【夜景】
ビジネス街の東端にある30階建ての大きなビル。
その23階に、私の勤めるオフィスはある。
(あー……疲れた……)
19:28――
明かりの落ちた企画部と品質管理部の間を通り抜け、突き当たりまで廊下を進むと、そこは一面ガラス張りになっている。
大きすぎて『窓』という呼び方がどうにもピンと来ない、ガラスの壁――
その向こう側には、キラキラと眩い夜景が見えていた。
ビジネス街の東端にあるこのビルの東側の窓から見える景色は、ビジネス街ではなく、住宅街のもの。
つまり、宝石箱の一粒一粒――
あの明かり一つ一つの中に、人の暮らしが存在しているというわけだ。
(あらあら、今日もお綺麗なことで……)
我社のオフィスはこのフロア全てなのだが、休憩スペースは全部署共同でここ一箇所だけ。
コーヒーマシンやウォーターサーバーが設置されており、三人がけのベンチソファーが並んでいる。
私はコーヒーマシンの前に立ち、カフェラテを淹れ始めた。
(あー……本当に疲れた……)
コーヒーが抽出されるまでの間を使い、大きな伸びをして硬くなった身体をほぐしてやる。
(来月の展示会が終わるまでは、この調子で毎日残業になりそうね……)
私の所属する広報部にとって、今が一番の正念場だ。
とはいえ、この時間まで残って仕事をしているのは、私を含めても数人しかいないのだけれど。
(まぁ、残業は嫌いじゃないからいいんだけど……)
むしろ、他にやりたいことなんて何もないので、仕事が時間を埋めてくれるのは悪くない。
誰もが仕事以上に重みのあるプライベートを持っているわけじゃないのだ。
私は家族とは不仲だし、友人はいないし、趣味らしい趣味もない。
特に仕事が好きなわけでもないけど、相対的に仕事が一番大事ということになる。
「…………」
ただ、仕事が好きかどうかはともかく、夜のオフィスは静かで好きだ。
この休憩スペースも、人気が少なくて良い。
全部署共同なので、昼間のこの場所は常に人の姿が絶えず雑然としている。
なので、昼の休憩の際、私はいつもこの場ではなく、自分のデスクでコーヒーを飲むようにしている。
どうせ休憩をするなら、静かな方がいい。
誰にも話し掛けられたくないし、他者の会話を耳に入れたくもない。
まぁ、普段は誰にでもニコニコと人当たりよく接してるので、私がそんなふうに考えているなんて誰も思ってないだろうけど。
(ここで一人きりになれるのは、残業特権の一つよね……)
湯気の立つカップを手に、私はベンチソファーの方に移動した。
窓を背に腰を下ろし、カフェオレを一口飲んで……ふぅと息を吐く。
(うん、美味しい……)
そこで、誰かがこちらにやってくる気配を感じた。
チラリと壁時計に視線をやって、いつもの19:30であることを確かめる。
「お疲れさまです、進藤さん」
やって来た相手を確認して、朗らかな笑顔を向けた。
第二技術部に所属する彼は、私の三年先輩。
典型的な「コミュニケーションが不得手なのでエンジニアになりました」といった感じの人だ。
「……お疲れさまです」
ボソリと呟くような返事があり、進藤さんはコーヒーマシンの方に向かっていった。
「…………」
私はそれ以上カップに口をつけず、彼がコーヒーを淹れ終わるのを待つ。
(変な人なのよね、進藤さんって……)
はっきり言って、女子からはモテないタイプだ。
無愛想で陰気っぽく、あまり人と目を合わせようとしない。
残業三昧のせいか不健康な雰囲気があって、佇まいが不気味な感じがする。
でも――
(私は、好きなんだけどね。この人のこと……)
コーヒーを淹れ終えた彼は、こちら側にやってくる。
そして、私の座っているのとは別のベンチに向かって行った。
