euryale

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9/22/2022, 9:05:23 AM

【秋恋】


夕食の後、自室でゼミの課題レポートを書いていると、妹がやって来た。

「お姉ちゃん! 明日出掛けるから、服貸して!」
「うん、別にいいけど」

断る理由もないので了承すると、妹は早速、私の衣装ケースとクローゼットを全開にして中身を漁り出した。

「明日、秋晴れで涼しいんだって。さっき天気予報で言ってた」
「へぇ、お出掛けにはちょうどいいじゃん。良かったね。――っていうか、なんで私の服? あんただって、服いっぱい持ってるじゃんか」
「いや、秋服といえばお姉ちゃんでしょ。私のは、お姉ちゃんほど充実してないからさー」
「え?」

妹の言っていることがよく解らずに首を傾げていると、

「だってほら、見てみてよ、これ。ここに入ってる服、全部秋っぽいダークカラーじゃん。春っぽいパステルカラーの服なんて一枚もないし」
「……言われてみれば」

妹が示した衣装ケースの引き出しには、薄めの長袖服――つまり、春用の服と秋用の服を一緒に入れているのだが、見事にダークカラ揃いだった。

「お姉ちゃんって、春でも暗い色の服ばっかり着てるもんねー」
「し、白とか着てるよ?」
「いや、白はオールシーズンいけるから別枠でしょ。――あっ、これにする! これ貸して!」
「うん、いいよ」

妹はダークレッドのカットソーを手に、笑顔で部屋を出て行った。

「…………」

静かになった部屋で、私は改めて自分の衣装を確認する。

(自分じゃ全然気付かなかったけど、本当に秋色ばっかりだな、私の服……)

自分の服飾に対する関心は、人並みかそれ以下だと思っている。
「色んな服を着てみたい」という気持ちよりは「自分の好きな服を着たい」という気持ちが強く、服を買う時にはあまり冒険をせずに同じ系統のものばかり買ってしまう方だ。

(――にしたって、これはちょっと偏りすぎでしょ……)

落ち着いた色が好きだ。
肌がイエローベースなので、秋色が似合いやすい。
でも、私がついダークカラーを選んでしまう理由はそれだけじゃなくて……

(ああ、そうか……)
(カイくんが、よくこういう服を「可愛い、似合う」って言ってくれたからか……)

ふと、記憶が蘇る。
思い出したのは、高一の時に付き合っていた、私にとっての初めての彼氏のことだ。

彼――カイくんと私は、同じ予備校の夏期講座に通っていた。
それが終わるタイミングで彼に告白され、私はそれを受け入れることにした。
彼のことを好きだったのかというと、正直よくわからない。
もちろんそれなりの好意は持っていたが、それは恋と呼ぶには淡すぎるものだった気がする。
単に、告白というものを生まれて初めて受け、舞い上がってOKをしてしまっただけなのかもしれない。
まぁ、何にしても、私たちは付き合うことになった。

違う学校に通う私たちのデートは、文化祭に行くことが多かった。
彼の学校の文化祭に私が行き、私の学校の文化祭に彼が来た。
他にも、同じ予備校に通っていて、私たちのことを知っている友達の学校の文化祭にもいくつか行った。
「なんか文化祭ばかり行ってるよね」なんて言って、更に近くの大学の文化祭に行ってみたりもした。
とにかく、毎週のように別の学校の文化祭に顔を出していた。

(デートのために、いっぱい服を買ったっけ……)

文化祭シーズンなので、欲しかったのは秋服。
衣料店の目立つところには冬服が並んでいて、秋服はセールのワゴンの中だったので、安くなったものがたくさん買えた。

(毎回違う服を着ていく必要なんかなかったし、服を買いすぎだってお母さんにも怒られたけど……)

