すぐに出てきますよ」

俺たちは『社会の歯車』――
その表現は「いくらでも替えがきく」という事実を、非常に的確に言い表している。

「えー、そんなことないと思うけどなぁ」

そう言って、笹木先輩は自分のデスクから一冊のメモパッドを取り出した。

「これ、覚えてる?」

忘れるはずがない。
英会話教室のノベルティ。
俺が彼女の補佐を卒業して、初めて自分一人で担当した案件のグッズだ。

「私さぁ、『唯一無二』って気持ちの問題だと思うんだよね」

笹木先輩がメモパッドの表紙に視線を落とす。

「世界に一つだけの素晴らしい絵画でもさ、絵に興味が興味がない人からすると『そんなん知らんがな』って感じでしょ?」
「……まぁ、そうでしょうね」

「逆に、ダサい安物のアクセサリーでも、大事な人からのプレゼントだと『一生大事にしよう』って思えたりするじゃん?」
「……それも、まぁ、そうですね」

「人命は掛け替えのない大切なものっていってもさ、実際、顔も名前も知らない人がどこか遠くで死んだって聞かされても、あんまりピンとこなくない?」
「……そうですね」

笹木先輩の指先が、メモパッドの表紙を優しくなぞった。

「世間一般の人からすると、このメモパッドはどこにでもありそうな安っぽい消耗品なんだろうね。けど、私からすると世界に一つだけの思い出の品なんだよ」

ニコッと笑う笹木先輩。
だが、俺は疑問に思ってしまった。

「……??? え、なんで、それが笹木さんの思い出の品? それ、担当したの俺なんですけど???」

途端、笹木先輩が(゚ロ゚)こんな顔になった。

「えーっ!? だってこれ、納品が終わった後、阿部くんが私にくれたんだよ?」
「それは、覚えてますけど……」
「『色々ありがとうございました。何とかやりきれたのは笹木さんのおかげです』って言ってくれてさ、今更だけど、私、あの時すっごく嬉しかった!」
「えー? いや、でも、お礼を言うのは普通ですよ。だって、実際にめちゃめちゃお世話になったんですから」
「ううん。残念ながら、阿部くんは普通じゃない。だって、うちの会社、お礼とか言う人他に誰もいないじゃんか」
「……あっ」

秒で納得してしまった。
そう、そんな荒んだ社風だからこそ、俺は「辞めたい」と思うようになったわけで。

「私ね、ずっと阿部くんのこと『まともな子だなー』って思ってた」
「まとも、て……」
「それで『この子はいずれここを出ていくだろうなー。その方がこの子にとってはいいんだろうなー』って思ってた」
「…………」
「でね、『その時が来たら、その選択を肯定して応援してあげよう!』って思ってた」
「…………」

「私、阿部くんには本当に感謝してる。うちの腐った社風に染まらないままでいてくれてありがとね」
「いや、そんな……」
「それがどれだけ私の癒しと救いになったことか」

先輩が笑って肩をすくめる。
それから、メモパッドを丁寧に元の引き出しに片付けた。

「あの……ありがとうございます」
「んー?」
「そのメモパッド、大事に置いてくれてて……」
「いや、別に大事には置いてないからね。引き出しに入れっぱなしにしてただけだし」

そうは言うが、本当は大事にとっておいてくれたのだろう。
何せ、笹木先輩は5Sの権化かよってくらい整理整頓を徹底してやる人だし。

「それでも、ありがとうございます」

俺の方こそ、先輩の存在が癒しで救いだった。
まぁ、逆に、先輩の存在があったからこそ、退職の決断がここまで先延ばしになってしまったとも言えるけど。

(唯一無二……)

そう言えば、俺も先輩から最初に貰った書類作成のお手本を今もずっと持っている。
もうそれがなくても仕事は出来るし今更使うこともないのに、不思議と捨てようと思ったことがない。

(気持ちの問題、か……)

職場が変わって、
ひょっとしたら業種や職種まで変わるかもしれなくて、

(それでもきっと、俺は……)

笹木先輩が俺のために作ってくれた手ほどきメモを、ずっと手元に残しておくんだろうな。


―END―


9/10/2022, 2:01:14 AM