私と彼は、同じベンチに座るほどの仲ではないのだ。
彼はいつものように、夜景に背を向けて座面に腰を下ろした。
その瞬間、私の心にぽっと温かな光が灯る。
(今日も、夜景に背中を向けて座った……)
私はよく残業をするので、夜にこの休憩スペースで人と出くわすことが多い。
そこで何となく観察して気付いてしまったのだが、夜はみんな夜景が見える向きでベンチに座るのだ。
誰もが夜景の美しさを楽しみながら、コーヒーブレイクをしようとする。
(私と進藤さん以外は、みんな……)
頑なに窓の外を見ようとしない彼があまりに気になったので、一度尋ねてみたことがある。
「進藤さんって、いつもここで夜景に背中を向けて座りますよね。なんでですか?」――
すると彼は、いくらか煩わしそうに顔を顰めた後、
「……嫌いなんで、ここの夜景」――
と、俯きぎみにボソリと呟いた。
その瞬間、つい賛意が抑えられなくなってしまった私は、
「私もそう思います」――
と、返してしまった。
彼は少しだけ驚いた顔で、私の顔を見て……
その時、初めて、私と彼は正面から視線を交わらせた。
あの瞬間から……
彼のささやかな挙動が、私の胸に温かな灯火をくれるようになった。
「今日も遅くなりそうなんですか?」
と、声を掛けると、彼は一瞬だけこちらに視線を向け、
「……ええ、まぁ……S社が、急な仕様変更を告げてきて……」
「あぁ……それは大変ですね。急に変なこと言われても困りますよね」
「……はい。S社の仕事は嫌いです」
「私も展示会の件でS社とはよくやり取りしてるんですけど、S社は嫌いですね。勝手なことばかり言ってきますから」
「…………」
彼は俯いたまま、口元を笑みの形にしている。
「ねえ、進藤さんはもう夕食済まされたんですか?」
「……いえ。この近くの店……洒落てたり、賑やかだったりで嫌なんで……コンビニも遠いし……」
「そうですね、私もそうです。だから、夜ってつい食べ損ねてしまいますよね」
「…………」
彼の口元が笑っているのを確認して、私も笑顔になる。
(ああ、楽しい……)
嫌いな夜景に背を向けて――
彼と『嫌いなもの』の話をする。
どうして、こんなに楽しいのだろうか。
「お疲れさまでーす」
そこに、第三営業部所属で一年先輩の宮田さんがやってきた。
「お疲れさまです」
笑顔で挨拶をしつつ、私は心の中で舌打ちをする。
「……お疲れ、さまです」
まだ中身がたっぷり入ったままのカップを手に、進藤さんは立ち上がってそそくさと去っていく。
毎度そうなのだ。
他に人が来ると、進藤さんは行ってしまう。
「広報部、展示会の準備で大変そうだね」
「ええ、まあ。でも、営業部ほど忙しくはないですよ」
「まぁ、俺らは終始、お客さんの都合に振り回されっぱなしだからね」
「大変ですねぇ……」
(なーんて、もっと振り回されてるのは、技術部だと思うんだけど……)
「それよか、夕食はもう済ませた? まだなら一緒に何か食べに行かない?」
「お誘いありがとうございます。でも、私はもう済ませたので」
「えー、そうなの? 残念だな。この前1階にオープンしたカフェってもう行った? まだなら一緒に行こうと思ったのに」
「1階のカフェはまだ行ったことないです。オープン直後で混んでいる気がして」
「基本的に混んでるけど、この時間だとちょっとだけマシだからさ」
「まぁ、この時間はみんな居酒屋の方に行きますもんね」
適当に宮田さんとの会話を流しつつ、私は次の進藤さんとの時間について考える。
(明日も残業しなきゃね……)
(少なくとも、彼がここに来る19:30ジャストまでは必ず残っておかないと……)
―END―
9/19/2022, 4:14:51 AM