カイくんは、やたらと服を褒めてくれる人だった。
それがとても嬉しくて、つい服選びに気合が入ってしまったのだ。

「…………」

けれど結局、カイくんと私は年明けには別れてしまった。

カイくんに紹介された彼の幼馴染のナミちゃんという女の子が、どうやら彼のことを好きらしいと気付いてしまって――
ナミちゃんはすごくいい子だったから、私はすぐに彼女と仲良くなってしまって――
彼女は何も言わなかったけれど、私は何だかだんだん心苦しくなってきてしまって――
そうこうしてるうちに、ナミちゃんの友達がこっそり私のところに来て「ナミちゃんのためにカイくんと別れて欲しい」と言ってきて――

それで、色々考えて……
自分の気持ちとも向き合った結果、私は身を引くことにした。
誰にも事情を語らないまま、彼に一方的に別れを告げた。

「私はナミちゃんほど、カイくんのことを好きなわけじゃない」――
「彼のことは好きだけど……その気持ちは、まだ恋に満たないような仄かなものでしかない」――

そんな結論を出して……あれから五年が経った。

カイくんとナミちゃんは、私が身を引いた一年後に付き合い始めた。
一方的に幕引きをして、カイくんの気持ちを無視してしまったことを申し訳なく思っていたので、その話を聞いた時は心底ほっとした。
二人が今もラブラブカップルなのはもちろんのこと、私とナミちゃんもあれからずっと仲良しでいる。
まぁ、要するに、ハッピーエンド、ということだ。

「…………」

(でも、今にして思えば……)
(私も気持ちも、恋未満ってことはなかったのかもね……)

無自覚に衣装ケースの中をダークカラーで埋めてしまう程度には、私の中に未だに彼の影響が残っている。

あの淡い感情は――きっとちゃんと恋だったのだろう。


―END―


9/21/2022, 9:11:25 AM

【大事にしたい】


「あのさ、あたしもさ、本当はこんなこと言いたくないんだけど……」

ある日の夕食の後、千晶は言い辛そうに口を開いた。
その様子から「本当はこんなこと言いたくない」が彼女の本心であるとよく伝わってきた。

「一樹は……これからのこと、どう考えてるの?」
「これからのこと?」
「あたしら、付き合い始めてもう十年で、同棲始めてからだって七年以上が経ってるじゃない?」
「…………」

(ああ、結婚するとかしないとか、そういう話か……)

千晶が何を言いたいのかは、何となく察している。
しかし、彼女がどういうふうに話を持っていこうとするかに興味があるので、こちらからは核心に触れることはしない。

「男の人はさ、あんまりそういう感覚がないかもしれないけど、女はさ、出産に適齢期があるんだよ」
「そうだね」
「最近は高齢出産も珍しくないけど、本当はそれは良くないんだって。母体にも赤ちゃんにもリスクがあるし……」
「うん」
「あたしももうすぐ三十になっちゃうし……」
「…………」
「同い年でバリバリ働いてた友達も、最近はみんな次々に結婚して、妊活しててさ……」

高齢出産にはリスクがある。
そんなことは、俺だって知っている。

「だから、一樹はどう考えてるのかなって」

遠慮がちな上目遣いでこちらを伺う千晶の顔を見て――

(ああ、ついに来たか……)

さすがに感慨深いものが込み上げてくるが……それを理性で制する。
なるべく硬質に聞こえる声で、俺は淡々と告げた。

「俺は、千晶と結婚したいとも、子どもが欲しいとも思ってないよ」

「……えっ?」

千晶の顔が強張る。
しかし、それはすぐに醜く引き攣った笑みに変わった。

「そ、そうなの? そんなの、初めて聞いたんだけど……」
「うん、今、初めて言った」

千晶の顔がますます醜く歪んだ。

「いや、そんなこと……今頃になって初めて言われても、こっちとしては困るんだけど?」
「でも、俺の方だって聞かされたことないし」
「は?」
「千晶が結婚や出産についてどう考えてるのか、俺、これまでにちゃんと聞かせて貰ったことないよ」
「わ、私は! いずれは結婚して、子どもを作るものだと思ってたよ?」
「……なるほど」

