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【大事にしたい】


「あのさ、あたしもさ、本当はこんなこと言いたくないんだけど……」

ある日の夕食の後、千晶は言い辛そうに口を開いた。
その様子から「本当はこんなこと言いたくない」が彼女の本心であるとよく伝わってきた。

「一樹は……これからのこと、どう考えてるの?」
「これからのこと?」
「あたしら、付き合い始めてもう十年で、同棲始めてからだって七年以上が経ってるじゃない?」
「…………」

(ああ、結婚するとかしないとか、そういう話か……)

千晶が何を言いたいのかは、何となく察している。
しかし、彼女がどういうふうに話を持っていこうとするかに興味があるので、こちらからは核心に触れることはしない。

「男の人はさ、あんまりそういう感覚がないかもしれないけど、女はさ、出産に適齢期があるんだよ」
「そうだね」
「最近は高齢出産も珍しくないけど、本当はそれは良くないんだって。母体にも赤ちゃんにもリスクがあるし……」
「うん」
「あたしももうすぐ三十になっちゃうし……」
「…………」
「同い年でバリバリ働いてた友達も、最近はみんな次々に結婚して、妊活しててさ……」

高齢出産にはリスクがある。
そんなことは、俺だって知っている。

「だから、一樹はどう考えてるのかなって」

遠慮がちな上目遣いでこちらを伺う千晶の顔を見て――

(ああ、ついに来たか……)

さすがに感慨深いものが込み上げてくるが……それを理性で制する。
なるべく硬質に聞こえる声で、俺は淡々と告げた。

「俺は、千晶と結婚したいとも、子どもが欲しいとも思ってないよ」

「……えっ?」

千晶の顔が強張る。
しかし、それはすぐに醜く引き攣った笑みに変わった。

「そ、そうなの? そんなの、初めて聞いたんだけど……」
「うん、今、初めて言った」

千晶の顔がますます醜く歪んだ。

「いや、そんなこと……今頃になって初めて言われても、こっちとしては困るんだけど?」
「でも、俺の方だって聞かされたことないし」
「は?」
「千晶が結婚や出産についてどう考えてるのか、俺、これまでにちゃんと聞かせて貰ったことないよ」
「わ、私は! いずれは結婚して、子どもを作るものだと思ってたよ?」
「……なるほど」

俺の胸の中にあった氷のような罪悪感が、千晶の温水のような言葉によって溶け出していく。
この罪悪感に足を引っ張られるのではないかと危惧していた俺としては、千晶の相変わらずの言動には感謝しかない。

「一樹は、どういうつもりで私と暮らしてたの?」
「千晶のことが好きで、なるべく多くの時間を一緒に過ごしたいと思ってた。昔はな」
「……昔、は? ……ハハッ、じゃあ、今は違うんだ?」
「今は、家賃と家事が折半になるから一緒に暮らしてる。一人で暮らすより、二人で暮らす方が経済的で合理的だし」
「…………」

千晶が敵を見る目で俺を睨んでくる。
枷となり得る罪悪感が既に解けてしまった今となっては、そんな目で見られてもまるで心が痛まない。

「昔……具体的には五年前だな。その時は確かに、俺は千晶と結婚して子どもが欲しいと思ってた。俺が『結婚しよう』って言ったの、覚えてるか?」
「それは……覚えてるけど」
「でも、おまえがそれを嫌がった。俺が『高齢出産はリスクがあるから、早めに結婚して出産育児に備えて欲しい』って言ったのを、おまえが無理だと断った」
「っ、そ、それは! 仕方なかったんだよ! 新卒で入社してほんの二年で、結婚するとか育児休暇を取るとか、そんなの言えるような雰囲気じゃなかったし!」
「そう、おまえはあの時、俺との結婚より『雰囲気』に流されることを選んだ」
「――っ、なにそれ!? そんな言い方しなくていいじゃん! 何なの? あの時、結婚しなかったから、あたしのこと恨んでるの?」
「恨んではないよ。当時は、千晶の言うことももっともだって納得したし」

 俺と千晶は同い年で、彼女が入社二年目の時は俺も入社二年目だった。
 男女で多少の違いはあろうとも、彼女が言うところの『雰囲気』を俺が知らないわけじゃない。
 それでも、今後のことを考えればこそ、彼女には『雰囲気』なんかに打ち勝って俺との生活に向き合って欲しかった。
それが、偽らざる俺の本音だ。

「っ、だったら――」
「それに、その後は『あの時、結婚しなくて本当に良かった』って安堵の方が徐々に大きくなっていった。おかげで、千晶を恨む余地なんか全くなかったよ」

千晶の目から涙が零れ落ちた。
どうのこうので、女の涙には心を動かす力がある。
解けたはずの罪悪感が再構築されてしまわないように、俺は呼吸を整えた。

(いつからだったかな……)

ふと、気付けば――
俺は千晶の生き様の『醜さ』に嫌悪感を覚えるようになっていた。
そして、彼女を大事にしたいという気持ちが、少しずつ目減りしていくのに気付いた。

『昨日と同じ今日を過ごせば、今日と同じ明日が来る』――
千晶の暮らしぶりは、まるでそれを妄信しているかのように鈍重で浅薄だった。

依頼心が強く、雰囲気に流されてばかりで、外圧がなければ自分の将来のために自ら動こうとさえしない。
今回のことで言うなら、本当は言いたくもないのに、友人が相次いで結婚していく焦りから、俺に結婚や子どもの話をようやく切り出した。

(確かに、五年前はまだ新人で結婚するとか言い辛かっただろうよ)
(でも、あれから五年も経って、充分会社内の立場も固まったはずだぞ?)
(その間、その気さえあれば、いくらでも今後の話なんか出来たよな?)
(でも、こいつはそうしようとしなかった……)

俺はそれを怠惰だと思うし、いつしか彼女を見て「俺は絶対にこんなふうに堕落したくない」とまで考えるようになった。

失われた敬意を打算に置き換えずにいられるほど、俺は誠実な人間ではない。
やがて俺は、千晶との関係を割り切って考えるようになった。
さっき彼女に言ったように、生活は一人でするより二人でする方が経済的で合理的だ。
俺の中では既に、彼女は『ルームメイト』以外の何でもない。
となれば、こちらからこの便利な関係を崩すことにメリットはないので、いつか彼女の方から切り出してくるまで、何も言わずにいることに決めた。
そして、ついに今日、ようやっと彼女の方から話を振ってきたというわけだ。

(この惰性極まった関係もついに今日で終わりか……)

もの寂しさがないわけではない。
しかし、俺はいつか訪れる今日のために、千晶のいない生活を想定して準備をしてきた。
決して彼女に寄り掛かることなく、自分の面倒を自分で見ていくための習慣と環境を培ってきた。

「……一樹はさ、もう、私のことを大事に思ってくれてないんだね」
「そのことに、今、気付いたか?」
「……ううん。何となく、前からそんな気がしてたよ」
「……そうか」

(だったら、恥じた方がいいと思うけどな……)
(そんな気がしてたのに、見て見ぬふりで放置してた自分の怠慢ぶりを……)

彼女への嫌悪が、更に上塗りされた。


―END―

9/21/2022, 9:11:25 AM