【喪失感】
『破れ鍋に綴じ蓋』という言葉がある。
壊れた鍋にも、それ相応の蓋があること。
ひいては、どんな欠点を持つ人にもそれに相応しい伴侶がいることの喩え。
その言葉を私に教えてくれたのも、蓮くんだった。
大学に入ってすぐ、チュートリアルとして研究室に向かうよう指示された。
なんでも、自分でやりたいことを見つけて研究室を選ぶ前にとりあえず研究室の制度を知って雰囲気を体験しておけ、とのことらしい。
学籍番号で適当に割り振られた研究室。
そこにいた一つ上の先輩が、蓮くんだった。
蓮くんは最初、私に全然興味なさそうで、一言も話し掛けてこなかった。
でも、新入生に興味を持って色々話し掛けてきた人達が好奇心を満たして去っていった後、私が困っていたりするとさり気なく助言をくれた。
私は小中時代に二回の転校経験があったので、何となく「最初に話し掛けて来る人より、こういう人の方が信用できる」ということを肌で知っていた。
彼は物静かで、知的な人だった。
親切だけど、どこか一線を引かれている感じがした。
思慮深くて、自他の内面に深い関心を持ち、しばしば哲学的な発言をした。
私はすぐに彼を好きになってしまった。
寝ても醒めても彼のことばかり考えるようになった。
彼と接点を持てた日は最高に幸せで、何もない日は溜め息ばかりを吐いていた。
とはいえ、私たちの進展は決して遅くはなかった。
夏になる頃にはもう、私たちの距離はだいぶ近付いていた。
私と蓮くんは、とにかくよく話が合った。
ちょっとした立ち話が一時間コースになり、
疲れてベンチに座って話しては二時間コースになり、
おなかが空いてファミレスに移動して語り合えば夜明かしコースになった。
どれだけ話しても話題は尽きず、私たち二人なら、永遠にだって話し続けられるんじゃないかと思ったものだ。
彼の価値観が新鮮だった。
厳密には、自分以外の人間がここまで自分に近い価値観を持っていることが新鮮だった。
もちろん完全一致なんて有り得ないし、お互いの個性による差異はあった。
でも、その差異が明らかになるのがまた良い刺激となって……ますます病みつきになってしまった。
彼のことは好きだったけど、特に頑張って彼にアプローチをした記憶はない。
後に、彼もまた同じことを言っていた。
私たちはただ「二人で過ごしたい」と強く望み、その結果、現実の方が引っ張られた。
私たちの望みは、双方が何の努力もしないままにすんなりと叶っていった。
何となく、雰囲気に流されて初めてのキスをして……
そこで初めて、私は彼に「好きです」と告白した。
それからお約束の「付き合ってください」も付け加えた。
すると彼は、
「付き合うのはやめた方がいいよ。俺、たぶん浮気するから」
と、至って真面目な顔で言った。
多分、普通なら、その言葉にはショックを受けるんだろう。
けれど、私はとても嬉しかった。
だってその言葉は『いかにも蓮くんが言いそうなこと』だったから。
「でもさぁ、私だって、たぶん浮気するよ?」
「そうなの?」
「今は絶対しないし、きっと今週はしない。でも、一ヶ月後、一年後……どんどん不確かになっていく」
「そうだね。俺もそう思う。『付き合う』って関係は、お互いが一途であり続けるという約束を交わすことだから……未来の自分を信用出来ない俺が手を出すのは不誠実な気がする」
「そんなの、私だって同じだよ? 私も蓮くんも、時間経過とともに変わっていくもの。今、どれだけ強い気持ちを持っていようと、いずれはそれが失われる日が来るよ」
自分に自信を持てない、似たもの同士。
私たちは『付き合う』という関係を結ぶに際して、一つのルールを決めた。
「もし、どちらかが浮気をしたら、浮気をした方が、二人の関係の決定権を持つ」――
つまり、仮に蓮くんが浮気をしたとして、
「他に好きな人が出来たから、おまえとは別れる」と言えば、私はそれを呑んで身を引く。
「他に好きな人が出来たから、その子とおまえと二股掛ける」と言えば、私はそれを呑んで二股を容認する。
そういうことになる。
逆も然りだ。
『浮気したもん勝ち』なこのルールを良しとする――
恐らく、世間一般的にはどうかしているんだろうけど……それが私たちだった。
まさに、破れ鍋に綴じ蓋とはこういうことなんだろう。
そうして、二年が経った夏……
「他に好きな人が出来た。別れて欲しい」
そう言って、蓮くんは唐突に私との関係を清算した。
その時の喪失感は凄まじく……
まさに、半身をもぎ取られたように痛かった。
(もし、本当に浮気だったら……)
(どれだけ良かったか……)
私と別れた後、彼はいきなり大学を辞めた。
連絡も一切つかなくなった。
(他に好きな人が出来たくらいで、卒業まであと半年のところで大学を辞めたりする?)
(そんなわけないよね?)
(ねぇ、本当は何があったの?)
(なんで、私には何も事情を話してくれなかったの?)
(遠慮したから?)
(役に立たないから?)
通じ合っていると信じていたから……
一方的に切り捨てられたことが、頼られていなかったことが、戦力外通告されたことが、
悲しくて、辛くて、苦しくて……
どうにかなってしまいそうなくらい痛かった。
……
…………
「大親友が少数と、まぁまぁ親しい友人が多数だったら、どっちがいい?」
「私は、大親友が少数の方がいいなぁ」
「俺もそう思う。でも、前者より後者の方が適応的で、健全で、望ましいらしい」
「まぁ、言ってることは解るよ。支えの数が少ないと、それが失われた時に大きく傾いてしまうもんね」
「そうそう。依存先は多いに越したことはない。一つが失われても他が残って支えになってくれるから」
…………
……
時間が傷を癒し……
なんとか立ち直ったふりが出来るようになった。
でも、私の中から、彼の影響が失われることはなかった。
(依存先は多いに越したことはない……)
狭くて深いのが、好きだった。
でも、その危うさを身をもって知ってしまった私は、浅くて広い生き方を選ぶことにした。
趣味を増やし、友人を増やし、好きなものをどんどん増やそうとした。
仕事も遊びも学びも、入れ込み過ぎない程度に打ち込んだ。
そして、そんな生活の中、出会った一人の男性と結婚した。
彼は、蓮くんとは全然違う。
単純で、とてもわかりやすい人だ。
子どもも二人生まれて、今はそれなりに幸せに暮らしている。
けど……
今でも、たまに妄想してしまう。
――もし、蓮くんが私の目の前に現れたら?
――今からでも、あの時のことをちゃんと説明して謝ってくれたら?
(そしたら、私……)
(今の家族と暮らしを全部捨ててでも、彼と……)
とてもいけないこと。
口が裂けても、誰にも言えないこと。
だけど、今でもそういう妄想をしてしまう。
(破れ鍋に綴じ蓋……)
その一体感を私は知ってしまった。
もし知らないままでいれば、きっと今を最高に幸せと感じられただろうに――……
―END―
9/10/2022, 6:12:28 PM