俺の胸の中にあった氷のような罪悪感が、千晶の温水のような言葉によって溶け出していく。
この罪悪感に足を引っ張られるのではないかと危惧していた俺としては、千晶の相変わらずの言動には感謝しかない。

「一樹は、どういうつもりで私と暮らしてたの?」
「千晶のことが好きで、なるべく多くの時間を一緒に過ごしたいと思ってた。昔はな」
「……昔、は? ……ハハッ、じゃあ、今は違うんだ?」
「今は、家賃と家事が折半になるから一緒に暮らしてる。一人で暮らすより、二人で暮らす方が経済的で合理的だし」
「…………」

千晶が敵を見る目で俺を睨んでくる。
枷となり得る罪悪感が既に解けてしまった今となっては、そんな目で見られてもまるで心が痛まない。

「昔……具体的には五年前だな。その時は確かに、俺は千晶と結婚して子どもが欲しいと思ってた。俺が『結婚しよう』って言ったの、覚えてるか?」
「それは……覚えてるけど」
「でも、おまえがそれを嫌がった。俺が『高齢出産はリスクがあるから、早めに結婚して出産育児に備えて欲しい』って言ったのを、おまえが無理だと断った」
「っ、そ、それは! 仕方なかったんだよ! 新卒で入社してほんの二年で、結婚するとか育児休暇を取るとか、そんなの言えるような雰囲気じゃなかったし!」
「そう、おまえはあの時、俺との結婚より『雰囲気』に流されることを選んだ」
「――っ、なにそれ!? そんな言い方しなくていいじゃん! 何なの? あの時、結婚しなかったから、あたしのこと恨んでるの?」
「恨んではないよ。当時は、千晶の言うことももっともだって納得したし」

 俺と千晶は同い年で、彼女が入社二年目の時は俺も入社二年目だった。
 男女で多少の違いはあろうとも、彼女が言うところの『雰囲気』を俺が知らないわけじゃない。
 それでも、今後のことを考えればこそ、彼女には『雰囲気』なんかに打ち勝って俺との生活に向き合って欲しかった。
それが、偽らざる俺の本音だ。

「っ、だったら――」
「それに、その後は『あの時、結婚しなくて本当に良かった』って安堵の方が徐々に大きくなっていった。おかげで、千晶を恨む余地なんか全くなかったよ」

千晶の目から涙が零れ落ちた。
どうのこうので、女の涙には心を動かす力がある。
解けたはずの罪悪感が再構築されてしまわないように、俺は呼吸を整えた。

(いつからだったかな……)

ふと、気付けば――
俺は千晶の生き様の『醜さ』に嫌悪感を覚えるようになっていた。
そして、彼女を大事にしたいという気持ちが、少しずつ目減りしていくのに気付いた。

『昨日と同じ今日を過ごせば、今日と同じ明日が来る』――
千晶の暮らしぶりは、まるでそれを妄信しているかのように鈍重で浅薄だった。

依頼心が強く、雰囲気に流されてばかりで、外圧がなければ自分の将来のために自ら動こうとさえしない。
今回のことで言うなら、本当は言いたくもないのに、友人が相次いで結婚していく焦りから、俺に結婚や子どもの話をようやく切り出した。

(確かに、五年前はまだ新人で結婚するとか言い辛かっただろうよ)
(でも、あれから五年も経って、充分会社内の立場も固まったはずだぞ?)
(その間、その気さえあれば、いくらでも今後の話なんか出来たよな?)
(でも、こいつはそうしようとしなかった……)

