【花畑】
あれは私が十七、弟が十五の頃のことだった。
田舎で暮らしていた祖父が亡くなり、それを機に祖母が私たちの暮らす町の施設に入ることになった。
そこで祖父母の家の片付けをするため、私たち姉弟は両親に連れられ、田舎へとやってきた。
私たちにとっては、随分と久しぶりの帰省だったが――
古い家の片付けなんかに乗り気になれるわけもなく、私たち姉弟はただただ「面倒だ」と考えていた。
しかし、実際に家に着いてみると、祖母がかなり積極的に断捨離を進めていたため、家に残された物品は非常に少なかった。
片付けが予想以上にあっさり終わったことで私たちは気抜けし、滞在予定にも空白が生まれた。
「この近くに小さな神社があったよね?」
「そうだったか? 俺、覚えてねぇわ」
私たちの暮らす町から遠く離れた、この村。
この地を最後に訪れたのは、もう十年近くも前のこと。
弟はまだ小学校にも通っていなかったのだし、覚えてないのも当然だ。
「大人たちは明日、書類のことで長い話し合いをするらしいよ。私たちは暇だし、この辺りをうろちょろしてみようか」
「まぁ、それしかすることねぇもんなぁ」
こうして、私たちは十年ぶりにこの村を散策することにした。
視界一面に広がる田畑は、都会育ちの私には新鮮な光景だった。
山が近いのか、大きく茂った木の陰の広がりがまるで空を侵そうとしているかのように見える。
名前も知らない背の高い草の奥、濁った水を湛えた池が見え、そこからは蛙の鳴き声が聞こえていた。
「すごいね。同じ国の景色とは思えない……」
私は、どちらかと言うと「怖い」と感じた。
早く自分の町に帰りたいと思った。
「だよなぁ、すげぇや!」
弟は何だか楽しそうだった。
それに水を差したくなかったので、私は「もう帰ろうよ」の言葉をギリギリまで我慢することにした。
うっすらと記憶に残っていた神社だとか。
村に一つしかないらしい商店だとか。
そういったスポットにも立ち寄り、いよいよ行くところがなくなった私たちは、祖父母の家に戻ることにした。
「ここらへんはもう、ばーちゃんたちの土地なんだよな?」
「うん。うちの土地って結構広いらしいの。で、今後それを誰に貸し出すかって、今、大人たちで話し合ってるはずだよ」
「ふーん、そうなんだ?」
「今のうちにうまく話が纏まったら、何種類かの夏野菜を植えるのがまだ間に合うとか何とか……私もよく知らないけど」
「そんじゃあさ、うちの農地もぐるっと一周回って見てみようぜ?」
「えー……まぁ、別にいいけどさ……」
まだ探検し足りないといった様子の弟に、渋々付き合うことにする。
とはいえ、何も植えられていない農地を見て回るのはあまり楽しくはない。
「なぁ、こっちは……林かな?」
「そうね、そこもうちの土地だよ」
「へえ、これもかー」
「蛇とかいそうで怖いよね」
「あ、でも……俺、ここはなんか見覚えがある気がする」
「えっ?」
「この奥ってさ、なんか花畑とかなかった? レンゲがいっぱい咲いててさ」
「あ……」
弟に言われて、私の記憶も蘇った。
そう、確か――
私たちは十年前にその花畑で一緒に遊んだことがあるのだ。
「姉ちゃんはレンゲの花冠を作ってさ、俺は花をちぎって蜜を吸ってた」
「ああ、うん! あったよ、そんなことあった! 私もそれ覚えてる!」
共通の記憶に気分が高揚し、私たちは何の示し合わせもなく自然と林の中に踏み込んでいった。
蘇った記憶の中のピンクのレンゲ草の鮮やかさが、蛇が出そうな林に入る勇気をくれたのだ。
「抜けてすぐの所だったよな、確か」
「うん、そうだった気がする」
林は薄暗くてちょっと怖いのだが、拓けた場所にある花畑は日当たりが良くて明るかった気がする。
草の薄い所を上手に進んでいく弟に続いて、私も頑張って先に進んだ。
「……ここだ」
弟が立ち止まった。
私も歩みを止め、足元ばかりを注視して下がりきっていた視線を上に向けた。
すると、そこには――
「…………」
記憶にあった花畑はなかった。
背の高い雑草の覆い茂った、気味の悪い草むらがあるだけだった。
「…………」
「…………」
「……帰るか」