俺はそれを怠惰だと思うし、いつしか彼女を見て「俺は絶対にこんなふうに堕落したくない」とまで考えるようになった。

失われた敬意を打算に置き換えずにいられるほど、俺は誠実な人間ではない。
やがて俺は、千晶との関係を割り切って考えるようになった。
さっき彼女に言ったように、生活は一人でするより二人でする方が経済的で合理的だ。
俺の中では既に、彼女は『ルームメイト』以外の何でもない。
となれば、こちらからこの便利な関係を崩すことにメリットはないので、いつか彼女の方から切り出してくるまで、何も言わずにいることに決めた。
そして、ついに今日、ようやっと彼女の方から話を振ってきたというわけだ。

(この惰性極まった関係もついに今日で終わりか……)

もの寂しさがないわけではない。
しかし、俺はいつか訪れる今日のために、千晶のいない生活を想定して準備をしてきた。
決して彼女に寄り掛かることなく、自分の面倒を自分で見ていくための習慣と環境を培ってきた。

「……一樹はさ、もう、私のことを大事に思ってくれてないんだね」
「そのことに、今、気付いたか?」
「……ううん。何となく、前からそんな気がしてたよ」
「……そうか」

(だったら、恥じた方がいいと思うけどな……)
(そんな気がしてたのに、見て見ぬふりで放置してた自分の怠慢ぶりを……)

彼女への嫌悪が、更に上塗りされた。


―END―

9/20/2022, 9:12:37 AM

【時間よ止まれ】


小説を書くこと――
それが、昔から私の趣味だった。

しかし、ここ最近……
思った通りに文章が書けず、私は悩んでいた。

(日本語って難しい……)

いわゆるスランプというやつだった。
でも、腐っていても仕方ないので、私は修行に取り組むことにした。
一日一題、お題を出してくれるアプリを見つけたので、それを使って作文をしてみようと思ったのだ。
これを続けたなら、文章能力の向上に役立つかもしれない。

そこで、日々取り組んでみたはいいが……

(あー……ダメだ、これ絶対に間に合わない……)

やはり、文章を書くのは難しい。
思った通りに書けず、今日も私は四苦八苦していた。

(どうしよう、このままじゃあ七時になっちゃう……)

夜の七時になれば、新たな今日のお題が発表される。
そうなれば、昨日のお題での投稿はもう出来ない。
つまり、それは明確なタイムリミットだった。

「あああああぁぁぁ! 書けないいいいぃぃぃぃ!」

焦って喚く私の足元に、白くて美しい天使が絡みついた。

《おい、何をやっている? 人間、僕への供物はどうした?》

「あああぁぁぁぁ、無理! 書けないっ! 間に合わないっ! 無理いいぃぃぃぃ!」

《やかましい! 早く供物をよこせ!》

短気な天使が、バンッ!と床を踏み鳴らす。

「あああああぁぁぁ、書けない、間に合わないいぃぃぃ! 時間よ止まれええええええぇぇぇぇ!!」

《供物よこせ!》

キレた天使が、私の足に噛み付いた。


―END―

9/19/2022, 4:14:51 AM

【夜景】


ビジネス街の東端にある30階建ての大きなビル。
その23階に、私の勤めるオフィスはある。

(あー……疲れた……)

19:28――
明かりの落ちた企画部と品質管理部の間を通り抜け、突き当たりまで廊下を進むと、そこは一面ガラス張りになっている。

大きすぎて『窓』という呼び方がどうにもピンと来ない、ガラスの壁――
その向こう側には、キラキラと眩い夜景が見えていた。
ビジネス街の東端にあるこのビルの東側の窓から見える景色は、ビジネス街ではなく、住宅街のもの。
つまり、宝石箱の一粒一粒――
あの明かり一つ一つの中に、人の暮らしが存在しているというわけだ。

(あらあら、今日もお綺麗なことで……)

我社のオフィスはこのフロア全てなのだが、休憩スペースは全部署共同でここ一箇所だけ。
コーヒーマシンやウォーターサーバーが設置されており、三人がけのベンチソファーが並んでいる。
私はコーヒーマシンの前に立ち、カフェラテを淹れ始めた。

(あー……本当に疲れた……)

コーヒーが抽出されるまでの間を使い、大きな伸びをして硬くなった身体をほぐしてやる。

(来月の展示会が終わるまでは、この調子で毎日残業になりそうね……)

私の所属する広報部にとって、今が一番の正念場だ。
とはいえ、この時間まで残って仕事をしているのは、私を含めても数人しかいないのだけれど。

(まぁ、残業は嫌いじゃないからいいんだけど……)

むしろ、他にやりたいことなんて何もないので、仕事が時間を埋めてくれるのは悪くない。
誰もが仕事以上に重みのあるプライベートを持っているわけじゃないのだ。
私は家族とは不仲だし、友人はいないし、趣味らしい趣味もない。
特に仕事が好きなわけでもないけど、相対的に仕事が一番大事ということになる。

「…………」

ただ、仕事が好きかどうかはともかく、夜のオフィスは静かで好きだ。
この休憩スペースも、人気が少なくて良い。
全部署共同なので、昼間のこの場所は常に人の姿が絶えず雑然としている。
なので、昼の休憩の際、私はいつもこの場ではなく、自分のデスクでコーヒーを飲むようにしている。

どうせ休憩をするなら、静かな方がいい。
誰にも話し掛けられたくないし、他者の会話を耳に入れたくもない。
まぁ、普段は誰にでもニコニコと人当たりよく接してるので、私がそんなふうに考えているなんて誰も思ってないだろうけど。

(ここで一人きりになれるのは、残業特権の一つよね……)

湯気の立つカップを手に、私はベンチソファーの方に移動した。
窓を背に腰を下ろし、カフェオレを一口飲んで……ふぅと息を吐く。

(うん、美味しい……)

そこで、誰かがこちらにやってくる気配を感じた。
チラリと壁時計に視線をやって、いつもの19:30であることを確かめる。

「お疲れさまです、進藤さん」

やって来た相手を確認して、朗らかな笑顔を向けた。
第二技術部に所属する彼は、私の三年先輩。
典型的な「コミュニケーションが不得手なのでエンジニアになりました」といった感じの人だ。

「……お疲れさまです」

ボソリと呟くような返事があり、進藤さんはコーヒーマシンの方に向かっていった。

「…………」

私はそれ以上カップに口をつけず、彼がコーヒーを淹れ終わるのを待つ。

(変な人なのよね、進藤さんって……)

はっきり言って、女子からはモテないタイプだ。
無愛想で陰気っぽく、あまり人と目を合わせようとしない。
残業三昧のせいか不健康な雰囲気があって、佇まいが不気味な感じがする。

でも――

(私は、好きなんだけどね。この人のこと……)

コーヒーを淹れ終えた彼は、こちら側にやってくる。
そして、私の座っているのとは別のベンチに向かって行った。
私と彼は、同じベンチに座るほどの仲ではないのだ。

彼はいつものように、夜景に背を向けて座面に腰を下ろした。
その瞬間、私の心にぽっと温かな光が灯る。

(今日も、夜景に背中を向けて座った……)

私はよく残業をするので、夜にこの休憩スペースで人と出くわすことが多い。
そこで何となく観察して気付いてしまったのだが、夜はみんな夜景が見える向きでベンチに座るのだ。
誰もが夜景の美しさを楽しみながら、コーヒーブレイクをしようとする。

(私と進藤さん以外は、みんな……)

頑なに窓の外を見ようとしない彼があまりに気になったので、一度尋ねてみたことがある。

「進藤さんって、いつもここで夜景に背中を向けて座りますよね。なんでですか?」――

すると彼は、いくらか煩わしそうに顔を顰めた後、

「……嫌いなんで、ここの夜景」――

と、俯きぎみにボソリと呟いた。
その瞬間、つい賛意が抑えられなくなってしまった私は、

「私もそう思います」――

と、返してしまった。
彼は少しだけ驚いた顔で、私の顔を見て……
その時、初めて、私と彼は正面から視線を交わらせた。
あの瞬間から……
彼のささやかな挙動が、私の胸に温かな灯火をくれるようになった。