「……うん、もう帰りたい」
ついに我慢出来なくなってそうこぼすと、弟は素直にその通りにしてくれた。
また林を抜け、私たちはまっすぐ家に向かい、その後は町に帰る日までずっと屋内で過ごした。
……
…………
あれから、四十年が経った。
祖母はもちろん両親も既に亡くなった。
親が祖父母から相続した田舎の農地を、今度は私たちが相続することになった。
私は田舎の土地なんて欲しくもなかったが、何故か弟は欲しがった。
私は喜んで、その土地を弟に任せることにした。
「うちの農地って、確かかなり広かったよね? それを全部自分たちで管理してるんでしょう? 大変なんじゃないの?」
「まぁ、そりゃあな。でも、じーちゃんたちもやってたことだしな」
弟の奥さんが入院をしたので、その見舞いとして私は久しぶりにこの村を訪れた。
奥さんに「心配だから様子を見てきて欲しい」と頼まれたやって来た、元祖父母の家。
今は家屋の建て直しをして、弟夫妻の家になっている。
「それよか姉ちゃん、せっかく来たんだし、ちょっと一緒に来てくれよ」
「え? どこに?」
「外だよ。まぁ、いいから来いって」
弟にせがまれ、私は家の外に出た。
そうして、すたすたと歩いていく弟の背中について行く。
「こ、この奥に行くの!?」
弟は、暗い林の中に入っていこうとする。
私は躊躇して、思わず足を止めてしまった。
「ああ、姉ちゃん、覚えてねぇか?」
「えっ、何を???」
弟が何を言っているのか解らず、オロオロする私の顔を見て弟は可笑しそうに笑って、
「まぁ、いいからついて来いって」
と、林の中を進んでいく。
「えっ、ちょっと待ってよ!」
弟の歩いていくところは草が薄めだし、念のためウォーキングシューズで来たが……
それでもこういった道には慣れていないので歩きづらくて仕方ない。
足を取られないように気をつけて、懸命に道を辿っていく。
「よく頑張ったな、姉ちゃん」
弟が足を止めたので、私も足を止める。
何となくさっきまでと違う日当たりの良さを感じながら、ゆっくりと顔を上げた。
そこには――
「……っ!」
鮮やかなピンクと緑。
差し込んでくる暖かな春の陽光。
華やかながらも穏やかに。
そこにはレンゲの花畑が広がっていた。
「姉ちゃん、覚えてるか? 俺ら、ガキん頃、ここで一緒に遊んだんだぜ?」
「…………」
あまりに美しい光景過ぎて……
言葉が出てこない。
私はコクコクと首を縦に振って、弟に返事をした。
(そうだ、そんなことがあった……)
(何年前のこと?)
もう、五十年以上前のことだ。
なのに……
こうしてレンゲの群れを見ていると、あの時のことが鮮明に蘇ってくる。
「あっち……あっちの木の傍で、私は冠を作ったの。
作り方は……おばあちゃんが教えてくれた。
冠に使う分のレンゲを、私はたくさん摘んで手元に置いていて……
あんたは私の側まで来て、そのレンゲの花をちぎって蜜を吸うの。
レンゲはいくらでも咲いてるのに、わざわざ私の摘んだ分からちぎっていくのよ……うふふ」
情景が蘇り……
笑いと涙が同時に溢れてきた。
弟はそんな私を見て、面白そうに笑っている。
「じゃあさ、ばーちゃんが施設に入ることになった時、俺らがここに来たこと覚えてるか?
この花畑のことを思い出して一緒に林の奥まで来たけど、ただ雑草が茂ってただけでさ。俺はすごくガッカリしたね」
「うん……そういや、そんなことも、あったね……」
子どもの頃にここで遊んだ記憶ほど、鮮明には残っていないけれど……
でも、その記憶も蘇ってきた。
「綺麗な花畑ってな、人の手が入らないと出来ねぇんだよ。綺麗な花ってのは、すぐに雑草に負けちまうからな。
俺らがガキの頃に遊んだあの花畑は天然ものじゃなくて、じーちゃんやばーちゃんが作ったもんだったんだ」
「そう、だったの……
それじゃ、この花畑はあんたが作ってくれたのね……?」
グスグス鼻を鳴らし、涙を拭きながら微笑む私を見て、弟は「まぁな」と得意気に胸を張る。
それから、ぽつりと言った。
「綺麗な花畑。もう一度、姉ちゃんに見て欲しかったんだよなぁ」
―END―
9/17/2022, 8:17:24 PM