「今日も遅くなりそうなんですか?」

と、声を掛けると、彼は一瞬だけこちらに視線を向け、

「……ええ、まぁ……S社が、急な仕様変更を告げてきて……」
「あぁ……それは大変ですね。急に変なこと言われても困りますよね」
「……はい。S社の仕事は嫌いです」
「私も展示会の件でS社とはよくやり取りしてるんですけど、S社は嫌いですね。勝手なことばかり言ってきますから」
「…………」

彼は俯いたまま、口元を笑みの形にしている。

「ねえ、進藤さんはもう夕食済まされたんですか?」
「……いえ。この近くの店……洒落てたり、賑やかだったりで嫌なんで……コンビニも遠いし……」
「そうですね、私もそうです。だから、夜ってつい食べ損ねてしまいますよね」
「…………」

彼の口元が笑っているのを確認して、私も笑顔になる。

(ああ、楽しい……)

嫌いな夜景に背を向けて――
彼と『嫌いなもの』の話をする。
どうして、こんなに楽しいのだろうか。

「お疲れさまでーす」

そこに、第三営業部所属で一年先輩の宮田さんがやってきた。

「お疲れさまです」

笑顔で挨拶をしつつ、私は心の中で舌打ちをする。

「……お疲れ、さまです」

まだ中身がたっぷり入ったままのカップを手に、進藤さんは立ち上がってそそくさと去っていく。
毎度そうなのだ。
他に人が来ると、進藤さんは行ってしまう。

「広報部、展示会の準備で大変そうだね」
「ええ、まあ。でも、営業部ほど忙しくはないですよ」
「まぁ、俺らは終始、お客さんの都合に振り回されっぱなしだからね」
「大変ですねぇ……」

(なーんて、もっと振り回されてるのは、技術部だと思うんだけど……)

「それよか、夕食はもう済ませた? まだなら一緒に何か食べに行かない?」
「お誘いありがとうございます。でも、私はもう済ませたので」
「えー、そうなの? 残念だな。この前1階にオープンしたカフェってもう行った? まだなら一緒に行こうと思ったのに」
「1階のカフェはまだ行ったことないです。オープン直後で混んでいる気がして」
「基本的に混んでるけど、この時間だとちょっとだけマシだからさ」
「まぁ、この時間はみんな居酒屋の方に行きますもんね」

適当に宮田さんとの会話を流しつつ、私は次の進藤さんとの時間について考える。

(明日も残業しなきゃね……)
(少なくとも、彼がここに来る19:30ジャストまでは必ず残っておかないと……)


―END―

9/17/2022, 8:17:24 PM

【花畑】


あれは私が十七、弟が十五の頃のことだった。

田舎で暮らしていた祖父が亡くなり、それを機に祖母が私たちの暮らす町の施設に入ることになった。
そこで祖父母の家の片付けをするため、私たち姉弟は両親に連れられ、田舎へとやってきた。

私たちにとっては、随分と久しぶりの帰省だったが――
古い家の片付けなんかに乗り気になれるわけもなく、私たち姉弟はただただ「面倒だ」と考えていた。
しかし、実際に家に着いてみると、祖母がかなり積極的に断捨離を進めていたため、家に残された物品は非常に少なかった。
片付けが予想以上にあっさり終わったことで私たちは気抜けし、滞在予定にも空白が生まれた。

「この近くに小さな神社があったよね?」
「そうだったか? 俺、覚えてねぇわ」

私たちの暮らす町から遠く離れた、この村。
この地を最後に訪れたのは、もう十年近くも前のこと。
弟はまだ小学校にも通っていなかったのだし、覚えてないのも当然だ。

「大人たちは明日、書類のことで長い話し合いをするらしいよ。私たちは暇だし、この辺りをうろちょろしてみようか」
「まぁ、それしかすることねぇもんなぁ」

こうして、私たちは十年ぶりにこの村を散策することにした。

視界一面に広がる田畑は、都会育ちの私には新鮮な光景だった。
山が近いのか、大きく茂った木の陰の広がりがまるで空を侵そうとしているかのように見える。
名前も知らない背の高い草の奥、濁った水を湛えた池が見え、そこからは蛙の鳴き声が聞こえていた。

「すごいね。同じ国の景色とは思えない……」

私は、どちらかと言うと「怖い」と感じた。
早く自分の町に帰りたいと思った。

「だよなぁ、すげぇや!」

弟は何だか楽しそうだった。
それに水を差したくなかったので、私は「もう帰ろうよ」の言葉をギリギリまで我慢することにした。

うっすらと記憶に残っていた神社だとか。
村に一つしかないらしい商店だとか。
そういったスポットにも立ち寄り、いよいよ行くところがなくなった私たちは、祖父母の家に戻ることにした。

「ここらへんはもう、ばーちゃんたちの土地なんだよな?」
「うん。うちの土地って結構広いらしいの。で、今後それを誰に貸し出すかって、今、大人たちで話し合ってるはずだよ」
「ふーん、そうなんだ?」
「今のうちにうまく話が纏まったら、何種類かの夏野菜を植えるのがまだ間に合うとか何とか……私もよく知らないけど」
「そんじゃあさ、うちの農地もぐるっと一周回って見てみようぜ?」
「えー……まぁ、別にいいけどさ……」

まだ探検し足りないといった様子の弟に、渋々付き合うことにする。
とはいえ、何も植えられていない農地を見て回るのはあまり楽しくはない。

「なぁ、こっちは……林かな?」
「そうね、そこもうちの土地だよ」
「へえ、これもかー」
「蛇とかいそうで怖いよね」
「あ、でも……俺、ここはなんか見覚えがある気がする」
「えっ?」
「この奥ってさ、なんか花畑とかなかった? レンゲがいっぱい咲いててさ」
「あ……」

弟に言われて、私の記憶も蘇った。
そう、確か――
私たちは十年前にその花畑で一緒に遊んだことがあるのだ。

「姉ちゃんはレンゲの花冠を作ってさ、俺は花をちぎって蜜を吸ってた」
「ああ、うん! あったよ、そんなことあった! 私もそれ覚えてる!」

共通の記憶に気分が高揚し、私たちは何の示し合わせもなく自然と林の中に踏み込んでいった。
蘇った記憶の中のピンクのレンゲ草の鮮やかさが、蛇が出そうな林に入る勇気をくれたのだ。

「抜けてすぐの所だったよな、確か」
「うん、そうだった気がする」

林は薄暗くてちょっと怖いのだが、拓けた場所にある花畑は日当たりが良くて明るかった気がする。
草の薄い所を上手に進んでいく弟に続いて、私も頑張って先に進んだ。

「……ここだ」

弟が立ち止まった。
私も歩みを止め、足元ばかりを注視して下がりきっていた視線を上に向けた。

すると、そこには――

「…………」

記憶にあった花畑はなかった。
背の高い雑草の覆い茂った、気味の悪い草むらがあるだけだった。

「…………」
「…………」

「……帰るか」
「……うん、もう帰りたい」

ついに我慢出来なくなってそうこぼすと、弟は素直にその通りにしてくれた。
また林を抜け、私たちはまっすぐ家に向かい、その後は町に帰る日までずっと屋内で過ごした。

……
…………

あれから、四十年が経った。
祖母はもちろん両親も既に亡くなった。
親が祖父母から相続した田舎の農地を、今度は私たちが相続することになった。
私は田舎の土地なんて欲しくもなかったが、何故か弟は欲しがった。
私は喜んで、その土地を弟に任せることにした。

「うちの農地って、確かかなり広かったよね? それを全部自分たちで管理してるんでしょう? 大変なんじゃないの?」
「まぁ、そりゃあな。でも、じーちゃんたちもやってたことだしな」

弟の奥さんが入院をしたので、その見舞いとして私は久しぶりにこの村を訪れた。
奥さんに「心配だから様子を見てきて欲しい」と頼まれたやって来た、元祖父母の家。
今は家屋の建て直しをして、弟夫妻の家になっている。

「それよか姉ちゃん、せっかく来たんだし、ちょっと一緒に来てくれよ」
「え? どこに?」
「外だよ。まぁ、いいから来いって」

弟にせがまれ、私は家の外に出た。
そうして、すたすたと歩いていく弟の背中について行く。

「こ、この奥に行くの!?」

弟は、暗い林の中に入っていこうとする。
私は躊躇して、思わず足を止めてしまった。

「ああ、姉ちゃん、覚えてねぇか?」
「えっ、何を???」

弟が何を言っているのか解らず、オロオロする私の顔を見て弟は可笑しそうに笑って、

「まぁ、いいからついて来いって」

と、林の中を進んでいく。

「えっ、ちょっと待ってよ!」

弟の歩いていくところは草が薄めだし、念のためウォーキングシューズで来たが……
それでもこういった道には慣れていないので歩きづらくて仕方ない。
足を取られないように気をつけて、懸命に道を辿っていく。

「よく頑張ったな、姉ちゃん」

弟が足を止めたので、私も足を止める。
何となくさっきまでと違う日当たりの良さを感じながら、ゆっくりと顔を上げた。

そこには――

「……っ!」

鮮やかなピンクと緑。
差し込んでくる暖かな春の陽光。

華やかながらも穏やかに。
そこにはレンゲの花畑が広がっていた。

「姉ちゃん、覚えてるか? 俺ら、ガキん頃、ここで一緒に遊んだんだぜ?」
「…………」

あまりに美しい光景過ぎて……
言葉が出てこない。
私はコクコクと首を縦に振って、弟に返事をした。

(そうだ、そんなことがあった……)
(何年前のこと?)

もう、五十年以上前のことだ。
なのに……
こうしてレンゲの群れを見ていると、あの時のことが鮮明に蘇ってくる。

「あっち……あっちの木の傍で、私は冠を作ったの。
作り方は……おばあちゃんが教えてくれた。
冠に使う分のレンゲを、私はたくさん摘んで手元に置いていて……
あんたは私の側まで来て、そのレンゲの花をちぎって蜜を吸うの。
レンゲはいくらでも咲いてるのに、わざわざ私の摘んだ分からちぎっていくのよ……うふふ」

情景が蘇り……
笑いと涙が同時に溢れてきた。
弟はそんな私を見て、面白そうに笑っている。

「じゃあさ、ばーちゃんが施設に入ることになった時、俺らがここに来たこと覚えてるか?
この花畑のことを思い出して一緒に林の奥まで来たけど、ただ雑草が茂ってただけでさ。俺はすごくガッカリしたね」
「うん……そういや、そんなことも、あったね……」

子どもの頃にここで遊んだ記憶ほど、鮮明には残っていないけれど……
でも、その記憶も蘇ってきた。

「綺麗な花畑ってな、人の手が入らないと出来ねぇんだよ。綺麗な花ってのは、すぐに雑草に負けちまうからな。
俺らがガキの頃に遊んだあの花畑は天然ものじゃなくて、じーちゃんやばーちゃんが作ったもんだったんだ」
「そう、だったの……
それじゃ、この花畑はあんたが作ってくれたのね……?」

グスグス鼻を鳴らし、涙を拭きながら微笑む私を見て、弟は「まぁな」と得意気に胸を張る。
それから、ぽつりと言った。

「綺麗な花畑。もう一度、姉ちゃんに見て欲しかったんだよなぁ」


―END―

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